長谷川一夫(読み)ハセガワカズオ

デジタル大辞泉 「長谷川一夫」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐かずお〔はせがはかずを〕【長谷川一夫】

[1908~1984]映画俳優。京都の生まれ。林長丸・林長二郎の芸名を経て本名を名のる。初世中村鴈治郎の門人となり、関西歌舞伎で活躍。のち、映画界に入り、主に時代劇に出演。没後、国民栄誉賞受賞。主演作「雪之丞変化」「お夏清十郎」「源氏物語」など。

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精選版 日本国語大辞典 「長谷川一夫」の意味・読み・例文・類語

はせがわ‐かずお【長谷川一夫】

映画俳優。京都出身。林長丸の芸名で関西歌舞伎の舞台に立つ。昭和二年(一九二七)林長二郎と改名し松竹に入社、「雪之丞変化」で時代劇の二枚目スターとしての地位確立。同一二年東宝に移って本名長谷川一夫を名乗り、第二次世界大戦後も「近松物語」「地獄門」などで時代劇の第一人者として活躍。明治四一~昭和五九年(一九〇八‐八四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川一夫」の意味・わかりやすい解説

長谷川一夫
はせがわかずお
(1908―1984)

俳優。明治41年2月27日京都に生まれる。小学生のころ初世中村鴈治郎(がんじろう)に入門、林長丸の名で舞台に立つ。大正末期、経営不振の松竹キネマ下加茂(しもかも)撮影所が起死回生のため美男子の彼に白羽の矢をたて、鴈治郎から林長二郎の芸名を贈られ、1927年(昭和2)『稚児(ちご)の剣法』で大宣伝とともに売り出され、その水も滴る美剣士ぶりにより一躍映画界の寵児(ちょうじ)となる。以後、松竹在籍の11年間に約120本に出演、とくに女方雪之丞(ゆきのじょう)と怪盗闇太郎(やみたろう)二役の『雪之丞変化(へんげ)』(1935~1936)は大ヒットした。1937年、契約切れを機に東宝入りを発表したことから、暴漢に左頬(ほお)を切られたが、芸名を本名の長谷川一夫に改めて『藤十郎の恋』『鶴八(つるはち)鶴次郎』などに主演。1942年には新演伎(えんぎ)座を結成して舞台出演を始めた。第二次世界大戦後は東宝から大映に移り、『地獄門』『近松物語』「銭形平次」シリーズなど数多くに主演、1963年(昭和38)、300本記念の『雪之丞変化』に続く『江戸無情』を最後に大映を退社した。以後は、「東宝歌舞伎(かぶき)」を中心とする舞台活動に専念、かたわら「赤穂(あこう)浪士」「半七捕物帳」などのテレビ・シリーズでも活躍した。1974年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』で演出を担当して話題を集めた。1978年文部大臣特別賞を受け、1983年1月まで舞台を勤めたが、昭和59年4月6日死去。死後、国民栄誉賞が贈られた。

[長崎 一]

『山村美紗著『小説長谷川一夫』全二冊(1985・読売新聞社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「長谷川一夫」の意味・わかりやすい解説

長谷川一夫 (はせがわかずお)
生没年:1908-84(明治41-昭和59)

映画俳優。日本一の美男スターとして長い人気を誇り,映画を引退したあとも舞台で最後まで二枚目を演じた。京都伏見の生れ。関西歌舞伎の大御所,成駒屋・初世中村鴈治郎の門下に入って林長丸の芸名をもらい,市川右一(のちの右太衛門),市川百々之助らと青年歌舞伎を組織。その〈水もしたたる美貌〉を買われて,1927年,18歳で松竹下加茂撮影所に招かれ,女形から美男剣士の道へと進んだ。師匠の鴈治郎から林長二郎の名をはなむけにもらい,主として衣笠貞之助監督と組んで(《お嬢吉三》《鬼あざみ》(ともに1927)等々から代表作の1本となった松竹創立以来の大ヒット作《雪之丞変化》三部作(1935-36)などに至るまで),松竹時代劇の人気スターとなった。32年には松竹蒲田撮影所で初の現代劇《金色夜叉》にも貫一の役で出演している(田中絹代がお宮を演じた)。

