ロック(ポピュラー音楽)(読み)ろっく(英語表記)rock

翻訳|rock

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ロック(ポピュラー音楽)
ろっく
rock

20世紀後半にもっとも人気のあったポピュラー音楽の一つ。電気エネルギーで成り立っている産業社会を象徴するポピュラー音楽ともいわれる。基本的には8(エイト)ビートのリズムを強調した、若者向けの大音量のエレクトリックな音楽という意味で使われる。ただし1960年代後半以降は内容や聴衆が多様化しているので、実際はそれにとどまらない広範な音楽が含まれている。ロックン・ロールrock'n'roll(rock and roll)ということばは、しばしばロックと同じ意味で使われるが、狭義には1950年代のロックとそのスタイルにならった音楽、あるいはダンス音楽的な要素の強いロックをさす。

[北中正和]

ロックン・ロールの誕生とその特徴

rock(揺れる、振動)やroll(転がる、揺れ)ということばは、古くからアメリカのポピュラー音楽の歌詞では性的なニュアンスをこめて使われていたが、1950年代前半にラジオ番組のDJ(ディスク・ジョッキー)アラン・フリードAlan Freed(1922―1965)がアフリカ系アメリカ人のコーラス音楽やジャンプ・ブルース、リズム・アンド・ブルース(R&B)の一部をロックン・ロールとよんで紹介してから、音楽のジャンルを意味することばとして広まった。そのころはまだ電気楽器はあまり使われていなかったが、1955年の映画『暴力教室』にカントリー系のビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』が使われ、1956年にエルビス・プレスリーが『ハートブレイク・ホテル』などのヒットで若者の人気を集めたころから、白人アーティストによるエレクトリックな音楽をさして、ロックン・ロールとよぶことが多くなった。

 ロックン・ロールの先駆者としては、ほかにチャック・ベリー、リトル・リチャードLittle Richard(1932―2020)、ファッツ・ドミノ、ボ・ディドリーBo Diddley(1928―2008)、ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis(1935―2022)、カール・パーキンスCarl Perkins(1932―1998)、バディ・ホリーBuddy Holly(1936―1959)などがいる。主要な音楽都市としては、メンフィス、ニュー・オーリンズ、シカゴ、ニューヨークフィラデルフィアなどがあげられる。初期のエルビス・プレスリーの音楽はリズム・アンド・ブルースとヒルビリー(南部のカントリー音楽)の影響を強く受けていたので、ロカビリーrock-a-billyともよばれた。チャック・ベリーやボ・ディドリーはラテン系の音楽の影響も受けていた。

 1950年代中・後期のロックン・ロールには、次のような特徴がみられるものが多い。

(1)メロディや使われるコード(和音)が単純明快。

(2)8ビートのダンス向けの音楽だが、1930年代~1940年代のダンス音楽であるスウィング・ジャズ以来の4(フォー)ビートの感覚も受け継いでいる。

(3)歌詞はティーンエイジャーの日常生活の出来事を素材にしている。

(4)少人数のグループで演奏され、リード楽器としてエレクトリック・ギター(電気ギター)、ピアノ、サックスなどが使われる。

(5)正確さより荒々しさや音量が強調され、歌手や演奏者はリズムにあわせて体を大きく動かしながら歌い、演奏する。

[北中正和]

ロックン・ロールからロックへ

第二次世界大戦後のアメリカ社会では好景気が続き、2000万人にのぼるベビー・ブーマー(日本でいう団塊の世代にあたり、その多くは当時の白人中産階級の若者)が、大人と違う好みをもつ消費者として登場してきた。しかし画一的な大量生産・大量消費を前提とする社会になじめない若者も少なくなかった。その気分を代弁したのが、『暴力教室』や『理由なき反抗』といった青春映画や、ロックン・ロールのような音楽だった。1950年代後半の5年間で、アメリカのレコード売上額は3倍の6億ドルに増えたが、5年間のヒット曲のトップ・テンのうち4割がロックン・ロールのレコードで、しかもその3分の2がインディーズ(小・中規模のレコード会社)の作品だった。また、その時期はメディアの変革期でもあり、1949年に登場した45回転のアナログ・シングル盤と旧来の78回転SPレコードの生産枚数は、ロックン・ロール・ブームのさなかの1957年に逆転した。

