鳥取藩(読み)とっとりはん

改訂新版 世界大百科事典 「鳥取藩」の意味・わかりやすい解説

鳥取藩 (とっとりはん)

因幡国鳥取(久松山)城主支配下の藩。1581年(天正9)再度の鳥取城攻略により,因幡国の大半を支配下に収めた羽柴(豊臣)秀吉は,織田信長の死後みずからの部将宮部継潤を鳥取城主とし,上美(うわみ)(邑美),法美,八上,高草の4郡,4万3000余石を支配させた。宮部氏は2代長煕まで在城したが,実質的には秀吉の国内統一戦争などに従うことが多く,領内統治について知られることは少ない。ただ垣屋光成・恒総父子支配下の浦富藩領の巨濃(この)郡銀山から産出する銀を直接管理したようで,1598年(慶長3)長煕(兵部法印)の名で伏見の秀吉のもとに運上9282枚3両6分2厘を送っている(慶長三年蔵納目録)ことが知られる。

 1600年の関ヶ原の戦で西軍に従った宮部氏に代わって,近江国から池田長吉が入部して鳥取城主となり,宮部時代の高草郡を除く3郡と西軍垣屋恒総の跡の巨濃郡を加えて4郡6万石を領し,約17年在城した。その間,天守や城郭の修築・整備を行うとともに,鳥取の外港ともいうべき高草郡賀露の港を八上郡袋河原村と交換に,隣藩の鹿野藩亀井茲矩(これのり)から譲り受け,鳥取城下の発展をはかったと伝える。また千代川の堤防の増強を亀井氏と競争で行い,境界争いにも勝利するなどの治績が断片的に知られる。17年(元和3)姫路城主池田光政が幕府の転封政策により鳥取城主とされ,因幡・伯耆一円(大山領,安養寺領を除く)32万石を支配することになり,長吉の子長幸は備中国松山城主として移封された。播磨国42万石の家臣団を率いて入部した光政(9歳)は家老の補佐により,従来の6万石の規模の城郭・城下町の大拡張を行った。城の外堀の役目と城下町の交通・運輸路の機能を果たさせるため,新たに袋川を掘らせる大土木工事を行った。また領内の米子,倉吉,鹿野の旧城下には家老を配置して,領内統制を強化した。池田光政は1632年(寛永9)従弟池田光仲(3歳)と交替して,備前国岡山に移封された。

 岡山から入部した光仲は徳川家康の外曾孫という関係から,32万石の外様大藩でありながら親幕的な性格をもった。鳥取池田家は初代光仲以後明治廃藩まで約240余年存続し,2代目綱清から吉泰,宗泰,重寛(しげのぶ),治道,斉邦,斉稷(なりとし),斉訓(なりみち),慶行,慶栄(よしたか)を経て12代目慶徳と相ついだ。初期藩政の基本は年貢の増徴に向けられ,新田開発も盛んで1632年から1700年(元禄13)までの間に今高(現実の石をいう。拝領高は42万石)は約2万6000石余の増加をみせ,1869年(明治2)の今高は41万7124石余となっている。1698年採用した請免法という徴税政策は定免制を中心とし,土地政策にも関係するもので幕末まで行われたが,それに反対する一揆が1717年(享保2),39年(元文4)起こっている。このほか,18世紀中ごろ宝暦・明和年間(1751-72)から国産流通統制が順次行われ,95年(寛政7)の国産方,1818年(文政1)の国益方はその一例である。55年(安政2)からの藩政改革も幕末中央政局に影響することなく維新を迎えた。71年廃藩となり,もとの藩領因幡・伯耆両国がそのまま鳥取県とされた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鳥取藩」の意味・わかりやすい解説

鳥取藩
とっとりはん

因州(いんしゅう)藩ともいう。江戸時代、因幡(いなば)・伯耆(ほうき)両国32万石を領有した外様(とざま)の大藩。関ヶ原の戦いに因・伯の大名はほとんど西軍に属して除封され、かわって因幡に池田長吉(ながよし)、山崎家盛(いえもり)、亀井茲矩(これのり)、伯耆に中村忠一(ただかず)が配された。1617年(元和3)播磨(はりま)姫路城主池田光政(みつまさ)が因・伯両国32万石に移され鳥取城に入った。1632年(寛永9)備前(びぜん)岡山城主池田忠雄(ただかつ)が死去、3歳の光仲が家を継ぐが、幕府は光仲と光政の国替を命じ、光仲が鳥取城に入った。以来12代にわたって光仲系池田氏が因・伯を領有し明治維新に及ぶのが鳥取藩である。藩政は光仲によって確立され、その子仲澄(なかずみ)・清定(きよさだ)は、それぞれ1685年(貞享2)、1702年(元禄15)に新田高をもって分知分家され、東館(ひがしやかた)・西館(にしやかた)と称した。1698年(元禄11)徴租法を改革して請免(うけめん)制を施行したが、1739年の「元文(げんぶん)四年一揆(いっき)」(因伯(いんぱく)一揆)は藩内外に重大な影響を与えた。宝暦(ほうれき)の藩政改革は、請免制の立て直し、藩校尚徳館(しょうとくかん)の創設、殖産商工政策にも及ぶ。殖産政策は1765年(明和2)蝋(ろう)座の設置以来本格化した。国産品としてはこのほか鉄と綿、木綿が注目される。5代重寛(しげのぶ)、6代治道(はるみち)の時代は文化の高揚期であった。幕末には相次いで藩主が交代し藩政は不安定であった。1850年(嘉永3)水戸の徳川斉昭(なりあき)の五男慶徳(よしのり)を12代藩主に迎えて藩政改革を実施する。激動期に藩論の統一に苦労しつつ明治維新を迎えた。廃藩後、鳥取県となり、一時島根県に合併されたが、1881年(明治14)鳥取県が再置された。

