鶴屋南北(読み)つるやなんぼく

精選版 日本国語大辞典 「鶴屋南北」の意味・読み・例文・類語

つるや‐なんぼく【鶴屋南北】

江戸後期の歌舞伎作者。四世。江戸の人。俗に大南北(おおなんぼく)。はじめ初世桜田治助、のち金井三笑に入門。享和三年(一八〇三立作者となり、文化八年(一八一一)四世南北を襲名。江戸劇壇の代表的作者となり、生世話(きぜわ)を完成、怪談物を創始。「東海道四谷怪談」「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)」など多数の作品がある。宝暦五~文政一二年(一七五五‐一八二九

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デジタル大辞泉 「鶴屋南北」の意味・読み・例文・類語

つるや‐なんぼく【鶴屋南北】

歌舞伎狂言作者。3世までは俳優。
(4世)[1755~1829]江戸の人。おお南北ともいう。本名、伊之助または勝次郎。別号、姥尉輔うばじょうすけ。初世桜田治助に学んで桜田兵蔵と称し、のち沢兵蔵・勝俵蔵を経て、文化8年(1811)南北を襲名。世話物を得意とし、すぐれた舞台構成と写実的作風の傑作をのこした。代表作染久松色読販おそめひさまつうきなのよみうり」「東海道四谷怪談」など。
(5世)[1796~1852]4世の女婿の養子。孫太郎南北・小南北ともいう。3世瀬川如皐せがわじょこう河竹黙阿弥の師。

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改訂新版 世界大百科事典 「鶴屋南北」の意味・わかりやすい解説

鶴屋南北 (つるやなんぼく)

歌舞伎俳優(初世~3世),歌舞伎作者(4世~5世)。(1)初世(?-1736(元文1)) 道外方南北孫太郎。元禄(1688-1704)末から正徳期(1711-16)に江戸山村座また市村座で活躍した。(2)2世(?-1762(宝暦12)) 一説に1763年没。初世の子。初名源蔵。俳名魯風。父と同じく道外方。1726年(享保11)に上上吉の位となり,初世嵐音八,二朱判吉兵衛とともに江戸の道外方の三幅対といわれた。(3)3世 生没年不詳。2世の子。1765年(明和2)7月の紋番付にあらわれる。その娘お吉の婿が4世南北をつぐ。(4)4世(1755-1829・宝暦5-文政12) 海老屋伊三郎という紺屋の型付職人の子として,日本橋新乗物町に生まれる。幼名源蔵,のちに伊之助または勝次郎と改めたと伝えられる。1776年(安永5),見習作者として芝居の世界に入った。77年11月,初世桜田治助を立作者とする中村座に,桜田兵蔵の名で出勤するが,79年11月には名前が消える。翌80年5月,市村座に沢兵蔵と改名し,81年(天明1)8月から約半年消息をたったが,翌82年4月から森田座へ勝俵蔵の名で再勤する。いらい長い下積みの習作生活をかさね,先輩作者の助筆,補綴,〈小幕〉とよばれるコミカルな短い幕の執筆などを続けた。1803年(享和3)閏1月河原崎座の《世響(よにひびけ)音羽桜》で,はじめて立作者の地位にすわり(49歳),翌04年(文化1)7月河原崎座で初世尾上松助にあてて書いた《天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)》が,水中早替りなどのケレンで観客を瞠目させ,約2ヵ月半のロングランとなって大成功をとげた。南北はこれ以降25年間の作者生活を通じて,尾上松助のほか当時劇界3頭目としての地歩を占めつつあった5世松本幸四郎,3世坂東三津五郎,5世岩井半四郎,また新進の3世尾上菊五郎,7世市川団十郎らにはめて合計120編余の作品を書いた。

 その執筆年代は,おおまかにはいわゆる化政期(1804-30)と称される時期に該当するが,松平信明寛政改革の方針をうけついで老中首座にあった文化年間(1804-18)と,それ以後との2期にわけて考えられ,また1811年(文化8)11月に,義父の名跡,南北を襲名した時点(57歳)をもって2分することも考えられる。しかし現れた傾向はとくに画然とした作風の変化はない。むしろ一貫して迫真的な市井風俗や下層民衆生活を描写する〈生世話(きぜわ)〉の追求,また当時の観客の嗜好でもあった残虐な殺し場やきわどい濡れ場の描出に力点をおき,劇的展開と,仕掛物や亡霊などによる怪奇趣味,あるいは奇抜な趣向によって異質なもの同士を結合させ,世界の複合性を構築してゆくドラマツルギーなどが大きな特徴であったといえよう。