 ロックン・ロールのブームは1960年前後にいったん失速したが、1960年代中期には1950年代を上回る勢いで世界中に広がった。口火は1964年にイギリスのビートルズやローリング・ストーンズの音楽が、アメリカで爆発的な人気をよんだことだった。フォーク歌手のボブ・ディランや、ビートルズ以前から人気のあったビーチ・ボーイズなどもその動きに呼応し、アメリカやイギリス各地から無数のアーティストが登場した。そのなかでさまざまな音楽的実験が行われ、表現が飛躍的に複雑化し、1950年代的なスタイルを連想させるロックン・ロールにかわって、ロックということばが定着した。音楽の変化の背景には、ベトナム戦争の拡大と世界的な規模での反戦運動、アメリカの公民権運動、学園闘争、ヒッピーのドラッグ文化など、1960年代の社会のさまざまな動きがあった。

 当時登場したおもなアーティストやグループの一部を紹介しておくと、エレクトリック・ギターの演奏に革命をもたらしたジミ・ヘンドリックス、女性歌手の草分けにしてシャウト(絶叫)するボーカルの先駆者ジャニス・ジョプリン、ジャズ的な即興演奏でロックの幅を広げたクリーム、ハード・ロックの基礎をつくったザ・フーやレッド・ツェッペリン、カントリー的な要素を取り入れたザ・バンドやクロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング(CSN&Y)、クラシックや現代音楽の手法を使ったフランク・ザッパ、ベルベット・アンダーグラウンド、ピンク・フロイド、キング・クリムゾンなどがあげられる。主要な音楽都市は、サンフランシスコロサンゼルス、ニューヨーク、デトロイト、メンフィス、ロンドンなどだった。当時のヒッピーのメッカ、サンフランシスコにほど近いリゾート地モンタレーで行われたモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967)、ニューヨーク郊外のベセルで行われたウッドストック・アート・アンド・ミュージック・フェア(1969)などは、大規模なロック・フェスティバルの先駆けとなった。

[北中正和]

多様化と成熟と先祖返り

1960年代には無限の可能性を秘めているように思われたロックだが、1969年末にカリフォルニアのオルタモントで行われたローリング・ストーンズのフリー・コンサートで、観客が会場警備員に殺害された事件は、反戦や平和と結び付いてきたロックのイメージを大きく傷つけた。1970年代に入って、ビートルズの解散や、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンJim Morrison(1943―1971)らの薬物による落命が相次ぐと、ロックの未来に対する楽天的な期待はさらに薄れた。1970年代に入って新たにみられた傾向は、シンガー・ソングライターの内省的な歌やエンターテイメント色の強いロックの増加、音楽の多様化などだった。1960年代に始まった音楽的実験はより洗練され、ハード・ロック/ヘビー・メタル、プログレッシブ・ロック、ジャズ・ロック、グラム・ロック、カントリー・ロック、サザン・ロックなどさまざまなスタイルの音楽が人気を集めた。リズム・アンド・ブルースから生まれたファンクfunkの16ビートや、ジャマイカのレゲエreggaeのリズムもロックに影響を及ぼした。また、ロックン・ロール/ロック世代の社会人が増えるにつれて、ロックは成熟した大人の音楽としての性格を帯び、その一部はAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)とよばれた。

 1960年代に2.5倍に成長したアメリカのレコード売上額は、1977年にはさらにその倍近くの30億ドルに膨れ上がった。1970年代中期にはフリートウッド・マック、イーグルスなどアルバムを1000万枚以上売るアーティストが初めて現われ、スタジアムを使うコンサート・ツアーが一般化し、ロックは完全に音楽産業の主力商品となった。一方、1970年代中期のニューヨークやロンドンでは、パティ・スミス・グループ、セックス・ピストルズ、クラッシュなどが商業的に巨大化したロックに背を向け、原点回帰的なロックン・ロールを演奏して注目を集め、パンク・ロックpunk rockとよばれた。その周辺から登場したポリス、トーキング・ヘッズ、U2、REMらニュー・ウェーブnew waveと称された一連のグループは、リズムを重視した演奏で1980年代のロックに新しい領域を切り開いた。

