黄文王(読み)きぶみのおう

改訂新版 世界大百科事典 「黄文王」の意味・わかりやすい解説

黄文王 (きぶみのおう)
生没年:?-757(天平宝字1)

天武天皇の曾孫,高市(たけち)皇子の孫。父の長屋王が729年(天平1)謀反の疑いで自尽したとき,母が藤原不比等の女であったので兄の安宿王あすかべおう),弟の山背王とともに助命された。735年従五位下,740年従四位上に至り,翌年散位頭。橘奈良麻呂の変の関係者の自白によると,745年の聖武天皇大病のとき橘奈良麻呂は黄文王を皇太子にしようとし,大伴・佐伯両氏を誘っている。756年(天平勝宝8)5月聖武天皇没後に御装束司となったが,翌月橘奈良麻呂の謀議に加わり,皇太子に予定され,安宿王を誘っている。757年7月上道斐太都(ひだつ)の密告により橘奈良麻呂の変が発覚すると,主謀者5人のうちにあり,光明皇太后の詔で一度許されたが,小野東人の自白により再び捕らえられ,獄中拷問されて塩焼王ら4人とともに杖下に死んだ。このとき久奈多夫礼と改名していた。弟の山背王は孝謙天皇に密告したと伝えられている。
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朝日日本歴史人物事典 「黄文王」の解説

黄文王

没年:天平宝字1.7(757)
生年:生年不詳
奈良時代皇族。長屋王と藤原不比等の娘の子。高市皇子の孫。不比等の外孫ゆえに長屋王の変(729)後も生存した。天平9(737)年10月従五位下。13年には散位頭に任じられた。17年に聖武天皇が病気の際,橘奈良麻呂は,黄文王を即位させて,民の安定を図ろうと大伴・佐伯両氏と共同で計画を練ったという。天平宝字1(757)年7月その計画が藤原仲麻呂主導の政府に漏れ,奈良麻呂らは獄中で尋問を受けた。兄の安宿王が,奈良麻呂の計画を黄文王から聞き謀議に加わったと自白したため,黄文王は名を(久奈)多夫礼と改められ,拷問を受けて死んだ。

(寺崎保広)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黄文王」の解説

黄文王 きぶみおう

?-757 奈良時代,長屋王の王子
母が藤原不比等(ふひと)の娘だったため,長屋王の変では助命され,従四位上,散位頭(かみ)にすすむ。のち橘(たちばなの)奈良麻呂の謀議にくわわり,皇太子に擁立されようとしたが,発覚して捕らえられ,拷問をうけて天平勝宝(てんぴょうしょうほう)9年7月4日死去(橘奈良麻呂の変)。

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