 前期の代表作としては,公卿が辻君となって春をひさぐ趣向が評判となった《四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)》(1804年11月河原崎座),小幡(こばた)小平次の怪談に皿屋敷と天竺徳兵衛の世界を綯交(ないま)ぜにし,松助が小平次,鉄山,おとわなどの役々を演じた《彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)》(1808年閏6月市村座),幸四郎が演じた〈馬盥(ばだらい)の光秀〉の《時桔梗出世請状(ときもききようしゆつせのうけじよう)》(1808年7月市村座),すでに好評を博した天竺徳兵衛を土台に阿国御前(松助)の怪談,累・与右衛門の早替り(栄三郎を3世菊五郎)を見せた《阿国御前化粧鏡(けしようのすがたみ)》(1809年6月森田座),本町糸屋の娘お房とお時(二役,半四郎)と本庄綱五郎(三津五郎),半時九郎兵衛(幸四郎),お祭左七(松助)らの活躍する《心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)》(1810年1月市村座),白藤源太の書替えの世話狂言で釣鐘権助(幸四郎)が源太(三津五郎)に殺される《勝相撲浮名花触(かちずもううきなのはなぶれ)》(1810年3月市村座),善玉悪玉双方で18人ないし21人の登場人物が惨殺される返り討狂言で,幸四郎が左枝大学之助と立場の太平次という時代と世話の敵役を演じわけた《絵本合法衢(がつぽうがつじ)》(1810年5月市村座),風鈴蕎麦屋が娘を殺す双蝶々の書替狂言《当龝八幡祭(できあきやわたまつり)》(1810年8月市村座),また夏祭の書替えで,のちの四谷怪談の原型ともなった《謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちよつととくべえ)》(1811年7月市村座)などがある。この年7月に出された法令(狂言中府内地名の使用禁止,衣裳小道具法度,糊紅の使用禁止など)に抵触するところあってか,《謎帯》は興行を中絶した。幕府当局からの狂言差止めは1812年(文化9)1月市村座《色一座梅椿(いろいちざうめとしらたま)》でも惹起し,その年中不当りが続いたが,翌13年3月森田座での《お染久松色読販(うきなのよみうり)》(半四郎のお染の七役)は大当りを占めた。

 後期の代表作には,半四郎の〈女清玄〉の《隅田川花御所染(すみだがわはなのごしよぞめ)》(1814年3月市村座),お六・八ッ橋(二役,半四郎)と願哲(幸四郎)の《杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)》(1815年5月河原崎座),公卿の息女が宿場女郎に転落した巷説を舞台化した《桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)》(1817年3月河原崎座),俳優の日常生活を舞台化した〈世話の暫〉の《四天王産湯玉川(してんのううぶゆのたまがわ)》(1818年11月玉川座),菊五郎,幸四郎の亀山の仇討《霊験亀山鉾(れいげんかめやまほこ)》(1822年8月河原崎座),菊五郎,半四郎,団十郎の不破名古屋と権八小紫の《浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)》(1823年3月市村座),清元《累(かさね)》を含む《法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)》(1823年6月森田座),その最高傑作である《東海道四谷怪談》(1825年7月中村座),深川五人斬事件を劇化した《盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)》(1825年9月中村座),また番付にみずから一世一代と銘うった最後の作《金幣猿嶋郡(きんのざいさるしまだいり)》(1829年11月中村座)などがある。その年11月27日没し,葬礼に際しては《寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)》と題する正本仕立ての摺物を配らせ,自分の手で死を茶化した。なお,草双紙(合巻)の著もあり,姥尉輔(うばじようすけ)の名義,南北の名義のものあわせて《金比羅御利生 敵討乗合噺》(1808)以下20作の余を数える。幕末期を代表する作者の一人として高く評価され,俗に大南北(おおなんぼく)と称される。(5)5世(1796-1852・寛政8-嘉永5) 4世の娘婿勝兵助の養子。俳名可祐。孫太郎南北と通称する。1825年(文政8)11月鶴屋孫太郎の作者名で番付に現れ,一時期,姥尉輔とも称したが1836年(天保7)7月森田座で南北の名をついだ。代表作《東鑑怪談噺(あずまかがみかいだんばなし)》(1840年6月河原崎座)ほか。門下に3世瀬川如皐,河竹黙阿弥がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鶴屋南北」の意味・わかりやすい解説

