桐野利秋(読み)キリノトシアキ

デジタル大辞泉 「桐野利秋」の意味・読み・例文・類語

きりの‐としあき【桐野利秋】

[1839~1877]軍人薩摩の人。旧名中村半次郎幕末から西郷隆盛の下で活躍明治維新後陸軍少将になったが、征韓論に敗れて辞職西南戦争では西郷とともに戦い城山戦死

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精選版 日本国語大辞典 「桐野利秋」の意味・読み・例文・類語

きりの‐としあき【桐野利秋】

明治初期の軍人。初名中村半次郎。薩摩藩出身。幕末、上洛して尊王攘夷運動を行ない、戊辰(ぼしん)戦争に加わる。維新後、陸軍少将に進んだが、征韓論に敗れ、辞職。西南戦争では、西郷軍の総参謀長となり、鹿児島城山で戦死。天保九~明治一〇年(一八三八‐七七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桐野利秋」の意味・わかりやすい解説

桐野利秋
きりのとしあき
(1838―1877)

明治前期の陸軍軍人。天保(てんぽう)9年12月薩摩(さつま)国(鹿児島県)に生まれる。初め中村半次郎と称す。1862年(文久2)島津久光(しまづひさみつ)に従って入京、尹宮(いんのみや)(朝彦(あさひこ)親王)付守衛となり諸藩有志と交際、やがて西郷隆盛(さいごうたかもり)のもとで国事に奔走した。1868年(明治1)戊辰(ぼしん)戦争の東海道先峰(せんぽう)、ついで会津若松攻めの軍監となり、賞典禄(しょうてんろく)200石を賜った。1871年政府に入り御親兵大隊長、陸軍少将。1872年熊本鎮台司令長官。1873年陸軍裁判所長。この年の「明治六年政変」により西郷隆盛に従って下野。1874年同志と鹿児島に私学校設立。1877年の西南戦争に西郷軍四番大隊長となり、同年(明治10)9月24日鹿児島城山(しろやま)で戦死した。

[毛利敏彦]

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朝日日本歴史人物事典 「桐野利秋」の解説

桐野利秋

没年:明治10.9.24(1877)
生年:天保9.12(1838)
幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治期の陸軍少将。薩摩国鹿児島郡吉野村(鹿児島市吉野町)の微禄の藩士中村兼秋,スガ子の3男。通称半次郎,信作。明治に至り先祖の旧姓桐野に復した。極貧のなか刻苦精励して成長,武芸に志し古示現流の奥義を極めた。文久2(1862)年,藩主の実父島津久光の上洛部隊に編入されて上京,中川宮朝彦親王付守衛となり諸藩の勤王の志士と交流,天誅行動で鳴らし「人斬り半次郎」の異名をとった。3年8月政変ののち,長州藩の内情探索に当たり,翌元治1(1864)年の禁門の変にも大活躍して西郷隆盛の信頼を得た。鳥羽・伏見の戦に薩摩軍小頭見習として奮闘,次いで東海道先鋒総督軍に属して江戸に入り,会津征討総督軍の軍監に任じ,軍功あった。明治2(1869)年鹿児島藩常備隊大隊長,4年御親兵編成で大隊長として上京,陸軍少将に任じられ,5年熊本鎮台司令長官,6年陸軍裁判所長を歴任したが,征韓論政変(1873)で西郷隆盛に従って下野,その後,村田新八,篠原国幹らと鹿児島の私学校運営の衝に当たり,西郷派士族の教育,軍事訓練と士族層の生活維持のための開墾に尽力した。西南戦争(1877)では西郷軍総指揮者として鹿児島城山で西郷らと共に討死した。

(福地惇)

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改訂新版 世界大百科事典 「桐野利秋」の意味・わかりやすい解説

桐野利秋 (きりのとしあき)
生没年:1838-77(天保9-明治10)

幕末の志士,明治初年の武官。薩摩藩士。初め中村半次郎と称し,維新後桐野利秋と改姓改名。通称晋作。1862年(文久2)上洛して尊攘運動に挺身して勇名をはせ,戊辰戦争に際し東海道先鋒として江戸に入り,会津若松城開城の任に当たる。71年(明治4)御親兵大隊長として上京し陸軍少将,従五位を叙せらる。蝦夷地方を巡回し北海道屯田兵設置の必要を建議。72年熊本鎮台司令長官,73年陸軍裁判長となるが,74年征韓論に敗れた西郷隆盛に従って辞職。帰郷して私学校を創設し,77年西南戦争の薩軍副総帥として奮戦したが9月24日岩崎谷で戦死。
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百科事典マイペディア 「桐野利秋」の意味・わかりやすい解説

桐野利秋【きりのとしあき】

幕末・明治の志士,軍人。薩摩(さつま)鹿児島藩出身,初め中村半次郎と称す。討幕運動,戊辰戦争に活躍。1871年陸軍少将に進み,熊本鎮台司令長官,陸軍裁判長となったが,征韓論が敗れると西郷隆盛とともに下野。西南戦争に西郷軍の副総帥(そうすい)として参加したが岩崎谷で戦死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桐野利秋」の解説

桐野利秋 きりの-としあき

1839*-1877 幕末-明治時代の武士,軍人。
天保(てんぽう)9年12月生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。はじめ中村半次郎と名のる。示現(じげん)流の達人で,人斬り半次郎の名で知られた。西郷隆盛のもとで尊攘(そんじょう)運動にしたがい,戊辰(ぼしん)戦争では会津若松攻めの軍監となる。維新後陸軍少将,陸軍裁判所長をつとめるが,明治6年辞職。西南戦争で西郷軍の総指揮をとり,明治10年9月24日鹿児島城山で戦死した。40歳。通称は信作。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桐野利秋」の意味・わかりやすい解説

桐野利秋
きりのとしあき

[生]天保9(1838)
[没]1877
明治初期の軍人。薩摩藩士,初め中村半次郎と称した。陸軍少将,熊本鎮台司令官となったが,征韓論で辞職した西郷隆盛とともに鹿児島に帰郷。西南戦争で敗北,城山で戦死。

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