青年ボスニア(読み)せいねんぼすにあ

山川 世界史小辞典 改訂新版 「青年ボスニア」の解説

青年ボスニア(せいねんボスニア)
Mlada Bosna

ハプスブルク帝国ボスニアの近代化を求めて,1890年代中頃に生まれた青年の文学・政治サークルの総称。ボスニアの主要な諸都市に集まったのは,主として農村出身の中等学校(ギムナジウム)の生徒たちであった。1908年のハプスブルク帝国によるボスニア併合後,運動は活発化した。このサークルに参加した青年たちは雑多な思想の影響を受けていた。ロシアの思想家チェルヌイシェフスキーゲルツェンバクーニンの著作が好んで読まれたほか,イタリアのマッツィーニの影響も強く,青年ボスニアという名称は青年イタリアにちなんでいる。ハプスブルク帝国の軍事占領からの解放と,民族や宗教の違いを超えた南スラヴの統一がめざされた。サライェヴォ事件に関与したプリンツィプらはこのサークルに参加していた。第一次世界大戦とともに消滅

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の青年ボスニアの言及

【サラエボ事件】より

…フェルディナント夫妻は,オーストリア・ハプスブルク帝国軍の演習を観閲するために当地を訪問していた。射殺したのは,南スラブ族の統一を目指す〈青年ボスニア〉に属するボスニア出身のセルビア人ガブリロ・プリンツィプGavrilo Princip(1894‐1918)。刺客はプリンツィプを含めて7人であった。…

【ボスニア・ヘルツェゴビナ】より

…以後,セルビア王国の対オーストリア感情は極度に悪化し,第1次大戦の直接的な原因が作られた。併合後,ボスニア・ヘルツェゴビナでも中等学校や専門学校の生徒たちを中心とする反オーストリアと南スラブの統一を掲げた〈青年ボスニア〉の運動が活発になる。
[ユーゴスラビア内のボスニア・ヘルツェゴビナ]
1914年6月28日,オーストリア・ハンガリー軍を観閲するためサラエボにやってきたフランツ・フェルディナント大公夫妻は,〈青年ボスニア〉に属するセルビア人学生プリンツィプにより暗殺された。…

※「青年ボスニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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