ちん‐・ずる【陳】
〘他サ変〙 ちん・ず 〘他サ変〙
① 申し述べる。ことばで述べる。口上を言う。
※
史記抄(1477)一一「奉
レ教して志を御前に陳せんことを願ことがはや久ぞ」
※美術真説(1882)〈
フェノロサ〉「前に陳ずるが如く、諸美術妙想の形状は各同じからず」
② いいわけをする。とやかくと言い張る。弁解する。釈明する。申し開く。
※東南院文書‐天喜四年(1056)四月二三日・東大寺所司等連署日記案「爰に寺中乃所司大衆、此由を陳せむと須留処爾」
③ ごまかしを言う。いつわりを申し立てる。うそをつく。〔
日葡辞書(1603‐04)〕
※
歌舞伎・韓人漢文手管始(
唐人殺し)(1789)一「『こりゃ、陳
(ちん)ずると為に成らぬぞ』『アア、申ます申ます』」
④ 並べる。陳列する。
※
東京新繁昌記(1874‐76)〈服部誠一〉三「盆卉の如き之を架上に陳す」
ひね【陳】
〘名〙
① 古くなること。売れ残ること。また、そのもの。〔名語記(1275)〕
※小鳥の巣(1910)〈
鈴木三重吉〉上「餡の黒い、陳物
(ヒネ)になった麺麭菓子」
② (晩稲)
おくての稲。〔十巻本和名抄(934頃)〕
③ 古くなった穀物や野菜。特に、前年以前に収穫した穀物。ひねごめ。〔志不可起(1727)〕
※
滑稽本・人情穴探意の裡外(1863‐65頃)二「ふやして釜わるのなら、モ一つ三年米
(ヒネ)にしなされ」
④ 大人びていること。老成していること。ませていること。こましゃくれていること。また、その人。ませ。
ひ・ねる【陳】
〘自ナ下一〙
① 年を経る。古くさくなる。ふける。
※浄瑠璃・心中万年草(1710)上「洒落をまうけの顔ひねて足らぬ心の花之丞」
② おとなびる。ませる。
※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)一「爰(ここ)にも恋の中立はかはらぬ物と詩を吟じ、年よりひねし御心」
ちん【陳】
中国の国名。
[一] 西周・
春秋時代に河南・安徽の一部を占めた小国。周の武王が舜の子孫を封じたのに始まる。紀元前四七八年、二四代で楚に滅ぼされた。
[二]
南北朝時代の南朝最後の王朝(
五五七‐五八九)。創建者は
陳覇先(武帝)。首都は建康(南京)。隋の文帝により五代で滅亡。
ちん・じる【陳】
〘他ザ上一〙 動詞「ちんずる(陳)」の上一段化した語。
※
御伽草子・
あきみち(室町末)「北の方仰けるやうは、おろかの殿の仰言や、〈略〉我等を具足し給へば、さやうの息も積るべしとぞちんじられける」
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デジタル大辞泉
「陳」の意味・読み・例文・類語
ちん【陳】
中国の国名。
春秋時代の列国の一。強国にはさまれた侯国で、都は宛丘(河南省淮陽県)。前478年、楚に滅ぼされた。
南北朝時代の、南朝最後の国。557年、梁の武将陳覇先が敬帝の禅譲を受けて建国。都は建康(南京)。589年、隋の楊堅(文帝)に滅ぼされた。
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陳 (ちん)
Chén
中国,南朝四王朝の一つ。557-589年。創業者は陳覇先(武帝)。呉興(江蘇省呉興)の微賤の家に生まれた陳覇先は,嶺南地方で武将として名をあげ,梁末に侯景の乱が起こると土豪勢力を糾合して贛江(かんこう)を北上,その平定に手柄をたてた。そのうえ,江南の混乱につけこんだ北斉の傀儡政権樹立のもくろみを粉砕し,梁にかわる王朝を創業。この王朝のもとで貴族は往時の勢力を失い,実力は梁末に各地に起こった土豪将帥層に帰した。文帝期には長江(揚子江)中流の王琳,江西省の周迪(しゆうてき),浙江省の留異,福建省の陳宝応等の割拠勢力を平らげて江南一円の支配を確立し,宣帝期には北斉から江北の土地を奪った。しかし,577年(建徳6)には北周が北斉を併せて華北の統一がなり,デカダンスの天子として史上に名高い後主のとき,陳は北周を継いだ隋の攻撃をうけて滅んだ(589)。こうして,東晋以来,約270年に及ぶ南北分裂の時代に終止符が打たれたのである。