 37年,松竹を退社して新興会社の東宝の引抜きに応じたため有名な刃傷事件が起こり,暴漢のかみそりにより左頰に傷を負うが,それを機に本名の長谷川一夫を名のり,入江たか子と共演の東宝映画《藤十郎の恋》(1938)で再起。相手役の女優も山田五十鈴(《鶴八鶴次郎》1938,《蛇姫様》1940,《婦系図》1942),李香蘭(山口淑子。《白蘭の歌》1939,《熱砂の誓ひ》1940)と多彩で,人気は衰えず,戦後の50年以降は大映で股旅物(《月の渡り鳥》1951,《花の渡り鳥》1956,《雪の渡り鳥》1957,等々)から捕物帖(《銭形平次》シリーズ,1951-61)に至る数々の娯楽時代劇に出演した。この間の大映作品には,戦前から変わらぬコンビの衣笠貞之助監督作品(《修羅城秘聞》正続篇(1953),カンヌ映画祭グラン・プリ受賞の《地獄門》(1953)など),溝口健二監督作品(《近松物語》1954),美人女優山本富士子のデビュー作(《花の講道館》1953)などもある。自らの〈300本記念映画〉として製作・主演した市川崑監督《雪之丞変化》(1963)のあと,《江戸無情》(1963)を最後に映画界を退いた。なお,宝塚の舞台で大ヒットした《ベルサイユのばら》(1974-76)の演出家としても記憶される。自伝《私の二十年》《舞台銀幕六十年》がある。
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百科事典マイペディア 「長谷川一夫」の意味・わかりやすい解説

長谷川一夫【はせがわかずお】

映画俳優。京都生れ。歌舞伎出身。林長二郎の芸名で《稚児の剣法》(1927年)など時代劇の二枚目スターとして売り出した。1937年,刃傷事件を機に本名長谷川一夫を名乗る。主作品は衣笠貞之助監督《雪之丞変化》三部作(1935年―1936年),成瀬巳喜男監督《鶴八鶴次郎》(1938年)など。戦後も衣笠をはじめ溝口健二市川崑などの作品に出演し,1963年以降は舞台で活躍した。1984年国民栄誉賞(死後追贈)。
→関連項目時代劇映画大映[株]山田五十鈴

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長谷川一夫」の意味・わかりやすい解説

長谷川一夫
はせがわかずお

[生]1908.2.27. 京都
[没]1984.4.6. 東京
映画俳優。 1913年,5歳で歌舞伎の舞台を踏み,初代中村鴈治郎のもとで役者の修業を積む。 27年林長二郎の芸名で松竹映画に入り,『稚児の剣法』でデビュー。以来二枚目スターの座を占めた。松竹時代 11年に約 120本の映画に出演。 37年東宝へ転じ長谷川一夫を名のり,第2次世界大戦後は大映で活躍した。主演作品『雪之丞変化』 (1935) ,『婦系図』 (40) ,『地獄門』 (53) ,『近松物語』 (54) 。没後,国民栄誉賞を贈られた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷川一夫」の解説

長谷川一夫 はせがわ-かずお

1908-1984 昭和時代の俳優。
明治41年2月27日生まれ。昭和2年林長二郎の名で松竹から映画界にデビュー。12年東宝にうつり本名長谷川一夫を名のる。戦後,大映にうつり38年退社。その間「雪之丞変化」「地獄門」「近松物語」など300本以上に出演。のち宝塚歌劇「ベルサイユのばら」の演出もした。昭和59年4月6日死去。76歳。死後,国民栄誉賞。京都出身。墓所は谷中霊園(東京都台東区)。

