岸田劉生(読み)キシダリュウセイ

デジタル大辞泉 「岸田劉生」の意味・読み・例文・類語

きしだ‐りゅうせい〔‐リウセイ〕【岸田劉生】

[1891~1929]洋画家。東京の生まれ。吟香の子。白馬会洋画研究所で学び、のちフュウザン会を結成。北方ルネサンス特にデューラーの影響を受けて細密な写実描写に転じ、草土社を創立。晩年は宋元画初期肉筆浮世絵に傾倒して日本画も描いた。代表作麗子像」。

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精選版 日本国語大辞典 「岸田劉生」の意味・読み・例文・類語

きしだ‐りゅうせい【岸田劉生】

洋画家。吟香の子。東京出身。白馬会研究所で修学。フュウザン会、草土社の創立に加わり、春陽会の客員となる。後期印象派やデューラーの影響をうけ、のち、浮世絵や宋元画の様式をとりいれて、精密な写実性と深い精神性を追求した独自の画風を樹立。とくに、娘の麗子をモデルとした肖像画で知られる。代表作に「切通しの写生」「麗子微笑」、著に「美の本体」「初期肉筆浮世絵」など。明治二四~昭和四年(一八九一‐一九二九

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改訂新版 世界大百科事典 「岸田劉生」の意味・わかりやすい解説

岸田劉生 (きしだりゅうせい)
生没年:1891-1929(明治24-昭和4)

洋画家。岸田吟香の第9子,四男として東京銀座に生まれる。1908年白馬会葵橋洋画研究所に入り,黒田清輝に師事して外光派の作風からスタートし,09年第13回白馬会展に《雨》,10年第4回文展(文部省美術展覧会)に19歳で《馬小屋》《若杉》が入選。そのころ,木村荘八,バーナード・リーチを知り,また雑誌《白樺》の同人,柳宗悦,武者小路実篤長与善郎などとの交友が始まる。同誌に紹介された後期印象派やフォービスムなどの感化を受けて白馬会を去り,12年春,高村光太郎の経営する琅玕堂で最初の個展を開き,秋には木村,高村,斎藤与里,万鉄五郎らと反自然主義のフュウザン会を結成(翌年解散),このころさかんに自画像や肖像画を制作した。14年ころから北欧ルネサンスの絵画に関心を高め,デューラー,ファン・アイクらの作品の感化のもとに,細密な写実画に転じた。15年木村,中川一政らと草土社おこし,《切り通しの写生》,《壺の上に林檎が載って在る》(1916)などデューラー風の神秘感のある細密描写による〈内なる美〉を追求し,肖像,静物,風景の数多い秀作を発表して青年画家に大きな影響を与えた。また17年第4回二科展で《初夏の小径》が二科賞を受賞。

 18年から《麗子五歳之像》に始まる娘麗子やその友お松の肖像に独自の画境を開いた。20年《劉生画集及芸術観》,21年《劉生図案集》を出版。22年春陽会の創立に客員として参加(1925年退会),草土社は解散となる。このころ,一連の麗子像を中心として,画業は頂点を示したが,歌舞伎を楽しみ,長唄を習い,酒に親しんで,作風はしだいに日本的性格をおびるようになる。23年の関東大震災で17年以来住んでいた神奈川県鵠沼から京都に転居してからは,ますます強く初期肉筆浮世絵や宋元画に傾倒,東洋的な表現を加味した独自の画風を築き,また水墨淡彩の日本画を手がけることも多くなった。《童女舞姿》は浮世絵風の頽廃美の漂う京都時代の代表作である。29年満州に旅行,《大連星ヶ浦風景》などを描き,帰途山口県徳山の旅舎で尿毒症に胃潰瘍を併発して急逝。その画業は油彩画を日本の絵画として確立するための孤独な格闘の軌跡であった。《岸田劉生画集》(1980)があり,文筆にも長じ《岸田劉生全集》全10巻がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岸田劉生」の意味・わかりやすい解説

岸田劉生
きしだりゅうせい
(1891―1929)

