陳亮(読み)チンリョウ(英語表記)Chén Liàng

デジタル大辞泉 「陳亮」の意味・読み・例文・類語

ちん‐りょう〔‐リヤウ〕【陳亮】

[1143~1194]中国南宋思想家・文学者。永康(浙江せっこう省)の人。あざな同甫どうほ。号、竜川りゅうせん孝宗のとき、金との和議に反対する「中興論」を上奏したが採用されず、帰郷経世済民のための学を主唱して朱熹しゅき議論を交えた。著「竜川文集」「竜川詞」。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「陳亮」の意味・わかりやすい解説

陳亮 (ちんりょう)
Chén Liàng
生没年:1143-94

中国,南宋時代の思想家。字は同甫,号は竜川。浙江省永康の人。事功学派の雄。没落した貧しい家庭に生まれ,51歳でようやく科挙に合格(その翌年に没),その間何度も入獄憂目にあうなど,実生活は不遇であった。その人となりは豪放で,朱熹(しゆき)(子)からその学問も含めて〈粗豪〉と批判されたが,明の李贄りし)(卓吾)はかえってその〈粗豪〉を賞賛している(《蔵書》巻十六,名臣伝)。彼は朱熹に変わらぬ敬意を抱きつづけたが,その天理人欲説や義利の弁(道義功利峻別)には不満を隠さず,功業が成就してこそ有徳の人となり,事業が完成してこそ道理が立つと言い,功利を離れて徳も理もありえないと主張した。また彼は,金との抗戦を叫びつづけた熱烈な民族主義者であった。文章も巧みで,主著に《竜川文集》がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「陳亮」の意味・わかりやすい解説

陳亮
ちんりょう
(1143―1194)

中国、南宋(なんそう)の学者。永康(えいこう)(浙江(せっこう)省永康県)の人。字(あざな)は同甫(どうほ)、号は龍川(りゅうせん)、諡(おくりな)は文毅(ぶんき)。若いころより才気にあふれ、喜んで兵法を談じ、筆をとるとたちどころに数千言の文章を書いたという。1163年、宋と金(きん)との和睦(わぼく)が成立するや、彼はその和睦に反対し、中興論を上奏したが顧みられなかった。1178年ふたたび上奏文を出し、感動した光宗(在位1189〜1194)は大いに抜擢(ばってき)しようとしたが、辞退して郷里に帰っている。1193年進士第一位に及第し、簽書(せんしょ)建康府判官を授けられるが、翌1194年没している。学問の特徴は経世済民にあり、もっぱら事功に重点を置いたため事功学派、永康学派といわれる。著書に『龍川文集』30巻、『龍川詞』1巻がある。

[菰口 治 2016年2月17日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陳亮」の意味・わかりやすい解説

陳亮
ちんりょう
Chen Liang

[生]紹興13(1143)
[没]紹煕5(1194)
中国,南宋の文学者,政論家。永康 (浙江省金華県) の人。字,同甫。号,龍川。若い頃から才気があり,朱熹,辛棄疾と親交があった。常に宋王朝の対金軟弱政策に不満をいだき『中興五論』『酌古論』をつくり,また孝宗に再三上書して北方領土回復を説いた。紹煕4 (1193) 年進士に課せられた策問で「君道師道」を論じて光宗から及第第一に抜擢され,僉書建康府判官を授けられたが赴任前に没した。その政論は条理を尽し,憂国の熱情にあふれ,日本でも江戸時代末に愛読された。またでは豪放な風格をもち,激越な感情をこめた作が多い。文集『龍川文集』,詞集『龍川詞』。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の陳亮の言及

【事功学派】より

…中国,南宋時代,浙江省におこった学派。婺(む)州永康県の陳亮(ちんりよう),温州永嘉県の薛季宣(せつきせん)(1134‐73),陳傅良(ちんふりよう)(1137‐1203),葉適(しようてき∥ようてき)らがその代表的学者。その出身地にちなんで永康・永嘉学派ともいい,功利学派ともいう。…

※「陳亮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android