鶴屋南北
つるやなんぼく

3世までは江戸歌舞伎(かぶき)の道外方(どうけかた)で、4世から歌舞伎作者となり、5世まである。ただし代数は「南北」の代数で、2世までは南北孫太郎を名のった。4世がもっとも名高い。

[古井戸秀夫]

初世

(?―1736)旅芝居の株をもつ家系で5世にあたる。大芝居に進出し、道外(どうけ)方、頭取として活躍。

[古井戸秀夫]

2世

生没年不詳。初世の子。旅芝居の株を継ぎ、大芝居では寛延(かんえん)年間(1748~51)に二度頭取を勤めた。

[古井戸秀夫]

3世

(?―1762)鶴屋南北の初世。初世の子。享保(きょうほう)期(1716~36)に活躍した道外方。

[古井戸秀夫]

4世

(1755―1829)作者としては初世。家系7世。「大(おお)南北」と称される。江戸・日本橋の紺屋(こうや)海老屋伊三郎の子。1776年(安永5)に狂言作者の見習いとなり、翌年から初世桜田治助(じすけ)の苗字(みょうじ)をもらい桜田兵蔵の名で番付に載る。その後、沢兵蔵、勝俵蔵(ひょうぞう)と改名、3世の娘お吉をめとり、その縁で旅芝居や見せ物の興行にも加わる。金井三笑(さんしょう)に師事し、86年(天明6)以降狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められる。97年(寛政9)に3世坂東(ばんどう)彦三郎付きの作者となり、99年に45歳で立(たて)作者となる。それまでの大芝居には少ない見せ物の蛇娘(へびむすめ)や棺桶(かんおけ)を舞台のうえに好んで使い、『誧競艶仲町(いきじくらべはでななかちょう)』など生世話(きぜわ)物に好評を得たのち、1804年(文化1)に初世尾上(おのえ)松助のために夏芝居『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』を書き、これが出世作となる。以降、松助のために夏狂言を書き、怪談物の作者として名をなす。また、1806年から5世松本幸四郎一座の立作者となり6年間市村座に重年、『勝相撲浮名花触(かちずもううきなのはなぶれ)』などで生世話物を完成させた。11年、57歳で4世を襲名、隠居格となり、実子直江重兵衛を相談相手に新境地を開き、『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)』など5世岩井半四郎の当り狂言を書く。文政(ぶんせい)期(1818~30)には7世市川団十郎や3世尾上菊五郎ら若手のためにも筆をとり、2世勝俵蔵(直江重兵衛)、2世松井幸三、勝井源八ら門下の立作者とともに江戸三座の新狂言の大半を一門で担った。29年(文政12)『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』を一世一代として引退、同年11月27日に75歳で没した。

 台本が伝わるものは80余種あり、以上のほか代表的なものに、生世話物の『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』『当穐八幡祭(できあきやわたまつり)』『謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ)』『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』、敵討(かたきうち)物の『鳴響御未刻太鼓(なりひびくおやつのたいこ)』『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』、夏芝居の『三国妖婦伝(さんごくようふでん)』『彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)』『阿国御前化粧鏡(おくにごぜんけしょうのすがたみ)』『玉藻前御園公服(たまものまえくもいのはれぎぬ)』『法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』『独道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』のほか、『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくのいなずま)』『御国入曽我中村(おくにいりそがなかむら)』があり、それらの要素を総合した代表作が『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』である。

 その作風は、化政(かせい)期(1804~30)の退廃した世相を反映した凄惨(せいさん)な殺しと濡(ぬ)れ場を魅力とするが、本領はおかしみの茶番にある。俳諧(はいかい)式の自由な連想で婚礼と葬礼を一体化するなどの奇想で、場面を次から次へと展開させて観客の裏をいく小気味のよさが売り物。それが金井三笑譲りの緻密(ちみつ)な仕組みと十分な伏線、小道具の巧みな利用などによって筋立ての破綻(はたん)を免れている。南北風とよばれるこの特色は、やがて河竹黙阿弥(もくあみ)によって洗練され古典化する。なお、新作ではないが「馬盥(ばだらい)の光秀(みつひで)」(『時桔梗出世請状(ときもききょうしゅっせのうけじょう)』)、「加賀見山(かがみやま)」(『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』)などの定本を定着させたことも意義が大きい。姥尉輔(うばじょうすけ)の名などで合巻(ごうかん)の作もある。