[北中正和]

ヒップ・ホップとダンス・ミュージック

1980年代のロックに関連して起こったおもな出来事は、ミュージック・ビデオ(ビデオ・クリップ)の普及、ヒップ・ホップの定着、テクノtechnoやハウスhouseといったダンス・ミュージックの広がり、ワールド・ミュージックへの関心などである。

 音楽表現において視覚的な楽しさが占める役割の大きさを再認識させたメディアが、1981年にアメリカで設立されたポピュラー音楽専門の衛星放送局MTV(ミュージック・テレビジョン)だった。1980年代中期にはこのMTVを舞台に、マイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナら、歌って踊れるエンターテイナーがスーパースターになった。一方、視覚的要素に依存することが少ないブルース・スプリングスティーンやヒューイ・ルイスHuey Lewis(1950― )らの円熟した音楽は、ロックが誕生から四半世紀を経て、伝統的な音楽の領域に足を踏み入れつつあることを感じさせた。1980年代後半には、ピーター・ゲイブリエルPeter Gabriel(1950― )、ポール・サイモンPaul Simon(1941― )、スティングSting(1951― )、デビッド・バーンDavid Byrne(1952― )らロック系アーティストによる紹介をきっかけに、ブルガリアの女性コーラス、セネガルのユッスー・ンドゥール、パキスタンのヌスラット・ハーンら、ヨーロッパ周縁部、アフリカ、中南米、アジアなどの音楽がワールド・ミュージックという呼称で一般の音楽ファンの関心を集め始めた。その背景には旧社会主義諸国の政権崩壊、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策への国際的な反対運動などもあった。

 1980年代以降の音楽にみられた最大の変化は、楽器演奏よりもコンピュータやサンプラーを使って合成・編集・リミックスされた音楽が増えたことである。1970年代末にニューヨークで誕生したヒップ・ホップは、当初はアフリカ系アメリカ人の間で生まれたアンダーグラウンドな音楽であったが、1980年代にはターンテーブル2台+ラップというスタイルが一般化、1986年にランDMCがロック・バンドのエアロスミスと共演したころから広くポップス・ファンにも聞かれ始めた。コンピュータ機器の応用が進んだ1990年代には、ヒップ・ホップはR&Bと結びついてアメリカのポピュラー音楽の主流となった(1990年代のR&Bとは音楽的にはソウル、リズム・アンド・ブルースの発展形であり、一般にアール・アンド・ビーと発音される)。この音楽づくりの手法は、1990年代後半以降のティーン・アイドルの音楽にもまねられている。1970年代にドイツのクラフトワークや日本のYMOが始めたコンピュータ音楽のテクノは、1980年代にはデトロイトの一部のクラブでダンス・ミュージックに生まれ変わり、クラブのネットワークを通じて欧米に広まった。同じころシカゴやニューヨークで生まれたハウスも、コンピュータによるダンス・ミュージックの一種で、普通のヒット曲をクラブ向けにリミックスする手法としても急速に普及した。イギリスではこうしたダンス・ミュージックと結び付いたロックが、1980年代なかばごろからマンチェスターを中心に人気を集めた。1990年代には、ヒップ・ホップ、テクノ、ハウスの影響をロック的に応用し、高密度に洗練された音楽をつくる人たちも現われた。

 ロックの世界では、商業化が進んで角がとれてくると、つねに若い世代の間から反発がおこる。1990年代初頭にシアトルで人気を集めていたグループ、ニルバーナの荒々しいノイズにあふれたロックが爆発的な人気をよんだのをきっかけに、1990年代前半にはアメリカ各地のインディーズで活動していた草の根的なバンドが数多く浮上。主流の音楽に対する「オルタナティブAlternative=もうひとつの」という意味でオルタナティブ・ロックと総称された。そのほか、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのようにファンクやレゲエなどさまざまな音楽の要素を取り入れたミクスチャー・ロック、長時間即興演奏を続けるジャム・バンドの音楽、ノイズや音響そのものの魅力に注目した音楽なども1990年代以降には登場してきた。

