朝日日本歴史人物事典 「青木宣純」の解説
青木宣純
生年:安政6.5.19(1859.6.19)
明治期の陸軍軍人。薩摩藩の支藩である佐土原藩(宮崎県佐土原町)の藩士青木新蔵の長男で,娘は陸軍中将磯谷廉介の妻。陸軍幼年学校,陸軍士官学校に学び山砲2大隊付となる。明治17(1884)年砲兵中尉,参謀本部付の資格で中国に派遣され,20年まで中国語を修得し,多くの知己を得た。帰国後陸士教官,参謀本部局員を経て,24年から26年までベルギーに留学,帰国後参謀本部第2局員。日清戦争(1894~95)では山県有朋の率いる第1軍の参謀を務め,田村怡与造と親しくなった。30年から33年まで清国公使館付となり,袁世凱(のち中華民国初代大総統)らと親交を結び,陸軍を代表する中国通となった。日露間が険悪となった36年秋,参謀次長児玉源太郎の強い要請を受け,3回目の清国公使館付となって,諜報・謀略活動を行うことになった。公使館を本部として,日本軍人,中国人を組織,袁世凱を味方に入れ,馬賊を使嗾して情報収集,鉄道・電話線の破壊,後方かく乱などを実施,日露戦争(1904~05)での日本の勝利に多大の貢献をなし,謀略将軍と仇名された。大正2(1913)年中将に進み旅順要塞司令,12年黎元洪軍事顧問となったが,帰国の途中病死した。<参考文献>佐藤垢石『青木宣純』
(田中宏巳)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報