 家系8世は2世勝俵蔵が継ぐ。

[古井戸秀夫]

5世

(1796―1852)4世の娘の子。子役から作者になる。1821年(文政4)初出勤。鶴峰千助、鶴峰丑左衛門、鶴屋孫太郎、姥尉輔を名のり、37年(天保8)に5世。3世尾上菊五郎付きの作者として4世の旧作の補綴(ほてい)をもっぱらとした。門弟から3世瀬川如皐(じょこう)、河竹黙阿弥らが出た。

[古井戸秀夫]

『郡司正勝他編『鶴屋南北全集』全12巻(1971~74・三一書房)』


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百科事典マイペディア 「鶴屋南北」の意味・わかりやすい解説

鶴屋南北【つるやなんぼく】

江戸後期の歌舞伎脚本作者。江戸の紺屋の子。初世桜田治助門に入り,桜田兵蔵,沢兵蔵を経て勝俵蔵となり,1811年4世南北を襲名(3世までの南北は俳優)。5世松本幸四郎,7世市川團十郎らに作品を提供。生世話(きぜわ)に巧みで,趣向に富む。代表作は《東海道四谷怪談》《於染久松色読販(うきなのよみうり)》。
→関連項目岩井半四郎お染・久松尾上菊五郎鈴ヶ森文化文政時代

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鶴屋南北」の意味・わかりやすい解説

鶴屋南北
つるやなんぼく

[生]宝暦5(1755).江戸
[没]文政12(1829).11.27. 江戸
江戸時代の歌舞伎作者。4世。大南北ともいう。父は紺屋職人ともいわれる。道化方の俳優3世南北の娘をめとり,天明2 (1782) 年勝俵蔵を名のる。桜田治助の門に学び,長い下積み生活を経て,享和1 (1801) 年立作者となる。この間,金井三笑に師事したともいわれる。1世尾上松助のために書いた『天竺徳兵衛韓噺 (てんじくとくべえいこくばなし) 』 (04) が出世作となり,文化8 (11) 年4世南北を襲名。以後 25年間に5世松本幸四郎,5世岩井半四郎,3世尾上菊五郎のため 120編の作品を書いた。化政期の頽廃的世相をとらえ,怪談狂言を中心として残忍,卑猥,滑稽を織り交ぜた迫力と現実感のある作風をもつ。代表作『東海道四谷怪談』『絵本合法衢 (がっぽうがつじ) 』『於染久松色読販 (おそめひさまつうきなのよみうり) 』『隅田川花御所染』『桜姫東文章』など。5世は4世の孫で,小南北と呼ばれた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鶴屋南北」の解説

鶴屋南北
つるやなんぼく

歌舞伎俳優・作者。江戸時代に5世を数えるが,3世までは俳優,4・5世は作者。4世が著名。4世(1755~1829)は文化・文政期に活躍した江戸の大作者。通称大南北(おおなんぼく)。3世の女婿。江戸日本橋生れ。初世桜田治助門下で,1777年(安永6)桜田兵蔵を名のって初出勤。その後,沢兵蔵・勝俵蔵(かつひょうぞう)と改名。1803年(享和3)立作者となり,11年(文化8)南北を襲名。作品数120編余。創意に満ちた仕掛物や怪奇趣味,エロ・グロ・ナンセンス,下層社会のリアルな風俗描写などが渾然一体となった独自の劇世界は,現代でも評価が高い。代表作「東海道四谷怪談」。第2次大戦前と大戦後に全集が刊行された。5世(1796~1852)は通称孫太郎南北。4世の女婿勝兵助の養子。

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旺文社日本史事典 三訂版 「鶴屋南北」の解説

鶴屋南北
つるやなんぼく

4世 1755〜1829
江戸後期の歌舞伎脚本作者
本名伊之助。江戸の人。写実的な世話物を得意とし,舞台技術に大胆奇抜な趣向をこらした。代表作に『東海道四谷怪談』など。なお,鶴屋南北は,江戸時代を通じて5世を数える。

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