鹿野武左衛門(読み)シカノブザエモン

デジタル大辞泉 「鹿野武左衛門」の意味・読み・例文・類語

しかの‐ぶざえもん〔‐ブザヱモン〕【鹿野武左衛門】

[1649~1699]江戸前期の落語家大坂の人。通称、安次郎。江戸へ出て、仕方噺しかたばなし人気を博し、江戸落語の祖とされた。著「鹿の巻筆」「鹿野武左衛門口伝咄」など。

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精選版 日本国語大辞典 「鹿野武左衛門」の意味・読み・例文・類語

しかの‐ぶざえもん【鹿野武左衛門】

落語家。江戸辻噺の祖。大坂の人。江戸へ出て、三〇歳ごろから辻噺を演じはじめ、仕方噺で人気を博した。元祿七年(一六九四)に著書「鹿の巻筆」の筆禍流罪にあうまでの約二〇年間、江戸落語生みの親として活躍。慶安二~元祿一二年(一六四九‐九九

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改訂新版 世界大百科事典 「鹿野武左衛門」の意味・わかりやすい解説

鹿野武左衛門 (しかのぶざえもん)
生没年:1649-99(慶安2-元禄12)

江戸前期の噺家。出身は不明だが,大坂生れで志賀氏であると推察される。若いころから江戸に移り住み,長谷川町で塗師を業としていたが,30歳ごろから噺家となる。最大の功績は身振り手振りによる〈仕方噺(しかたばなし)〉を完成し,後世の江戸落語の基盤を作ったところにあり,江戸落語の祖といわれる。咄本は《鹿野武左衛門口伝咄し》3巻(1683),《鹿の巻筆》5巻(1686)がよく知られ,また石川流宣らとの合作《枝珊瑚珠(えださんごじゆ)》5巻(1690),露の五郎兵衛らとの合作《露鹿懸合咄(つゆとしかかけあいばなし)》5巻(1697)などもある。詳しい伝記はわからないが,1693年(元禄6)の江戸における悪疫流行のおりに舌禍事件が生じ,伊豆の大島へ流罪となった。6年の刑期を終えて江戸に帰ったが,服役中の疲労のため重病にかかり,それが死因となったことが落語史上に伝えられている。
噺本
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朝日日本歴史人物事典 「鹿野武左衛門」の解説

鹿野武左衛門

没年:元禄12.8.13(1699.9.6)
生年:慶安2(1649)
江戸前期の落語家。京または難波(大阪)に生まれ,江戸に下り塗師となる。芝居がかりの座敷仕方咄を得意とし,諸家に招かれた。紀州(和歌山)藩家老三浦為隆の江戸邸で聴いた石橋生庵の日記『家乗』延宝9(1681)年1月10日の条に記された「福居徳庵門札」など13の演題は,落語の題名として最古の記録であり,咄本『鹿野武左衛門口伝はなし』(1683),『鹿の巻筆』(1686)など所収の咄との比較により内容を推測し得る。元禄初年,馬が人語を発するという流言が行われ,その馬のお告げによる疫病よけの札や薬の処方が売られた。元禄6(1693)年,流言の張本人,浪人筑紫園(団)右衛門を召し捕ったところ,『鹿の巻筆』の咄より示唆を得たと白状し,武左衛門も取り調べを受けた。このため『鹿の巻筆』は板木焼却,武左衛門は伊豆大島遠島と伝えられるが不審。ともあれ以後,江戸落語は衰微し,烏亭焉馬によって再興されるまで約100年の空白を生じた。<参考文献>延広真治『舌耕文芸』(『講座元禄の文学』1巻)

(延広真治)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鹿野武左衛門」の意味・わかりやすい解説

鹿野武左衛門
しかのぶざえもん
(1649―1699)

江戸落語の祖といわれる落語家。大坂出身らしいが若くして江戸に住む。長谷川町の塗師(ぬし)職人であったが、30歳ごろ専門の噺家(はなしか)となり、辻咄(つじばなし)や座敷仕方咄(ざしきしかたばなし)を演じ、天和(てんな)・貞亨(じょうきょう)(1681~88)のころ中橋広小路で莚張(むしろば)りの小屋を設けて興行した。『鹿野武左衛門口伝咄(くでんばな)し』(1683)、『鹿の巻筆』(1686)の噺本2著を残した。1694年(元禄7)武左衛門の咄にヒントを得たデマが巷(ちまた)に流れたため伊豆大島に流され、6年の刑期を終えて江戸に帰り、その年に病死した。

[関山和夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鹿野武左衛門」の解説

鹿野武左衛門 しかの-ぶざえもん

1649-1699 江戸時代前期の落語家。
慶安2年生まれ。上方の人。江戸で塗師(ぬし)となる。30歳ごろ噺家(はなしか)となり,身振り手振りによる仕方噺(しかたばなし)を完成し,江戸落語の祖とされる。噺本「鹿の巻筆」が筆禍をまねき,伊豆(いず)大島に流刑となる。江戸にかえり,元禄(げんろく)12年8月13日死去。51歳。本名は志賀安次郎。著作に「鹿野武左衛門口伝(くでん)はなし」など。

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世界大百科事典(旧版)内の鹿野武左衛門の言及

【林家正蔵】より

怪談噺の創始者。戯作も書き,2代鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)を名のった。(2)2代 生没年不詳。…

【寄席】より

…大勢の人を寄せて,さまざまな演芸を興行するところで,〈寄席〉の字を当てているが,単に〈席(せき)〉と呼ぶこともある。
[江戸の寄席]
 寄席は,江戸時代の初めごろに,寺社の境内などで葭簀(よしず)張りの辻咄(つじばなし)や講釈を行ったものがあり,天和・貞享(1681‐88)のころには,江戸落語の祖といわれる鹿野(しかの)武左衛門(1649‐99)が,江戸の中橋広小路で葭簀張りの小屋掛けで興行をしているし,また安永・天明(1772‐89)のころから噺家(はなしか)の自宅や寺院,茶屋の座敷などで〈咄(はなし)の会〉を興行するものもあったが,現在の寄席のような形ができたのは,1798年(寛政10)6月に大坂から江戸に来た岡本万作が,神田豊島町藁店(わらだな)に〈頓作軽口噺(とんさくかるくちばなし)〉という看板を掲げ常設の寄席を作ったのが最初である。これに対抗して意欲を燃やしたのが初代三笑亭可楽(さんしようていからく)(1777‐1832)であり,彼は下谷柳町の稲荷神社の境内に寄席を開いた。…

【落語】より

…その後まもなく,〈はなし〉を〈軽口〉というようになるとともに,はなしのおもしろさを効果的に結ぶ〈落ち〉の技術もみがかれていった(後出〈落ちの型〉を参照)。
[辻咄時代]
 落語が飛躍的に進歩したのは,延宝・天和年間(1673‐84)ごろから京都で辻咄(つじばなし)をはじめた露(つゆ)の五郎兵衛と,おなじころ江戸で辻咄をはじめた鹿野(しかの)武左衛門,貞享年間(1684‐88)ごろから大坂で辻咄をはじめた米沢彦八という3人の職業的落語家の功績だった。 辻咄というのは,街の盛場や祭礼の場によしず張りの小屋をもうけ,演者は広床几(ひろしようぎ)の上の机の前で口演し,聴衆は床几に腰をかけて聴くという形式をとり,晴天に興行して道ゆく人の足をとめ,咄が佳境にはいったころを見はからって,銭を集めて回るという庶民的演芸だった。…

※「鹿野武左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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