高松城跡〈香川県〉(読み)たかまつじょうあと

国指定史跡ガイド 「高松城跡〈香川県〉」の解説

たかまつじょうあと【高松城跡〈香川県〉】


香川県高松市玉藻(たまも)町にある城跡。別名、玉藻城。『万葉集』で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにより、このあたりの地名に玉藻が残ったという。城地は北が瀬戸内海に面し、東も海に近く、西には標高233mの石清尾山(いわせおやま)があり、南だけが陸続きである。本丸を中心として時計回りの方向に、二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が配置され、3重の堀が取り囲んでいる。外堀、中堀、内堀のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるという、水軍の運用も見越した日本初の本格的な海城であった。往時は本丸に3重5層の天守が聳え、要所には約20の櫓(やぐら)があり、威容を誇っていたが、現在では建物はほとんどが取り壊され、内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられた。城域は往時の約8分の1、約8万m2になっているが、北の丸に残る月見櫓、水手御門(みずのてごもん)、渡り櫓、東の丸にあった艮(うしとら)櫓は国の重要文化財に、城跡は城郭史上貴重な遺跡として1955年(昭和30)に国の史跡に指定された。1587年(天正15)、生駒親正(いこまちかまさ)が讃岐17万石を与えられ、翌年から築城を始めて1590年(天正18)に完成した。生駒氏4代の後、1642年(寛永19)に徳川家康の孫にあたる水戸徳川家出身の松平瀬重(よりしげ)が常陸下館から入り、1669年(寛文9)には天守を完成させ、以後、高松藩主の居城として松平家11代が明治維新まで続いた。東の丸に残る一連石垣とその背後土坡(どは)が、1984年(昭和59)に国史跡に追加指定された。現在は高松市立玉藻公園として有料で開放されている。JR高徳線高松駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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