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世界大百科事典(旧版)内の長谷川一夫の言及

【衣笠貞之助】より

…日本映画の草分け監督の一人であり,日本最初のアバンギャルド映画《狂った一頁》(1926)の監督であり,イーストマン・カラーによる日本最初の長編劇映画《地獄門》(1953)で,カンヌ映画祭のグラン・プリ受賞監督でもある。また美男スター・長谷川一夫を育てた監督としても知られる。新派劇団の女形から映画界に入り,《妹の死》(1920)でヒロインの妹の役を演じながら演出に手をそめ,女形から女優に移行しつつあった日本映画の流れをいち早く察知して,《妹の死》の再映画化である《二羽の小鳥》(1923)から監督専門になる。…

【国民栄誉賞】より

…プロ野球読売ジャイアンツの王貞治が通算最多本塁打世界記録更新にあと一歩と迫った1977年8月30日の閣議の席上,福田赳夫首相が言い出したもので,王の記録(756本)達成の瞬間に初めて適用されることになり,同年9月3日に王に初めて贈られた。その後78年7月作曲家の故古賀政男,84年4月俳優の故長谷川一夫および冒険家の植村直己(受賞時点で消息不明,その後死亡がほぼ確定)に贈られた。お祝い的性格が強いもので,表彰状,盾,記念品が贈られる(その後1989年までに山下泰裕,衣笠祥雄,故美空ひばり,千代の富士が受賞)。…

【時代劇映画】より

…また,松竹は,阪東妻三郎プロダクションと組んで,〈東山三十六峰静かに眠る。たちまち深き夜の静寂破る剣戟の響き……〉という活弁の名調子を生んだ志波西果監督《尊王》(1926)などをつくるとともに,《稚児の剣法》(1927)で林長二郎(長谷川一夫)を一大宣伝作戦のもとに新スターとして売り出し,それまでの荒々しい立回りとは違ったやさ型の剣と美貌によって女性の人気を集め,時代劇の新生面を開いた。林長二郎と多くコンビを組んだ監督は衣笠貞之助で,《お嬢吉三》《鬼薊(おにあざみ)》《鯉名の銀平》《沓掛時次郎》《雪之丞変化》などにおいて林長二郎を育て,その間,立回りのない実験的な時代劇《十字路》(1928)をつくった。…

【日本映画】より

…戦後のスター・プロには次のようなものがある。(1)長谷川一夫(1948‐52)(2)鶴田浩二(1952‐53)(3)山村聡(1952‐65)(4)岸恵子,久我美子,有馬稲子の〈にんじんくらぶ〉(1954‐66)(5)三船敏郎(1962‐ 。東京世田谷成城)(6)石原裕次郎(1963‐ )(7)三国連太郎(1963‐65)(8)勝新太郎(1967‐ )(9)中村錦之助(のち萬屋錦之介)(1968‐ )
【時代劇と現代劇】

[サイレント映画の頂点――時代劇の全盛時代]
 日本映画は1920年代後半,量産時代に入り,年間650本ほどの作品がつくられるようになった。…

【雪之丞変化】より

… 最初の脚本〈前篇〉は,伊藤大輔監督が衣笠の希望で起用され,独特の奔放な話術を駆使して原作を自由闊達(かつたつ)に処理し,それを衣笠が〈現場用に潤色〉した。林長二郎(のちの長谷川一夫)が女形と俠盗の2役を演ずることを企画の眼目とし,レコード会社とタイアップした主題歌《むらさき小唄》が流行歌手東海林太郎の歌で《赤城の子守唄》に続いて大ヒット,興行的には大成功で,これが松竹蒲田撮影所の大船移転(1936)の費用をすべてまかなったと伝えられている。 1930年代前半に〈松竹時代劇〉の黄金時代を築いた衣笠貞之助=林長二郎コンビの頂点をなした娯楽映画で,戦後も衣笠は長谷川一夫を中心とした新演技座プロで再映画化を企画したが,すでに元の作品が占領軍によって日本の軍国主義と封建主義に協力したという理由で〈禁止映画〉とされていたため許可されず,表面的には新作を装って改変した《小判鮫》二部作(1948‐49)が長谷川一夫主演でつくられた。…

※「長谷川一夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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