奈良原一高(読み)ならはらいっこう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「奈良原一高」の意味・わかりやすい解説

奈良原一高
ならはらいっこう
(1931―2020)

写真家。福岡県大牟田市に生まれる。裁判所の判事や検事をしていた父親の転勤に伴って小学校から高校まで転校を重ね、1950年(昭和25)に中央大学法学部に入学する。父親の奈良転勤の折に、仏像や美術に興味をもつようになり、同大学を卒業した1954年、早稲田大学大学院美術史専攻修士課程に入学する。そのころに九州への旅行をして、各地を旅したなかで強く印象に残った長崎の端島(はしま)と鹿児島の桜島にある黒神(くろかみ)村とに頻繁に撮影に通う。端島は通称「軍艦島」と呼ばれる石炭採掘の半人工島で、黒神村は1779年(安永8)の火山噴火で溶岩に押しつぶされた村だった。2年間をかけて撮影されたこのシリーズは、初めての写真展「人間の土地」(1956、松島ギャラリー、東京)として発表される。写真展は好評で、写真家としてのめざましい活動がスタートし、新進気鋭の写真家による第1回「10人の眼」展(1957、小西六フォトギャラリー、東京)に参加する。この写真展のメンバーには東松照明(とうまつしょうめい)、細江英公(えいこう)らがいた。1958年には和歌山の女性刑務所と修道院を撮影して、写真展「王国」(富士フォトサロン、東京)を開催し、この年の日本写真批評家協会新人賞を受賞。「人間の土地」が人工と自然の対照であったとすると、「王国」は身体が隔絶された人間と、精神的に隔絶された人間の対照であった。

 1959年には早稲田大学大学院美術史専攻修士課程を修了し、東松、細江らとともに、エージェンシーVIVO」を結成する。「カオスの地」(1960)など注目される作品を立て続けに発表するのと並行して、ファッション写真の撮影もするなど多忙を極めたが、新たな出発点を模索して、1962年に渡欧する。パリでファッション写真を撮りながら、ヨーロッパ各地で自らの写真を3年近く撮り続けて帰国。それらの写真がまとめられた写真集『ヨーロッパ・静止した時間』(1968)によって、この年の芸術選奨文部大臣賞と毎日芸術賞を受賞する。パリ滞在中にスペインの闘牛場に通って撮っていた写真を翌1969年『スペイン・偉大なる午後』として出版。そして3年間のパリ生活の経験で得た視点から日本文化を見つめなおした写真集『ジャパネスク』(1970)を出版する。この写真集では能や刀や禅などが対象とされている
 その後、コマーシャル写真にも仕事の幅を広げるなど勢いは衰えなかったが、1970年にはさらに出発点に立ち返ろうとするかのように、渡米して、ニューヨーク根拠として1974年まで滞在する。この間にも、新境地を感じさせる写真集『生きる歓び』(1972)を出版し、1972年には『モダン・フォトグラフィ』Modern Photography誌の「世界の32人の偉大な写真家」にも選ばれている。このころから奈良原一高の名前とともに「IKKO」の名も、ペンネームとして併用するようになる。帰国後の1975年にはアメリカでの写真を写真集『消滅した時間』として出版する。独特の美意識と感性で、ファッションやコマーシャルの分野でも常に第一線で活躍したが、海外取材も毎年のように続けて、1985年に出版した『ヴェネツィアの夜』で1986年度の日本写真協会年度賞を受賞。同作は、1960年代の初頭から開始され、『ヨーロッパ・静止した時間』、『光の回廊 サン・マルコ』(1981)へと続いたテーマが結実した作品である。

 近年はデジタルカメラへの造詣が深くなったが、1988年ころから病気に罹(かか)り、自身のレントゲン写真やCTなどを見たことから、暗黒の小宇宙のような自分自身の身体内部に関心をもって、レントゲン写真などを駆使して、『空 ku』(1994)を出版した。1996年(平成8)には紫綬褒章を受章。九州産業大学大学院芸術研究科教授も務めた(1996~2004)。作品はMoMA(ニューヨーク近代美術館)、ヨーロッパ写真美術館(パリ)、パリ国立図書館、ボストン美術館、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館(アメリカ、ニューヨーク州ロチェスター)など世界各国の美術館や、日本の多くの美術館などにコレクションされている。

[大島 洋]

『『ヨーロッパ・静止した時間』(1968・鹿島研究所出版会)』『『スペイン・偉大なる午後』(1969・求龍堂)』『『ジャパネスク』(1970・毎日新聞社)』『『映像の現代1 王国』(1971・中央公論社)』『『生きる歓び』(1972・毎日新聞社)』『『消滅した時間』(1975・朝日新聞社。再編集版1995・クレオ)』『『日本の美 現代日本写真全集第9巻 近くて遥かな旅』(1979・集英社)』『『光の回廊 サン・マルコ』(1981・ウナックトウキョウ)』『『奈良原一高昭和写真全仕事series9』(1983・朝日新聞社)』『『ヴェネツィアの夜』(1985・岩波書店)』『『人間の土地』(1987・リブロポート)』『『ブロードウェイ』(1991・クレオ)』『『空 ku』(1994・リブロポート)』『『ポケット東京』(1997・クレオ)』『『日本の写真家31 奈良原一高』(1997・岩波書店)』『加藤哲郎著『昭和の写真家』(1990・晶文社)』『岡井耀毅著『瞬間伝説――すげえ写真家がやって来た。』(1994・KKベストセラーズ)』『松本徳彦著『写真家のコンタクト探検――一枚の名作はどう選ばれたか』(1996・平凡社)』

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百科事典マイペディア 「奈良原一高」の意味・わかりやすい解説

奈良原一高【ならはらいっこう】

写真家。福岡県大牟田市生れ。1954年中央大法学部卒。鹿児島県桜島の火山灰地にある黒神地区と人工の炭鉱島端島(通称,軍艦島)を舞台とした《人間の土地》(1956年個展)が,従来のドキュメンタリーを超えた作品として写真界の一部で圧倒的な支持を受ける。以降,独自の華麗な映像表現を追求。1959年,早稲田大大学院美術史修士課程修了。同年,細江英公東松照明らと写真家によるセルフ・エージェンシー〈VIVO〉を結成。写真集に《ヨーロッパ・静止した時間》(1967年),《スペイン・偉大なる午後》(1969年),《ジャパネスク》(1970年),《消滅した時間》(1975年),《ベネツィアの夜》(1987年),《空》(1994年)などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「奈良原一高」の解説

奈良原一高 ならはら-いっこう

1931- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和6年11月3日生まれ。昭和31年「人間の土地」展で注目をあびる。34年東松照明らとVIVOを結成。43年「ヨーロッパ・静止した時間」で毎日芸術賞,芸術選奨。欧米各地で個展をひらくなど,国際的に活躍。写真集はほかに「王国」「消滅した時間」など。福岡県出身。中央大卒。本名は楢原一高。

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