洋画家。明治24年6月23日、東京・銀座の楽善堂精錡水(せいきすい)本舗に生まれる。父は明治の先覚者岸田吟香(ぎんこう)。1907年(明治40)東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受け、翌年白馬会の葵橋(あおいばし)洋画研究所に入って黒田清輝(せいき)の指導を受ける。1910年白馬会展と文展に出品。雑誌『白樺(しらかば)』によりゴッホ、セザンヌほか後期印象派に感動し、柳宗悦(やなぎむねよし)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)ら白樺派の同人たちと交遊を始める。1912年(大正1)高村光太郎らと主観主義芸術グループのフュウザン会を結成し、翌年にかけて展覧会を開く。その後一転してデューラーなど北欧ルネサンスの写実絵画にひかれ、1915年木村荘八らと草土社を結成・主宰して、一種宗教的なまでの徹底した写実を追求した(草土社は22年まで9回の展覧会を開いた)。1917年二科展に出品して二科賞を受賞。翌年の『麗子五歳之像』に始まり、没年までさまざまな姿の娘麗子像のシリーズを制作する。そして1921年を境に日本趣味に傾き、日本画も描き始め、翌年の春陽会創立に際して客員として参加する。1923年9月の関東大震災で鵠沼(くげぬま)の家は半壊し、京都に移り住み、宋元画(そうげんが)や初期肉筆浮世絵の収集、さらに浮世絵情緒にひかれて茶屋遊びを始める。これら日本や中国の伝統的美意識の影響は、『童女舞姿』や静物画などに反映される。1926年京都を引き上げて鎌倉に移り、翌年の第1回大調和美術展に審査員として参加する。1929年(昭和4)9月末、満鉄の招待により神戸を出帆して満州(中国東北部)に赴き、大連(だいれん/ターリエン)、奉天(ほうてん/フォンティエン)、ハルビンに滞在し、個展を開くが、帰途山口県徳山町(現周南(しゅうなん)市)で12月20日急死した。享年38歳。文筆活動も盛んで、著書に『劉生画集及芸術観』『劉生図案画集』『図画教育論』『演劇美論』『美の本体』などがあり、克明な日記はのち『劉生絵日記』となった。

[小倉忠夫]

『『岸田劉生全集』全10巻(1979~80・岩波書店)』『岡畏三郎著『現代日本美術全集8 岸田劉生』(1972・集英社)』『富山秀男著『岸田劉生』(岩波新書)』

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百科事典マイペディア 「岸田劉生」の意味・わかりやすい解説

岸田劉生【きしだりゅうせい】

洋画家。岸田吟香の子として東京に生まれ,中学を中退して白馬会研究所で洋画を学ぶ。1912年高村光太郎らとフュウザン会を結成,後期印象派フォービスムに近い絵を発表した。やがて北方ルネサンスの影響を受けた写実的で重厚な作風に転じ,1915年草土社を創立,《切通しの写生》などの風景画,静物,《麗子像》などを描いた。大正末期になると初期肉筆浮世絵や宋元画に興味を示し,東洋的な味わいのある油絵や日本画を制作。著書《初期肉筆浮世絵》《劉生絵日記》《美の本体》など。
→関連項目川端茅舎小出楢重白樺派中川一政野島康三

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岸田劉生」の意味・わかりやすい解説

岸田劉生
きしだりゅうせい

[生]1891.6.23. 東京
[没]1929.12.20. 山口,徳山
洋画家。明治の先覚者,岸田吟香の第9子 (4男) 。 1908年白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事。 10年第4回文展に『馬小屋』『若杉』が入選。この頃雑誌『白樺』で後期印象派,フォービスムなどの感化を受け,12年高村光太郎らとフュウザン会を結成。のち北欧ルネサンス様式の影響を受け 15年草土社を創立。デューラー風の神秘的で細密な描写による肖像,静物,風景画を発表。 17年第4回二科展で『初夏の小路』 (下関市立美術館) が二科賞を受け,翌年から娘麗子を主題にした作品を多く制作。 22年春陽会の創立に参加。この頃から歌舞伎,能,長唄などに親しむようになって日本画も描き,関東大震災で京都に移住してからは,初期肉筆浮世絵や中国,宋元画に学び,東洋的な表現を加味した独自の画風を築いた。 29年満州旅行の帰途,38歳で山口県徳山で客死。『劉生画集及芸術観』 (1920) ,『初期肉筆浮世絵』 (26) ,『図画教育論』など著書も多い。主要作品『道路と土手と塀 (切通しの写生) 』 (15,東京国立近代美術館) ,『麗子五歳之像』 (18,同) ,『麗子微笑 (青果持テル) 』 (21,東京国立博物館) ,『村娘於松立像』 (21,東京国立近代美術館) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「岸田劉生」の解説

