本誓寺(読み)ほんせいじ

精選版 日本国語大辞典 「本誓寺」の意味・読み・例文・類語

ほんせい‐じ【本誓寺】

[一] 大阪市天王寺区生玉前町にある浄土宗の寺。大阪三十三所の第一八番札所。
[二] 東京都江東区清澄にある浄土宗の寺。山号は当知山。文亀元年(一五〇一)酉冏(ゆうげい)小田原に開創。文祿四年(一五九五)江戸八重洲河岸、慶長一〇年(一六〇五日本橋馬喰町に移り、韓使客舎にあてられた。天和三年(一六八三)現在地に移る。村田春海の墓がある。

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日本歴史地名大系 「本誓寺」の解説

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]上越市寺町三丁目

来迎らいごう寺の北方にある。真宗大谷派、笠原山と号し本尊阿弥陀如来。伝来文書を収載した寺蔵の本誓寺記によると当寺初代は教念、中興開山は超賢(以下とくに明記しない限り同記による)。教念は源義親の孫で俗名を井上太郎満政といったが、下総国相馬郡布川ぬのがわ(現茨城県下館市)の真言宗真宗しんしゆう寺で剃髪出家、真宗寺を継いだ。この頃親鸞が常陸国稲田いなだ(現茨城県笠間市)で布教中で、教念は教えをうけて弟子となり改宗。三世顕順の代、教念の四十回忌執行に際して覚如が下向、真宗寺改め本誓寺の寺号を下付した。七世性順の時関東は乱世になり、兵火を避けて信州笠原かさはら(現長野県伊那市)に転じ井上本誓寺と号した。この後存如の、次の性善の代には蓮如の逗留があった。一〇世超賢の時信州は兵乱が続き、そのため超賢は加賀小山おやま(現石川県金沢市)へ寺跡を移すため笠原を出たが、その途次春日山かすがやま東方の福島ふくしま村に滞留中長尾景虎(上杉謙信)の面識を得た。

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]日野町日田

日田ひだの東部、大窪おおくぼとの境に位置し、野田山と号する。真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。いわゆる日野牧五ヵ寺の一つで、松尾まつおの浄土真宗本願寺派本誓寺と寺基を同じくする。

本願寺の東西分立に際し、慶長八年(一六〇三)浄秀が当寺(一〇代)、弟浄了が松尾本誓寺を新立住持したといい(寛文一〇年「本誓寺記」日野町志)、当寺を東本誓寺、松尾本誓寺を西本誓寺ともよぶ。寺伝によれば信田小太郎貞信(開基浄恵)は弘安一〇年(一二八七)本願寺覚如に帰依、建武三年(一三三六)覚如が瓜生津うりゆうづ(現滋賀県八日市市)に越年したときにも、自坊に覚如を迎えたという。一方、元禄五年下寺開基帳によれば、建長五年(一二五三)の草創で、開基は性信。

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]門前町南

新町山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。阿岸あぎし本誓寺と通称。元文六年(一七四一)の本誓寺略縁起(本誓寺文書、以下断りのない限り同文書)によれば、開基善了、文永年中(一二六四―七五)本尊を奉安して創建と伝える。もと真言宗で松岡まつおか寺と称したが、建長三年(一二五一)善了が親鸞に帰依し改宗、改称したとの説もある(寺院明細帳)

寺基はもと新町分しんまちぶん村にあったが、本福寺由来記(堅田本福寺蔵)に、親鸞が配所へ下向のとき新町(新町分)へ着き、本尊を初めて掛けたとみえることから、当寺に入寺したとみられている。永享八年(一四三六)八月二五日の紀年銘のある親鸞聖人絵像裏書写(寺蔵)に「阿岸本誓寺」とみえ、本願寺存如より了道に絵像が与えられた。

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]盛岡市名須川町

東顕とうけん寺の北隣に位置する。石森山重観院と号し、真宗大谷派。本尊は名体不離の阿弥陀如来。寺社修験本末支配之記(内史略)によれば、盛岡藩領内に末寺三三を有し、境内に光照こうしよう(のち移転)証明しようみよう寺・専立せんりゆう寺の塔頭がある。「盛岡砂子」所載の和漢三才図会などによると、開基は親鸞二十四輩の一人是信房。是信房の本名は吉田大納言信明であったが遁世し、越後にいた親鸞を訪ね、常陸稲田いなだ(現茨城県笠間市)においてその弟子となり、是信房と号した。

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]松任市東一番町

坂本山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。松任本誓寺と通称され、松任四ヵ寺の一。貞享二年寺社由緒書上によると、正暦二年(九九一)円誓坊の開創という。一方、寺院明細帳には円貞が天台寺院を開基したが、承元元年(一二〇七)親鸞に帰依したとある。寺伝では中世に松任金剣かなつるぎ宮の神宮寺であったといい、明徳二年(一三九一)九月二八日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)にみえる「松任 神宮寺」を当寺とみる説もある。なお時衆過去帳(清浄光寺蔵)にみえる「今湊本誓寺」、時宗末寺帳(同寺蔵)にみえる「賀州本誓寺」は当寺にかかわるとも考えられる。

