精選版 日本国語大辞典 「鈴木正三」の意味・読み・例文・類語
すずき‐しょうさん【鈴木正三】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
江戸初期の禅僧。本姓穂積氏,俗名は鈴木九大夫重三。出家して正三,石平道人と号し,仮名草子(かなぞうし)作者として鈴木正三を名のる。徳川氏麾下の小土豪として三河国足助(あすけ)庄に生まれ,徳川氏の移封とともに上総に転じた。このころから出離の志をもち,おりから宇都宮で修行中の妙心寺僧大愚宗築,愚堂東寔らと交流した。関ヶ原の戦,大坂の陣に参加後,旗本として江戸駿河台に住した。1616年(元和2)大愚が江戸に南泉寺を開いて住するとこれに参じ,19年武士を捨てて出家した。以後,仏教復興を念願して,大和法隆寺で沙弥戒をうけた真言律僧の賢俊良永,豊後多福寺の妙心寺派僧雪窓宗崔,曹洞宗でのち宇治に興聖寺を再興した万安英種,日蓮宗から天台宗に転じ日蓮宗批判を行った舜統院真超ら同じ志をもつ各宗僧侶と交流し,仏教復興運動の中心となった。正三自身は,三河に帰り千鳥山で修行の後,石平山に庵を構え,32年(寛永9)ここに家康,秀忠の位牌を安置して恩真寺と号し,また各地を巡錫して民衆教化につとめた。なかでも,島原の乱後,天草代官となって復興につとめた弟の鈴木重成の招請によってこの地をおとずれたことは,仏教による民衆教化の志をいよいよ強めることになった。このため江戸へ出て幕府に仏教による治国を献策すべく活動し,家光の嗣子家綱の守役となった松平乗寿や長崎奉行であった馬場利重を通じてその実現に執念を燃やしたが,果たさずして没した。その禅は仁王禅といわれ,念仏,戒律をも重修し,勇猛心をもって自(じ)心中の仏を念ずるというものであり,また,僧侶を役人として民衆教化を役とさせるという仏教治国,あらゆる職業はそれに専念するとき仏行となる(職分仏行説)という世俗倫理を説き,これらを仮名草子にも著すなど,多方面に活動した。著述に,《盲安杖(もうあんじよう)》《万民徳用(ばんみんとくよう)》《麓草分(ふもとのくさわけ)》《因果物語》《二人比丘尼(ににんびくに)》《念仏草子》《破吉利支丹(はキリシタン)》,語録に《驢鞍橋(ろあんきよう)》などがある。
執筆者:大桑 斉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(樫澤葉子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…排耶書は37年(寛永14)に起こった島原の乱を契機にして民衆教化のために利用され,幕府の鎖国政策を擁護して民衆の間に反キリシタン思想を鼓吹した。鈴木正三は天草地方の民衆教化のため《破吉利支丹》を著し,豊後臼杵の僧雪窻宗崔(せつそうそうさい)は《対治邪執論(たいじじやしゆうろん)》を書いて特異な排耶論を展開したが,しだいに一般大衆を対象とした読み物風の通俗的な排耶物語《吉利支丹物語》《吉利支丹退治物語》《南蛮寺物語》《南蛮寺興廃記》などが流布するに至った。【五野井 隆史】。…
※「鈴木正三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新