岸田劉生
きしだりゅうせい

1891.6.23~1929.12.20

明治~昭和前期の洋画家。東京都出身。父は岸田吟香(ぎんこう)。1908年(明治41)白馬会絵画研究所に入り外光派を学ぶ。第4回文展に初入選。雑誌「白樺」で後期印象派やフォービスムを知り影響を受ける。12年(大正元)フュウザン会を結成し,15年から草土(そうど)社を主宰。作風はしだいにデューラーらの写実主義に感化されたものや,宋画・元画に影響された東洋的作風へと変化していった。日本画の制作,古美術の収集も行った。29年(昭和4)満州からの帰途山口県で急逝。作品「道路と土手と塀(切通之写生)」「麗子微笑(青果ヲ持テル)」(重文),著書「美乃本体」「初期肉筆浮世絵」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岸田劉生」の解説

岸田劉生 きしだ-りゅうせい

1891-1929 明治-昭和時代前期の洋画家。
明治24年6月23日生まれ。岸田吟香の4男。黒田清輝(せいき)らの白馬会研究所にまなぶ。雑誌「白樺」の同人とまじわって後期印象派を知り,大正元年高村光太郎らとヒュウザン会をおこす。4年木村荘八らと草土社を結成,静物画や風景画に独特の細密表現を完成した。代表作に娘麗子をモデルにした「麗子五歳之像」にはじまるシリーズがある。昭和4年12月20日死去。39歳。東京出身。
【格言など】この世界を美しく見たいのは人類の意志である

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旺文社日本史事典 三訂版 「岸田劉生」の解説

岸田劉生
きしだりゅうせい

1891〜1929
大正・昭和初期の洋画家
東京の生まれ。白馬会の研究所で洋画を学ぶ。のち雑誌『白樺』の影響をうけ高村光太郎らとフューザン会結成に参加。1915年には草土社を創立。北欧風の重厚で緻密な画風は,当時の若い人びとに影響を及ぼした。代表作に『麗子像』『自画像』など。

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世界大百科事典(旧版)内の岸田劉生の言及

【岸田吟香】より

…また新聞広告を重視したり,盲啞学校の先駆である訓盲院を設立(1876)するなど,多角的な業績を残した。画家の岸田劉生(りゆうせい)はその四男である。【平井 隆太郎】。…

【草土社】より

…1915年10月に開かれた現代之美術社主催の洋画展覧会を第1回展として発足した。会名は,路傍の雑草に宿る生命や大地の恵みに目を注ぐというところから,会の中心になった岸田劉生がつけたもの。同人は劉生,木村荘八,横堀角次郎,清宮彬,高須光治,中川一政らで,少し遅れてバーナード・リーチ,河野通勢が加わっている。…

【明治・大正時代美術】より


[在野団体の動き]
 こうした新しい雰囲気のなかで,印象派,後期印象派の最初の団体としてのろしを上げたのが,1912年に第1回展を開いたフュウザン会である。斎藤与里,高村光太郎,岸田劉生,木村荘八,万鉄五郎ら33名が参加したが,翌13年第2回展を開いた後,斎藤と岸田の対立から会は解散した。一方,文展内部でも,印象派や後期印象派の移植とともに,旧態依然の文展への不満がたかまって,前年の日本画部で採用されたのと同じく,洋画部の審査も画風の新旧による二科制とすべし,との要求が新人洋画家たちによって出される。…

※「岸田劉生」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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