アメリカ映画(読み)あめりかえいが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アメリカ映画」の意味・わかりやすい解説

アメリカ映画
あめりかえいが

フィルムを用いる今日の映画の前身は、アメリカにおいて発明された。エジソンが1889年、当時世界一といわれるフィルム会社の創立者ジョージ・イーストマンに注文してつくらせた活動写真機械「キネトスコープ」がそれである。ただし、これは一度に1人しか見ることのできない「のぞき眼鏡」式のもので、一般には「ピープ・ショー」とよばれ、大衆娯楽場や酒場などに置かれて人気があった。

[品田雄吉]

アメリカ映画の誕生

現在と同じように、映像がスクリーンに拡大映写される方式は、1896年にニューヨークのブロードウェーで公開された、エジソンの「バイタスコープ」から始まった。これがアメリカ映画の正式の誕生である(フランスのリュミエール兄弟のシネマトグラフがパリで公開されたのはその前年の1895年)。初期の映画は15~30メートル程度の一巻物で、ニッケル・オデオン(5セント劇場の意)と俗称される興行場で上映され、庶民層に大きな人気を得た。ニューヨークを中心とする東部の諸都市に製作会社が続々と生まれたが、とくにこの新しいビジネスに一攫千金(いっかくせんきん)を賭(か)けるユダヤ系の進出が活発だった。当初は幼稚な実写や寸劇のたぐいが多く、なによりも映写されたものが動くことの新奇さに、人々はひかれた。技術が進歩するとともに、上映時間も長くなり、表現にもくふうがこらされるようになった。エドウィン・S・ポーターは『アメリカ消防夫の生活』(1902)で、違った画面(ショット)をつないで組み合わせる「編集」の方法を考え出し、さらに続く『大列車強盗』(1903)では劇的な表現の先鞭(せんべん)をつけ、「大写し」(クローズ・アップ)の画面をつくりだした。

[品田雄吉]

ハリウッドの発展

雨の少ない西部のカリフォルニアが映画撮影に最適とみなされ、1911年から数年の間に、ロサンゼルス郊外のハリウッドに多くの撮影所が建設された。しかし、それは単に気候風土の条件がよかったからだけではなく、東部の映画会社が映画の特許権を盾にトラストを結成し、新規業者に過酷な条件を押し付けたことから、トラストの監視の目が届きにくい西部が選ばれたためでもあった。こうして、「夢の工場」とよばれるハリウッドの発展が始まり、ハリウッドの名はアメリカの映画の代名詞となっていく。また、出演俳優の人気を最大限に利用する映画の作り方、いわゆるスター・システムもこの時代に始まった。なお、作品面でもっとも注目されるのは、デビッド・ウォーク・グリフィスの業績で、アメリカ最初の長編映画『国民の創生』(1915)、『イントレランス』(1916)などにおいて、のちに映画文法の基礎となったカット・バック、フェード・アウト、フェード・インなどの表現手法を創始した。

 第一次世界大戦はヨーロッパ映画界の停滞を招いたが、大戦の直接の影響を受けなかったアメリカ映画界は大いに発展し、西部劇、スラプスティック・コメディ、連続活劇などが盛んに製作された。そして、大戦後から1920年代後半にかけて、サイレント映画は黄金時代を迎えた。イギリスの寄席(よせ)芸人出身で、スラプスティック・コメディから独自の扮装(ふんそう)で頭角を現したチャールズ・チャップリンは、監督も兼ねて『黄金狂時代』(1925)などの古典的名作を発表、バスター・キートン、ハロルド・ロイドも喜劇スターとして一時代を画した。また西部開拓劇の佳作として、ジェームズ・クルーズJames Cruze(1884―1942)の『幌(ほろ)馬車』(1923)、ジョン・フォードの『アイアン・ホース』(1924)がつくられている。パラマウント、MGM、ワーナー・ブラザース、ユニバーサル、フォックス、コロンビアなど、今日のアメリカ映画の中核をなす、いわゆる「メジャー・カンパニー」の基礎が確立したのはこの時期である。そして、発展と膨張を続けるアメリカ映画界は、ヨーロッパ映画の優れた監督や俳優を積極的に招き、その活動をよりいっそう多彩なものとした。エリッヒ・フォン・シュトロハイム、エルンスト・ルビッチ、フリードリヒ・ウィルヘルム・ムルナウ、ビクトル・シェーストレーム、マウリッツ・スティルレル、ジョセフ・フォン・スタンバーグらの監督、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒほかの俳優や女優が、アメリカ映画の国際的な性格を豊かなものにしていった。

[品田雄吉]

