朝日日本歴史人物事典 「多木久米次郎」の解説
多木久米次郎
生年:安政6(1859)
わが国最初の人造肥料製造家。姫路藩領播磨国加古郡別府村(兵庫県加古川市別府町)の地主で魚肥商の多木勝市郎の3男。母はしか。父の死後,20歳で家業を継ぐ。前田正名に傾倒して,農村振興の基礎を安価で良質な肥料に求め,明治23(1890)年に獣骨を原料とした過燐酸肥料の製造を開始した。その後,原料を燐鉱石に変え,更にカリや窒素などの肥料をも製造した。大正7(1918)年には多木製肥所を株式会社多木製肥所に改め,社長に就任。また,村議,県議を経て,明治41年に衆院議員に当選した。5回の当選を重ね,昭和14(1939)年には貴族院議員となった。<参考文献>多木久米次郎伝記編纂会編『多木久米次郎』
(長谷川彰)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報