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]長野市松代町寺町

平林山本誓寺と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。

寺伝では、嘉禎元年(一二三五)親鸞の門弟是信が埴科はにしな倉科くらしな(現更埴市倉科)に建立したという。しかし本誓寺所蔵の阿弥陀如来画像裏書には「大谷本願寺実如(花押)永正八年二月八日 瀬踏阿弥陀仏 信州埴科郡倉科平林山新田本誓寺」とあり、親鸞画像にも同じく「永正八年二月八日」とあるから、永正八年(一五一一)に創建されたか、あるいは中興になったかとも考えられる。なお寺伝では、第四代住職宗信は新田義貞の末男で、父義貞討死の後七歳で当寺の弟子となり、長じて四世を継ぎ新田氏を名乗り、寺を生萱いきがや生仁なまに(現更埴市)に移したという(松代町史)

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]江東区清澄三丁目

浄土宗。当知山重願院と号し、本尊は阿弥陀如来。文亀元年(一五〇一)飯沼弘経いいぬまぐぎよう(現茨城県水海道市)第三世曜誉酉冏が小田原に建立。天正一八年(一五九〇)小田原城落城の際類焼し、第三世中興大誉文賀のとき江戸桜田さくらだに移る。文禄四年(一五九五)のちの八重洲やえす(現千代田区)に移転して寺地五千七七三坪を得た。さらに慶長一一年(一六〇六)当時の馬喰ばくろ町に移って、水戸藩主徳川頼房の母英勝院が堂宇を建立した。明暦三年(一六五七)の大火で類焼、さらに天和二年(一六八二)の大火により翌年現在地へ移った。深川移転後も享保三年(一七一八)をはじめ何度か火災にあっている(寺社備考)

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]真岡市八条 堤上

赤堀あかぼり川右岸にあり、笠原山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、寛政一〇年(一七九八)真岡代官竹垣三右衛門が越後国高田たかだ(現新潟県上越市)の本誓寺の僧寂静庵聞了を招き、掛所堂(説教所)唯念坊を建立したのに起こる。竹垣代官は寛政五年から文化一一年(一八一四)まで真岡代官として在任し、文化三年までに管内各村に約三〇〇戸の入百姓を導入した。移入農民の多くは従来から真宗門徒であり、竹垣代官が農民移入策を始めるにあたり、協力を要請した本誓寺住職乗円の強い申入れにより、多数の移入が実現した場合は真宗寺院を建立するという約定も交わしていたので、寺院建築を発願、実現したものとされる(竹垣君徳政碑碑文)

本誓寺
ほんせいじ

[現在地名]田原本町本町

慈航山本覚院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。享保一六年(一七三一)の「田原本藩記録」によれば創建は寛永年間(一六二四―四四)、開山は閑誉、万治年間(一六五八―六一)創主平野氏が現在地に移したという。平野氏の菩提所。京都知恩ちおん院末で、当寺の下に観音堂・地蔵堂、清雲せいうん寺・観音寺があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「本誓寺」の意味・わかりやすい解説

本誓寺 (ほんせいじ)

石川県白山市の旧松任市にある真宗大谷派の寺。山号は坂本山。松任本誓寺と通称する。寺伝によれば,養老年中(717-724)泰澄が開創,当初は天台宗に属し白山末社の神宮寺であったといわれる。開基を円政といい,越後へ赴く途中の親鸞に帰依して改宗したと伝える。一向一揆の初期には江沼郡山田の光教寺と関係があったようで,蓮如が光教寺に下した七高祖像を伝える。1531年(享禄4)に起こった享禄錯乱(加賀一向一揆)では光教寺などとともに戦い追放処分を受けたが,その後,松任城主鏑木頼信を迎えて住職とし,越前和田本覚寺の下で行動している。712年(和銅5)長屋王発願の《大般若経(和銅経)》(重要文化財)や1473年(文明5)蓮如が吉崎で開版した《三帖和讃》など文化財が多い。
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本誓寺 (ほんせいじ)

新潟県上越市寺町にある真宗大谷派の寺。山号は笠原山。親鸞の門弟布川の教念が下総で開創し,7世性順の代に信州に移り笠原本誓寺と呼ばれた。関東の善性系教団が信濃に展開したいわゆる磯部六ヵ寺の一つ。1558年(永禄1)上杉氏の要請によって春日山城下に移った。《本誓寺記》には,これ以前,1553年(天文22)に上杉謙信が上洛の路次保証を求めて10世超賢を加賀に遣わしたことや,石山合戦に際しては多量の人員や兵糧などを本願寺に送ったことがみえる。1614年(慶長19)松平忠輝が高田に入封し寺町を造営するとここに転じた。また本願寺教如の末女宣由が12世宣英に嫁している。
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