→魏晋南北朝時代
執筆者:吉川 忠夫
陳 (ちん)
Chén
中国,春秋時代の侯国。?-前478年。前11世紀末,周武王が,舜の子孫の嬀満(きまん)を宛丘(河南淮陽県)に封じた国。春秋時代には12の有力諸侯の一つとしてかなりの地位を保っていたが,前7世紀以降,侯位相続をめぐる内乱がたびたびあり,しかも楚・斉・晋の間にあって,その圧迫に苦しみ,前531年楚の霊王に滅ぼされた。霊王の死後国の再興を許されたが,その後も楚の勢力下にあり,ときに呉の攻撃を受け,前478年に楚に滅ぼされた。
→春秋戦国時代
執筆者:伊藤 道治
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陳【ちん】
中国の国名,王朝名。(1)春秋時代の侯国。河南の一角を領有。舜(しゅん)の子孫と伝える。小国で振るわず,前478年楚に滅ぼされた。(2)南朝最後の王朝。557年陳覇先(武帝)が梁を奪って建国。一時は北進して北斉(斉)を攻めたが,やがて北方を統一した隋に攻められ,589年滅亡。→魏晋南北朝時代
→関連項目春秋戦国時代|南北朝|文帝(隋)|六朝文化
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陳
ちん
中国、南朝最後の王朝(557~589)。呉興郡(浙江(せっこう)省)の人、陳覇先(ちんはせん)(武帝)が建立した。陳覇先は身分の低い軍人であったが、梁(りょう)末の侯景の乱に際しその鎮圧に奔走して勢力を築き、梁の元帝が江陵で西魏(せいぎ)に襲殺されると敬帝をたて、やがて敬帝の禅譲を受けて即位し、建康(南京(ナンキン))に王朝を開いた。その死後、兄の子文帝が継ぎ、ついで廃帝、宣帝と続いたが、第5代の後主のときに隋(ずい)の文帝に滅ぼされた。その領域は、わずかに揚子江(ようすこう)中・下流以南と、宣帝の時代に北斉(ほくせい)から奪った淮南(わいなん)一帯を占めるにすぎなかった。この時期、南朝貴族は侯景の乱を境に多く没落しており、政治の中枢にあったのは武将出身者や身分の低い寒人(かんじん)であって、その点南朝のなかでは特異である。滅亡時、隋に入った人口は200万という。
[中村圭爾]
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陳
ちん
中国の南北朝時代の南朝最後の王朝(557~589)。梁(りょう)の太守であった陳覇先(ちんはせん)(武帝)が侯景の乱で勢力を強め,梁の敬帝から禅譲をうけて建国。都は建康(現,南京)。百済(くだら)のほか高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)の朝貢を毎年うける。しかし北朝には劣勢が続き,ついに隋の楊堅(ようけん)(文帝)の攻撃をうけて滅んだ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
陳
ちん
557〜589
南北朝時代の南朝最後の王朝
梁 (りよう) の部将陳覇先 (ちんはせん) が敬帝の譲りを受けて即位し,建康に都した。第4代宣帝までは北朝の北周・北斉とよく対抗し,一時北伐を試みたこともある。隋の楊堅 (ようけん) によって滅ぼされた。
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世界大百科事典(旧版)内の陳の言及
【魏晋南北朝時代】より
…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を[六朝]というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…
【南朝】より
…中国,東晋王朝を継いで江南に興亡した4王朝,すなわち[宋](420‐479),[斉](479‐502),[梁](502‐557),[陳](557‐589)の総称。北朝に対する呼名。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」