佐々木定綱(読み)ささきさだつな

精選版 日本国語大辞典 「佐々木定綱」の意味・読み・例文・類語

ささき‐さだつな【佐々木定綱】

鎌倉初期の武将。近江佐々木氏の祖。母は源為義の女。太郎と称した。源頼朝に従い功をかさね、近江国の守護となった。建久二年(一一九一延暦寺僧徒争いを起こし、薩摩国鹿児島県)に配流されたが、翌年、許された。法名大泉寺秀山。康治元~元久二年(一一四二‐一二〇五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐々木定綱」の意味・わかりやすい解説

佐々木定綱
ささきさだつな
(?―1205)

鎌倉初期の武将。秀義(ひでよし)の子。近江(おうみ)佐々木荘(しょう)(滋賀県近江八幡(はちまん)市)が本領であるが、平治(へいじ)の乱(1159)後、本領を離れて相模(さがみ)国渋谷(しぶや)荘(神奈川県藤沢・大和(やまと)・綾瀬(あやせ)市近辺)におり、父の命でしばしば伊豆に配流中の源頼朝(よりとも)を音問した。1180年(治承4)頼朝の挙兵に応じ、常陸(ひたち)金砂(かなさ)城(茨城県常陸太田(ひたちおおた)市)の佐竹氏討伐などに参加、戦功により本領佐々木荘の地頭に補され、ついで近江の守護となった。1191年(建久2)延暦寺(えんりゃくじ)の供料にあてらるべき佐々木荘の年貢をめぐって同寺の衆徒と争い、これを殺傷したことから延暦寺に訴えられ、薩摩(さつま)に流されたが、翌々年赦(ゆる)されて旧領安堵(あんど)された。元久(げんきゅう)2年4月9日没。

[新田英治]

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百科事典マイペディア 「佐々木定綱」の意味・わかりやすい解説

佐々木定綱【ささきさだつな】

平安末・鎌倉初期の武将。近江源氏佐々木秀義の長男,母は源為義の女。太郎と称する。平治の乱後,近江佐々木荘を逃れて下野国宇都宮に客居していた。1180年源頼朝の挙兵に応じ各地を転戦,頼朝側近の御家人として重用された。のち佐々木荘地頭になり,さらに近江守護となる。1191年年貢を対捍(たいかん)したため近江日吉社宮仕が佐々木荘に乱入,この事件の責任を問われ薩摩に配流。1193年許されて近江守護に復帰,頼朝はさらに石見・隠岐・長門の守護職も加給している。

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改訂新版 世界大百科事典 「佐々木定綱」の意味・わかりやすい解説

佐々木定綱 (ささきさだつな)
生没年:1142-1205(康治1-元久2)

平安末・鎌倉初期の武将。太郎と称す。近江源氏佐々木秀義の長男。平治の乱後下野国宇都宮に住する。1180年(治承4)源頼朝の挙兵に応じ,以後弟らとともに各地を転戦,戦功を重ねた。87年(文治3)以前より近江の守護。91年(建久2),年貢対捍(たいかん)を理由に本拠佐々木荘に日吉社の宮仕が乱入,子息定重が応戦した事件の責任を問われ,薩摩に配流。翌々年許され近江守護に復帰,あわせて石見・隠岐・長門の守護職を加給された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐々木定綱」の意味・わかりやすい解説

佐々木定綱
ささきさだつな

[生]康治1(1142)
[没]元久2(1205).4.9.
平安時代末期~鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の御家人。近江国守護。従五位上,左衛門少尉。宇多源氏佐々木秀義の嫡子。母は源為義の娘。平治の乱 (→保元・平治の乱 ) に源義朝に属して敗れた父とともに近江国の本拠を離れて関東地方に住み,のち伊豆国に配流された源頼朝に仕え,治承4 (1180) 年頼朝挙兵に弟とともに軍功をあげ,本領近江国佐々木庄その他の所領を有した。建久2 (91) 年年貢をめぐって延暦寺と紛争を起し,薩摩国に配流。子の定重は死刑となった。同4年許されて旧領を返還され,近江,石見,長門3国の守護職を与えられて,再び頼朝に仕えた。

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朝日日本歴史人物事典 「佐々木定綱」の解説

佐々木定綱

没年:元久2.4.9(1205.4.29)
生年:康治1(1142)
鎌倉前期の武将。母は宇都宮宗円の娘。太郎,左衛門少尉と称した。父秀義は源義朝の家人,平治の乱(1159)で敗北後,奥州下向の途次,関東にとどまった。そのとき,定綱は下野宇都宮氏に寄宿。源頼朝の挙兵に兄弟と共に活躍。本領近江佐々木荘を回復し,同国惣追捕使(守護)に補任された。建久2(1191)年佐々木荘の年貢をめぐる北嶺嗷訴事件で薩摩へ配流。同4年許され,近江守護をはじめ旧領安堵と新たな所領を得,長門・石見守護と隠岐一国地頭に補任された。頼朝の信頼は『渋柿』に収められた定綱あて書状でうかがえる。定綱以来,京中の警固と検非違使への補任が一族の例となった。

(湯山学)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐々木定綱」の解説

佐々木定綱 ささき-さだつな

1142-1205 平安後期-鎌倉時代の武将。
康治(こうじ)元年生まれ。佐々木秀義の長男。平治(へいじ)の乱後,本領の近江(おうみ)(滋賀県)佐々木荘を没収されたが,治承(じしょう)4年源頼朝の挙兵にしたがい戦功をたて近江守護となる。建久2年延暦(えんりゃく)寺の衆徒の強訴にあい薩摩(さつま)に流されるが,4年ゆるされて近江守護に復帰し,旧領安堵のうえ長門(ながと),石見(いわみ),隠岐(おき)の守護をかねた。元久2年4月9日死去。64歳。通称は太郎。

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世界大百科事典(旧版)内の佐々木定綱の言及

【佐々木氏】より

…近江の古代・中世豪族。孝元天皇の皇子大彦命の子孫,狭々城山君を祖と伝える佐々貴山公氏(以下佐々貴氏と略称)は,沙沙貴神社を氏神とし,近江国蒲生郡を中心に栄え,奈良・平安時代には蒲生郡,神崎郡の大領などに就任した。一方,宇多天皇の皇子敦実親王の子の雅信は936年(承平6)源の姓を賜って臣籍に下り,その孫成頼は近江に土着して宇多源氏系佐々木氏の祖となり,孫の経方は蒲生郡佐々木荘小脇の館に住んだ。こうした佐々貴氏の北に接して宇多源氏系佐々木氏が土着し,両者の同化も進んだ。…

※「佐々木定綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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