黒田清隆内閣(読み)くろだきよたかないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒田清隆内閣」の意味・わかりやすい解説

黒田清隆内閣
くろだきよたかないかく

(1888.4.30~1889.12.24 明治21~22)
黒田清隆を首班とする藩閥内閣。初代首相伊藤博文(いとうひろぶみ)が新設の枢密院議長に就任した後を継いで成立。当面する課題は1890年(明治23)の国会開設を控え、憲法をはじめとする諸制度の完遂を期すことと、条約改正の実現であった。そのため大隈重信(おおくましげのぶ)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)ら在野の元勲の入閣を図り、民間の反政府運動を抑えようとした。1889年2月11日皇室典範大日本帝国憲法公布宮中で発布式)。翌12日黒田首相は地方長官を召集し、「政府ハ常ニ一定ノ方向ヲ取リ、超然トシテ政党ノ外ニ立チ至公至正ノ道ニ居ラサル可ラス」と訓示。この超然主義藩閥政府の初期の帝国議会に対する基本的態度となった。一方、条約改正問題では前伊藤内閣より留任大隈外相を中心に改正案を作成させた。しかし大隈の改正案は本質的に井上馨(いのうえかおる)前外相のそれと変わりがなかったため、同年6月以降、大同団結派を中心とした猛烈な反対運動にみまわれた。10月11日枢密院議長の伊藤が大隈案に反対して辞表を提出、閣内では後藤逓相(ていしょう)らが強く反対、15日の御前会議でも決着がつかず、24日首相は大隈を除く閣僚とともに辞表を提出するに至った。翌日首相の辞表は受理されたが、他閣僚の辞表は却下、内大臣三条実美(さんじょうさねとみ)が兼任首相となり、条約調印延期などの後始末にあたり、12月24日成立の山県有朋(やまがたありとも)内閣に引き継いだ。なお1889年3月参謀本部条例、海軍参謀部条例が制定され、日清(にっしん)戦争遂行の軍令機関が基本的にこの内閣で成立している。

[阿部恒久]

『林茂・辻清明編『日本内閣史録1』(1981・第一法規出版)』


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百科事典マイペディア 「黒田清隆内閣」の意味・わかりやすい解説

黒田清隆内閣【くろだきよたかないかく】

1888年4月30日―1889年12月24日。第1次伊藤博文内閣のあと薩長藩閥をもって組織。逓相に大同団結運動の中核後藤象二郎を迎え運動の分裂を策し,大日本帝国憲法発布直後には超然主義を宣言(超然内閣)。外相大隈重信の条約改正案は在野諸勢力のほか政府内部からも反対された。10月18日大隈が襲撃されたため,24日各大臣は辞表提出,25日三条実美が首相兼任となり他閣僚は辞表を却下された。→黒田清隆
→関連項目山県有朋内閣

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「黒田清隆内閣」の解説

黒田清隆内閣
くろだきよたかないかく

黒田清隆を首班とする明治中期の内閣(1888.4.30~89.12.24)。初代首相の伊藤博文が憲法草案審議のため枢密院議長に転じ,鹿児島出身の黒田を後継首相に推薦,閣僚は全員留任(伊藤は内閣に班列)して黒田内閣が成立。薩長中心のいわゆる藩閥内閣。1889年(明治22)2月,憲法発布にあたり黒田は超然主義を唱えたが,翌月大同団結運動の指導者後藤象二郎を入閣させ,議会開設に備えた。大隈重信外相を中心に条約改正交渉を進めたが,大審院への外国人判事登用案が憲法違反との非難を招き,民権派・国権派の反対運動に直面し,閣内の対立も生じた。大隈重信暗殺未遂事件がおこり,10月25日黒田は辞任。一時,三条実美(さねとみ)内大臣が首相を兼任し,12月24日に山県(やまがた)内閣に代わった。

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