田中清玄(読み)たなかきよはる

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中清玄」の意味・わかりやすい解説

田中清玄
たなかきよはる

[生]1906.3.5. 北海道
[没]1993.12.10. 静岡
実業家フィクサー。東京大学文学部に入学した翌年日本共産党に入党する。 1929年大学を中退し,30年日共中央執行委員長に就任。武装闘争を指導して逮捕されるが,母が自害したことを獄中で知り,転向を表明する。 41年出獄後は反共主義者となり,造船業の神中組を創設,土木請負業にも進出した。第2次世界大戦後は,連合国総司令部 GHQに協力して王子製紙争議などに介入,反共活動を展開する一方安保闘争の際は全学連資金援助して話題となる。後年はエネルギー問題に関心をもち,インドネシアサウジアラビア石油の開発と輸入に力を注いだ。 80年外交ルートを通さず 鄧小平と会見。以後,日中・ASEAN諸国との連帯を説き続けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中清玄」の解説

田中清玄 たなか-きよはる

1906-1993 昭和-平成時代の実業家。
明治39年3月5日生まれ。東京帝大在学中に共産党にはいる。昭和4年壊滅した党中央の再建にあたり,武装闘争を指導。5年検挙され,母の割腹自殺で転向。戦後,三幸建設などを経営。電産争議などで労働組合の切り崩しをおこなう一方,六○年安保では全学連に資金を援助。インドネシアのスカルノ政権打倒を支援した。平成5年12月10日死去。87歳。北海道出身。東京帝大中退。

田中清玄 たなか-せいげん

たなか-きよはる

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の田中清玄の言及

【武装メーデー】より

…1930年,大恐慌下で鐘紡争議や東京市電争議などの激化をみた佐野博や田中清玄らの日本共産党幹部は,革命情勢が客観的にも主観的にも成熟したと判断して日本労働組合全国協議会(全協)にメーデーを武装して闘うよう指示した。神奈川県川崎では,全協組合員約20人が日本石油とライジングサンの製油所を破壊し鶴見警察署を襲撃する目的でピストル,竹やりなどで武装してメーデー会場に乗り込んだが,警官隊に制圧され,東京でも武装した全協組合員がメーデー行進を国会議事堂に誘導して襲撃する計画であったが厳戒のため果たさなかった。…

※「田中清玄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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