アンリ3世(読み)アンリさんせい(英語表記)Henri III

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アンリ3世」の意味・わかりやすい解説

アンリ3世
アンリさんせい
Henri III

[生]1551.9.19. フォンテンブロー
[没]1589.8.2. セーヌエワーズ,サンクルー
バロア朝 (→バロア家 ) 最後のフランス王 (在位 1574~89) 。アンリ2世カトリーヌ・ド・メディシスとの間に生れた。 1573年ポーランド王に選ばれたが,兄シャルル9世 (在位 60~74) が 24歳で没したので王位を継承した。当時国内はユグノー戦争の最中であったが,彼はお気に入りの美少年 (ミニョン) ばかりを重用してその政策には一貫性がなかった。 75年2月,ロレーヌ家のボードモン伯の娘ルイズと結婚。 76年カトリック教徒が「カトリック同盟」 La Ligueを結成し,国王の権威を無視したとき,ブロアの全国三部会でカトリック同盟の首長である旨をみずから宣言するという手腕を発揮したが,名前だけで,実質的な指導者はギーズ公アンリであった。ギーズ公は,プロテスタントのアンリ・ド・ナバール (のちのアンリ4世 ) を異端者の首領として追放し,十六人委員会を組織した。王位継承から除外されることを察知したアンリ・ド・ナバールは戦いを開始し,ここに,「三アンリの戦い」が始った。十六人委員会はギーズ公をパリに呼入れ,88年5月 12日「バリケードの日」にパリを掌握。彼は一時パリを脱出してシャルトルに逃れ,12月 23日ブロアの全国三部会でギーズ公を暗殺した。翌 89年都市の蜂起目前にして,アンリ・ド・ナバールと和解し,合流した両者軍勢はパリを包囲したが,8月1日,ドミニコ会修道士ジャック・クレマンに刺され,翌2日死去し,バロア朝は滅亡した。

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改訂新版 世界大百科事典 「アンリ3世」の意味・わかりやすい解説

アンリ[3世]
Henri Ⅲ
生没年:1551-89

バロア朝最後のフランス国王。在位1574-89年。アンリ2世の第3王子として生まれ,1574年,兄王シャルル9世の急死により即位。ユグノー戦争の渦中にあって国王の権力は弱くなっていたため,新旧両派の間を揺れ動いた。両派の盟主アンリ・ド・ギーズ,アンリ・ド・ナバール(後のアンリ4世)との角逐は,〈三アンリの戦〉として名高い。旧教同盟の握るパリを包囲中に暗殺された。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アンリ3世」の解説

アンリ3世(アンリさんせい)
Henri Ⅲ

1551~89(在位1574~89)

フランス国王。ヴァロワ朝最後の王。ユグノー戦争の渦中に即位,国庫破産も加わり危機に陥った王権を守りえず無政府状態を招き,パリ攻囲中,カトリック教徒に暗殺された。

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367日誕生日大事典 「アンリ3世」の解説

アンリ3世

生年月日:1551年9月19日
バロア朝最後のフランス国王(在位1574〜89)ユグノー戦争の渦中に即位
1589年没

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世界大百科事典(旧版)内のアンリ3世の言及

【旧教同盟】より

…16世紀後半のフランスで,宗教戦争(ユグノー戦争)末期に結成された過激派カトリックの同盟。新旧両派の武力抗争が続く中で,国王の周辺に,王権の強化による平和の回復を目指す穏健派カトリックを中心とした第三の党派〈ポリティーク派Politiques〉が形成され,宗教的寛容の傾向を示し始めたのに対し,異端の撲滅を主張する正統派カトリックが,1576年北フランスのペロンヌにおいて宣言を発し結成した同盟で,ギーズ公アンリを首領と仰いだ。その後,アンリ3世の懐柔策により一時活動が中断されるが,84年王弟フランソアの死により,プロテスタントのアンリ・ド・ナバール(のちのアンリ4世)が王位につく可能性が生ずると,これに徹底的に反対し,同年末のジョアンビル協定によりスペインの財政的・軍事的支援をえて,全国的にプロテスタントに対する武力弾圧に乗り出した。…

【ザモイスキ】より

…そのとき得たポーランドの法律や慣例に関する知識が,のちの早い出世を可能にすることになる。 72年に国王が死去してヤギエウォ朝の男系が断絶し,初めて国王が選挙で選ばれることになり,ザモイスキの主張どおりすべてのシュラフタが参加した選挙(現実には不可能で,あくまでもたてまえ)で,74年,ヘンリク・バレジHenryk Walezy(バロア家のアンリ,のちのフランス国王アンリ3世)が国王に選出された。ザモイスキは即位要請の使節としてパリに出向いていった。…

【飛脚】より

…1464年〈リュクシーの勅令Édit de Luxies〉で飛脚の身分を保証し,臣下にも利用を許したが,その裏でこっそり検閲に利用した。アンリ3世は公文書用にフランスの各都市にメッサジェ・ロアイヨーを置いた。1576年,国王に対してギーズ公派に荷担する大学に打撃を与えるため,私信にメッサジェ・ロアイヨーの利用を許可したため,大学は大きな損害を受けた。…

【ポーランド】より

…(3)空位期,国王選挙 ところが〈旧法執行運動〉のよき協力者であり,またルブリンの合同の積極的な推進者でもあったジグムント・アウグストが,子どもに恵まれないまま1572年に死んだため,ポーランド王国は最初の空位期と最初のシュラフタ全員による国王選挙を経験することになった。73年にワルシャワで最初の国王選出セイムが召集され,フランス・バロア家のアンリ(のちのフランス国王アンリ3世)が選ばれ,ヘンリク・バレジHenryk Walezyとして即位した。しかしヘンリクは翌年フランス王位に即くために帰国してしまい,75年にあらためて国王選挙が実施され,トランシルバニア公バートリが選ばれ,ステファン・バトーリStefan Batoryとして即位した。…

【ラテン帝国】より

…ボニファチオは小アジアに領土を割り当てられたが,ヨーロッパ領域との振替えを要求して認められ,残存ギリシア貴族の抵抗を排除して,テッサロニキを中心とする支配領域(1209年以後〈王国〉)をつくり,また彼の主導でギリシア中・南部の征服が,在地ギリシア貴族を排除ないし帰順させながら推進され,アテネ公国アカイア大公国が成立した。 ボードアン1世がブルガリア皇帝のカロヤンKalojanにアドリアノープルの戦で敗北して捕虜となった(1205)後,後継者の弟アンリHenri de Hainau(在位1206‐16)はブルガリア人を討ってトラキアの支配を固め,小アジアでもニカエア帝国のギリシア皇帝テオドロス1世(ラスカリス)と戦って領土を広げ,国威は伸張した。しかしアンリ帝死後,後継者に指名されたその姉妹ヨランデYolande de Hainautの夫ピエールPierre de Courtenayは,西方からコンスタンティノープルに赴く途次アルバニア山中でエピロス帝国のギリシア皇帝テオドロス1世に捕らえられ(1217),息子のロベールRobert de Courtenay(在位1221‐28),続いて後者の弟ボードアン2世(在位1228‐61)と,いずれも幼少で即位した皇帝のもとでラテン帝国は急速に衰退し,小アジアの領土およびレスボス,キオス,サモスをニカエア帝国によって奪われ,トラキアでは同帝国およびエピロス帝国によってコンスタンティノープル周辺に支配を狭められた。…

※「アンリ3世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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