[福井淳人]

『池田家編纂所編『鳥取藩史』全6巻(1969~71・鳥取県)』『『鳥取県史』全18巻(1969~82・鳥取県)』『山中寿夫著『鳥取県の歴史』(1970・山川出版社)』『徳永職男他著『ふるさとの歴史・江戸時代の因伯』上下(1978、80・新日本海新聞社)』『河手龍海著「因州藩鳥取池田家の成立」(『郷土シリーズ 17』1980・鳥取市社会教育事業団)』

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藩名・旧国名がわかる事典 「鳥取藩」の解説

とっとりはん【鳥取藩】

江戸時代因幡(いなば)国邑美(おうみ)郡鳥取(現、鳥取県鳥取市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は尚徳館(しょうとくかん)。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで西軍についた宮部氏に代わって、池田信輝(のぶてる)の3男長吉(ながよし)が6万石で入封(にゅうほう)して立藩。17年(元和(げんな)3)には、姫路藩主の池田光政(みつまさ)が因幡国、伯耆(ほうき)国の2国32万石を与えられて入封した。32年(寛永(かんえい)9)に岡山藩主の池田忠雄(ただかつ)が死去すると、光政が岡山に入り、忠雄の子で3歳の光仲(みつなか)が鳥取藩へ移封された。以後明治維新まで、光仲の分家筋が山陰随一の大藩である鳥取藩を12代にわたって治めた。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍に属し、明治初年には新田開発により内高(うちだか)(実際の石高)は41万7000石に達した。1871年(明治4)の廃藩置県で鳥取県となり、76年島根県に一時合併されたが、81年に鳥取県として再置された。◇因州(いんしゅう)藩ともいう。

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百科事典マイペディア 「鳥取藩」の意味・わかりやすい解説

鳥取藩【とっとりはん】

因州(いんしゅう)藩とも。因幡(いなば)国鳥取に藩庁をおいた外様(とざま)藩。池田長吉(ながよし)が整備,その後一族の池田光政(みつまさ),1632年からは光政の従弟光仲(みつなか)(鳥取池田氏祖)が入封,幕末に至った。領知高は因幡・伯耆(ほうき)2国で約32万石。外様とはいえ光仲が徳川家康外曾孫であったことから,親幕の性格を維持した。鳥取城跡は国指定史跡。
→関連項目因幡国天誅組鳥取藩元文一揆

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鳥取藩」の解説

鳥取藩
とっとりはん

因幡国鳥取(現,鳥取市)を城地とする外様大藩。因幡・伯耆両国を領有。1600年(慶長5)関ケ原の戦後,池田輝政の弟長吉が6万石で入封。17年(元和3)長幸(ながよし)のときに備中国松山に転封となり,かわって播磨国姫路から池田光政が32万石で入る。32年(寛永9)従兄弟の備前国岡山藩の池田光仲との間で領地替えとなり,以後12代にわたって光仲系が領した。外様ではあるが,光仲が徳川家康の外曾孫にあたるため,家門に準じる扱いをうけ,代々松平を称した。元禄年間頃までにほぼ藩政の基礎を確立し,内分支藩2家を設置(鳥取新田藩,のちの鹿野(しかの)・若桜(わかさ)両藩)。また要衝の米子・倉吉などには重臣を配して支配させた。1739年(元文4)全藩規模の一揆(因伯一揆)がおこる。特産物は鉄や紙(因州和紙),木綿など。詰席は大広間。藩校尚徳館。廃藩後は鳥取県となる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鳥取藩」の意味・わかりやすい解説

鳥取藩
とっとりはん

因州藩ともいう。江戸時代,因幡国 (鳥取県) 鳥取地方を領有した藩。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いののち宮部氏5万石に代って池田長吉 (ながよし) が6万石で入封。元和3 (17) 年長幸 (ながゆき) のとき備中 (岡山県) 松山へ移封し,代って池田光政が播磨 (兵庫県) 姫路から 32万石で入封,寛永9 (32) 年に同族の備前 (岡山県) 岡山の池田光仲と交代した。貞享2 (85) 年4代綱清のとき弟仲澄に新墾田2万 5000石を分与 (同国鹿野藩) し,元禄 13 (1700) 年5代吉泰のとき清定に新墾田1万 5000石 (同国若桜〈わかさ〉藩) ,仲澄に 5000石 (鹿野藩) を分与して 32万 5000石となり,15代慶徳 (よしのり) のとき廃藩置県となった。外様,江戸城大広間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「鳥取藩」の解説

鳥取藩

因幡国、鳥取(現:鳥取県鳥取市)を本拠地とし、因幡、伯耆(ほうき)の2国を領有した外様藩。藩主は池田氏。鳥取城(久松山城)跡は国の史跡に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の鳥取藩の言及

【池田氏】より

…さて,姫路城主利隆は16年(元和2)に死去し,子光政は因幡・伯耆両国32万石に減封になって鳥取に在城した。一方,岡山城主忠雄は32年(寛永9)死去し,このとき備前と因伯両国との国替が命ぜられ,光政系統が岡山藩主,光仲系統が鳥取藩主となった。ともに松平の称を与えられ,国主。…

【池田慶徳】より

…鳥取藩最後の藩主。幼名五郎麿のち昭徳,慶徳,号は省山。…

※「鳥取藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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