ジャッキー・チェン(読み)じゃっきーちぇん(英語表記)Jackie Chan

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャッキー・チェン」の意味・わかりやすい解説

ジャッキー・チェン
じゃっきーちぇん
Jackie Chan
(1954― )

漢字表記成龍(せいりゅう)。香港(ホンコン)映画の俳優。香港に生まれ、7歳で中国戯劇学院に入る。ここは子供のときから京劇のアクロバット的な演技を訓練し俳優として養成する全寮制の学校であり、のちに功夫(カンフー)映画やアクション映画のスターになる人材がここから多数現れた。8歳のときから子役として映画に出演するようになり、長い下積みの俳優生活を経て徐々にいい役がつくようになる。1976年の『スネーキー・モンキー 蛇拳』、78年の『ドランク・モンキー 酔拳』で大ヒット。先輩のブルースリーなきあと、国際的な人気を得て香港アクション映画のトップ・スターとなる。彼の特技サーカスもどきのアクロバットの体技に喜劇性を加味したところにあり、はらはらどきどきさせながら笑わせる。1983年の『プロジェクトA』、85年の『香港国際警察 ポリス・ストーリー』など、大衆娯楽に徹している。そのほかの作品として、『レッド・ブロンクス』(1995)、『ファイナル・プロジェクト』(1996)などがある。

佐藤忠男

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

知恵蔵mini 「ジャッキー・チェン」の解説

ジャッキー・チェン

中国の俳優、映画監督。1954年4月7日、中国・香港生まれ。出生名はチャン・コンサン(陳港生)、家系図上の本名はフォン・シルン(房仕龍)。妻は台湾の元女優ジョアン・リン、息子は俳優のジェイシー・チャン。61年から約10年間、中国戯劇学院で京劇や武術を学ぶ。71年よりスタントマンや端役として映画に出演し、76年から現在の芸名で活動。78年、主役を務めた「ドランクモンキー 酔拳」で話題を集め、80年代には「プロジェクトA」「ポリス・ストーリー/香港国際警察」などの監督・主演作品で大ブレイク。命がけのアクションをこなす俳優として、アジア中にその名を知らしめた。98年には主演の米国映画 「ラッシュアワー」が大ヒットし、以降はハリウッドでも活躍している。2013年、監督・主演映画「ライジング・ドラゴン」を最後にアクション大作から身を引くことを表明。通常の俳優活動は継続するとしている。

(2013-3-14)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のジャッキー・チェンの言及

【香港映画】より

… 〈クンフー映画〉はたちまち世界のアクション映画に大きな影響を及ぼし,アメリカの映画会社ワーナー・ブラザースがブルース・リーを主演させてつくった《燃えよドラゴン》(1973)をはじめ,イギリスの怪奇映画の老舗ハマー・プロの《ドラゴンVS7人の吸血鬼》(1974),またイタリア製の古代史劇(〈ヘラクレスもの〉)や西部劇(〈マカロニ西部劇〉)を〈クンフー映画〉と折衷させたもの等々のように,各国からスタッフ,キャストを香港に送りこんで東西のジャンルを混交させた合作も行われ,日本でも千葉真一,倉田保昭らが主演の〈カラテ映画〉がつくられた。さらに,《スネーキーモンキー蛇拳》(1977)から《ヤング・マスター師弟出馬》(1980)をへて《プロジェクトA》(1983)に至るジャッキー・チェンJackie Chan(1954‐ )の主演作に代表されるように,〈クンフー映画〉はスラプスティック・コメディやスポーツ映画等々の近接ジャンルをとりこんで変容しながら人気をたもち,80年には中国と合作した《少林寺》が世界的大ヒットを記録し,映画の醍醐味がアクションにあることを証明した。またそれ以前にも,60年代の半ばに華麗なカメラワークとモンタージュを駆使して,武術による闘争を〈ダイナミックな様式美〉にまで高め,新スタイルの武術映画隆盛の礎を築いた胡金銓(キン・フーKing Huとも)という監督の存在もあり,75年のカンヌ映画祭では《俠女(英語タイトルは,A Touch of Zen)》(1969)が上映されて特別賞を受けるなど国際的に高く評価されている。…

※「ジャッキー・チェン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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