鶴岡(市)(読み)つるおか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鶴岡(市)」の意味・わかりやすい解説

鶴岡(市)
つるおか

山形県北西部、庄内(しょうない)地方南部の商業中心都市。1924年(大正13)市制施行。1955年(昭和30)加茂(かも)町と斎(いつき)、黄金(こがね)、湯田川(ゆたがわ)、大泉、京田(きょうでん)、栄(さかえ)、田川、上郷(かみごう)、豊浦(とようら)の9村、1963年大山(おおやま)町を編入。2005年(平成17)藤島羽黒(はぐろ)、櫛引(くしびき)、温海(あつみ)の4町および朝日村と合併、新しい鶴岡市となった。庄内平野の南部に位置し、南部から東部は山岳、丘陵が占め、市内を赤川、大山川、京田川、藤島川などが貫流する。西は庄内砂丘、加茂台地を隔てて日本海に臨む。冬季は道路交通の障害となる地吹雪(じふぶき)が強い。JR羽越本線と国道7号が市域を東西に走るほか、112号、345号が通じる。山形自動車道が中部を北上し、鶴岡ジャンクションで、西部を縦断する日本海東北自動車道と接続する。山形自動車道の湯殿山、庄内あさひ、鶴岡の3インターチェンジ、日本海東北自動車道のあつみ温泉、いらがわ、三瀬(さんぜ)、鶴岡西の4インターチェンジがある。北端には酒田市にまたがって庄内空港がある。

 平安中期に大泉荘(しょう)が成立し、鎌倉時代にその地頭(じとう)武藤氏が大宝寺(たいほうじ)に居城し町造りの基礎が敷かれた。1601年(慶長6)に庄内を攻略した最上義光(もがみよしあき)が大宝寺を鶴岡と改めて城下を改修し、赤川の治水や青竜寺(しょうりゅうじ)川の灌漑(かんがい)用水の工事が行われるなど土地開発が進んだ。1622年(元和8)最上氏の改易で信濃(しなの)(長野県)松代(まつしろ)から酒井忠勝(ただかつ)が入部し、城下の整備を進め、以後明治まで庄内藩14万石の城下町として発展した。市街地の中心部は屈曲した道路形態などに旧城下町のおもかげをとどめる。明治に入ると繻子(しゅす)や羽二重(はぶたえ)などの絹織物業が隆盛を極めたが、第二次世界大戦後は農機具や木工家具の生産にかわり、近年は電気、輸送関係の工場立地が進んでいる。農業は庄内米で知られる米作が中心で、野菜や畜産などの複合経営がみられる。城跡の鶴岡公園付近には旧藩校の致道館(国史跡)や致道博物館がある。西部の大山地区は武藤氏の尾浦城があった地で、江戸時代から酒造地で知られる。付近に船乗りの信仰の厚い善宝(ぜんぽう)寺がある。加茂地区は鶴岡城下の外港として発達した。クラゲを中心に展示する市立加茂水族館(クラゲドリーム館)がある。市の中央部には国の名勝金峰山(きんぽうざん)が、日本海沿いには海水浴のできる湯野浜、由良、温海温泉がある。内陸部にも鶴岡の奥座敷といわれる湯田川、川代などの温泉がある。旧藤島町地区は、南北朝から近世初期まで藤島城があり、明治・大正期には東田川郡の中心地であった。旧羽黒町地区の手向(とうげ)は山岳修験(しゅげん)で栄えた出羽(でわ)三山の中心羽黒山の門前集落である。旧櫛引町地区には国指定重要無形民俗文化財の黒川能が残る。旧朝日村地区には出羽三山の湯殿山(ゆどのさん)が、旧温海町地区には奥羽三関の一つ、念珠関跡(ねずがせきあと)がある。水上八幡神社(みなかみはちまんじんじゃ)本殿、鶴岡カトリック教会天主堂(1903年建造)や致道博物館に移築された旧西田川郡役所、田麦俣(たむぎまた)(旧、朝日村)の旧渋谷家住宅(多層民家)は国指定重要文化財。三瀬気比神社(さんぜきひじんじゃ)社叢(しゃそう)などは国指定天然記念物。磐梯(ばんだい)朝日国立公園の一部で、海岸部は庄内海浜県立自然公園に指定される。明治の文人高山樗牛(ちょぎゅう)の生地。面積1311.53平方キロメートル(一部境界未定)、人口12万2347(2020)。

[中川 重]

『『鶴岡市史』全3巻(1962~1975・鶴岡市)』


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