ハーン(Otto Hahn)(読み)はーん(英語表記)Otto Hahn

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ハーン(Otto Hahn)
はーん
Otto Hahn
(1879―1968)

ドイツの化学者。3月8日フランクフルト・アムマインに生まれる。マールブルク大学のチンケTheodor Zincke(1843―1928)に化学を学び学位取得(1901)。兵役に従事したのち、チンケ研究室に戻り有機化学の研究を行った。1904年ロンドンのユニバーシティ・カレッジのラムゼーのもとでラジオトリウムを発見、翌1905年カナダのマックギル大学のラザフォードのもとでトリウムCとラジオアクチニウムを発見した。1906年ドイツに戻り、ベルリン大学フィッシャー化学研究所でメソトリウムトリウム系列に属する放射性核種)を発見。こうして放射能研究者としての基礎を確立した。

 1907年フィッシャー研究所で、M・プランクに理論物理学を学ぶためにきていたL・マイトナーと共同研究を開始、β(ベータ)線研究を通して「放射線放出時の反跳現象」の確認、トリウムDの発見などを行い、原子核崩壊の際のβ線、γ(ガンマ)線の役割を解明した。第一次世界大戦中、毒ガスの軍事使用に関する技術的研究・開発に従事した。この間、野戦病院のレントゲン技師として従事していたマイトナーと91番元素プロトアクチニウムを発見(1918)。戦後、彼女との共同研究をさらに進め、アイソマー(異性核)を発見(1921)、シュトラスマンとともにフェルミ実験の追試を行い、超ウラン元素生成を確認(1936)、さらにこの超ウラン元素はバリウムであることをつきとめ、中性子によるウランの核分裂を発見した(1938)。この発見は、ストックホルムに亡命中のマイトナーを通してボーアによってアメリカに伝えられ、フェルミの連鎖反応の発見と結び付き、核エネルギーの解放への道を開くものとなった。

 第二次世界大戦後、連合軍捕虜となりイギリスに抑留された。そこで広島・長崎の原爆投下による惨状を知り強い衝撃を受け、ドイツ帰還後、ドイツ科学再建に尽力するとともに、ドイツの核武装に反対し、核戦争防止のために、マイナウ宣言(1955年に発表された核兵器使用反対を訴える宣言)やゲッティンゲン宣言などの中心メンバーとして活躍した。1944年原子核分裂反応の発見によりノーベル化学賞を受賞。1928~1944年カイザー・ウィルヘルム協会(現、マックス・プランク協会)化学研究所長、1946年からマックス・プランク協会(カイザー・ウィルヘルム協会の改称)総裁などを務めた。今日、彼の業績を記念して、ハーン‐マイトナー研究所、原子力商船オットー・ハーン号、105番元素ハーニウムに名前が残されている。

[大友詔雄]

『山崎和夫訳『オットー・ハーン自伝』(1977・みすず書房)』

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