[北中正和]

日本のロック

ロックが日本に入ってきたのは1950年代後半のことである。当初はジャンプ・ブルースの流れをくむジャズの一部として紹介され、おもにジャズ喫茶で演奏されていたが、カントリー系の素養をもつエルビス・プレスリーの人気を受けて、1958年(昭和33)に日劇でウェスタン・カーニバルが行われたころからロカビリーという名前で知られるようになった。平尾昌章(のち、昌晃。1937―2017)、山下敬二郎(1939―2011)、ミッキー・カーチス(1938― )らが人気を集めた。当時はリズム・アンド・ブルース系のロックン・ロールはほとんど輸入されていなかった。1960年代に入るころにはウェスタン・カーニバル出身歌手によるアメリカのヒット曲の日本語カバーが盛んに行われた。この時期に登場した代表的なオリジナル曲、たとえば平尾昌章の『星は何でも知っている』(1958)や坂本九(1941―1985)の『上を向いて歩こう』(1961)は、まだジャズやカントリー系の音楽の影響が強かった。

 エレクトリック・ギターを中心にした小編成のバンド・サウンドが定着し始めたのは、1960年代後半のことである。1965年にはベンチャーズの来日をきっかけに寺内タケシ(1939―2021)、加山雄三(1937― )らによるエレキ・ブームが、1966年のビートルズ来日後、1967年から1968年にかけてはスパイダース、ブルー・コメッツ、タイガース、テンプターズらによるグループ・サウンズ(GS)のブームが起こった。グループ・サウンズは歌謡曲的な面ももっていたが、1960年代末にはそれに飽き足りないグループがクリーム、ジミ・ヘンドリックスら英米のロックの影響を受け、日比谷野外音楽堂などでロック・フェスティバルを組織し始めた。1970年代には、はっぴいえんど、キャロル、サディスティック・ミカ・バンド、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、RCサクセション、サザンオールスターズなどが、英語の歌から生まれたロックのリズムと日本語の溝を埋める試行錯誤を続けた。1970年代末には日本でもパンクの影響を受けたバンドが登場したが、一部の動きにとどまった。

 ライブハウスやインディーズが増えた1980年代後半には、BOØWY(ボウイ)、ブルーハーツらに刺激を受けたアマチュア・バンドによるバンド・ブームが起こり、1989年の人気テレビ番組『イカ天(いかすバンド天国)』からは、たま、ブランキー・ジェット・シティらが紹介された。1990年代以降は、100万枚単位で売れるメガ・ヒットを出すポップなバンドと、おもにインディーズを拠点に実験的な音楽を追求するバンドの分極化が進んだ。日本において輸入音楽として始まったロックは、いまなお圧倒的な入超が続き、国内のバンドのほとんどは英米的なロックのリズムを土台にして音楽を生み出している。しかし、りんけんバンド、上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)など民謡的なリズムをくふうしているバンドもないわけではない。1990年代以降はボアダムズ、コーネリアスなど、実験的な音楽が海外で注目されるバンドも出てきている。

[北中正和]

『キャサリン・チャールトン著、佐藤実訳『ロック・ミュージックの歴史――スタイル&アーティスト』全2巻(1997・音楽之友社)』『『ロック・クロニクル』全3巻(1997~1998・音楽出版社)』『『ロック・クロニクル・ジャパン』全2巻(1999・音楽出版社)』『アンドレア・ベルガミーニ著、関口英子訳『ロックの世紀』(1999・ヤマハミュージックメディア)』『三井徹・北中正和・藤田正・脇谷浩昭編『クロニクル 20世紀のポピュラー音楽』(2000・平凡社)』『北中正和著『ロック』(講談社現代新書)』『The Rolling Stone Illustrated History of Rock & Roll(1992, Random House)』

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