アメリカ映画産業の確立

伴奏音楽入りのサウンド版映画『ドン・ファン』(1926)、音楽ダンス場面同時録音の『ジャズ・シンガー』(1927)によってトーキー映画時代が始まる。それまで視覚だけに訴えてきた映画が音を獲得したのは、画期的な技術革新であった。このおかげで映画は、1929年にアメリカを襲った経済恐慌にもさしたる影響を受けず、「不況に強い」映画事業への大資本の進出を促した。一方、映画資本側にも、トーキー化のために多額の設備投資が必要となり、大資本の進出に頼らねばならない事情もあった。ヨーロッパ映画が、どちらかというと芸術主義的伝統を培っていったのに対して、アメリカ映画は当初から娯楽性が重視された。そして、音と強力な資本を得たアメリカの映画は、もっとも有力な大衆文化としての根を広げると同時に、きわめて巨大な産業として発展していった。トーキー初期は、方法論が確立されないために、舞台劇を模倣する傾向が強かったが、しだいに、音楽映画(ミュージカル映画)、西部劇、ギャング活劇、戦争活劇、写実的映画、漫画映画などといった映画独自の定型を確立していった。この時期の代表的な作品は、ルイス・マイルストーンの『西部戦線異状なし』(1930)、ジョセフ・フォン・スタンバーグの『モロッコ』(1930)、フランク・キャプラの『或(あ)る夜の出来事』(1934)、ウィリアム・ワイラーの『孔雀(くじゃく)夫人』(1936)、ジョン・フォードの『駅馬車』(1939)などである。そして、この時期のアメリカ映画の集大成として、ハリウッド的大作主義の頂点ともいうべき『風と共に去りぬ』(1939)と、アメリカ映画の芸術性の精髄ともいうべき、オーソン・ウェルズ監督主演の『市民ケーン』(1941)の2作をあげることができる。

 サイレント映画時代にメリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、ルドルフ・バレンチノ、グロリア・スワンソンらの人気スターを生み出したアメリカ映画は、トーキー時代に入ると、ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒ、クローデット・コルベール、バーバラ・スタンウィックBarbara Stanwyck(1907―1990)、ジョーン・クロフォード、ベティ・デービスらの大スターを輩出させた。とくに1930年代から1940年代にかけては、アメリカ映画のスター・システムがもっとも華やかに機能した。ハンフリー・ボガート、ヘンリー・フォンダら、トーキー化とともに演劇界から映画界に入ってきたスターも多く出た。逆にサイレント時代のスターでも、声が悪かったり、台詞(せりふ)がしゃべれなかったりして落後する者も出た。

[品田雄吉]

第二次世界大戦後の好況

第二次世界大戦中のアメリカ映画界は、全面的に国策に協力し、多くの戦意高揚映画や、戦時の市民および将兵に与える娯楽作品がつくられた。また、ヨーロッパからはナチズムに同調しなかったルネ・クレール、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュビビエ、ジャン・ギャバンらが、アメリカに逃れて映画活動をした。

 第二次世界大戦後のアメリカ映画は、旧来どおり娯楽性豊かな作品を量産する一方、戦争という厳しい体験を反映して、リアリスティックな作品が目だつようになった。ナチスから逃れてアメリカに移ったビリー・ワイルダーの『失われた週末』(1945)、『サンセット大通り』(1950)、ワイラーの『我等の生涯の最良の年』(1946)、ジョゼフ・L・マンキウィッツの『三人の妻への手紙』(1949)、『イヴの総(すべ)て』(1950)、ジョン・ヒューストンの『黄金』(1948)、エリア・カザンの『波止場』(1954)などは、いずれもアメリカの現実をそれぞれの形で反映しており、かつて「夢の工場」といわれ、つねにハッピー・エンディング(幸福な結末)をうたい続けてきたハリウッド映画もしだいに変貌(へんぼう)してきた。ジョン・フォードの西部劇『荒野の決闘』(1946)は、古きよき時代の素朴な正義感とヒロイズムが描かれた秀作だが、アメリカ映画の精華ともいうべき西部劇も、1950年代に入ると、少しずつ偶像否定的傾向を帯びるようになっていく。

 1950年代のアメリカ映画が当面した大きな問題は、急激に台頭してきたテレビへの対応だった。映画界は立体映画や3本のフィルムを横に並べて映写する「シネラマ」などによって、テレビの小さな画面を凌駕(りょうが)するスペクタクル(見せ物)性で映画の優位を保とうとした。1953年には、歪曲(わいきょく)レンズを使用して横長の大画面をつくる「シネマスコープ」方式が実用化されて大型映画時代が始まった。また、1930年代初期から散発的につくられていた色彩映画もこの時代に急速に普及した。もちろん、まだ白黒画面だったテレビに打ち勝つためである。また、1960年代に入ると、従来のフィルム幅を2倍にした70ミリ映画が実用化され、映画は大画面の迫力をさらに増すようになった。ロバート・ワイズの『ウェスト・サイド物語』(1961)、デビッド・リーンの『アラビアのロレンス』(1962)などは、その初期の代表的な作品である。さらに立体音響の開発などによって、そのスペクタクル性をいっそう増幅させていった。

[品田雄吉]

アメリカ映画の新しい波

こうした傾向は大作主義を促し、それに伴う製作費の膨張を抑制するために、アメリカ映画が、イタリアやスペインなどで製作されることが多くなった。一方、テレビ出身の作家が映画に進出するようになり、『十二人の怒れる男』(1957)のシドニー・ルメット、『終身犯』(1962)のジョン・フランケンハイマーなど、「ニューヨーク派」とよばれる作家たちの活躍も目だった。1950年代から1960年代にかけては、ハリウッドの撮影所を中心とした映画製作のシステムが徐々に解体していった時期であった。

 1967年に、テレビ、舞台出身のアーサー・ペンが『俺(おれ)たちに明日はない』を発表し、次いで俳優のデニス・ホッパーが監督した『イージー・ライダー』(1969)が出るに及んで、「ニュー・シネマ」時代が始まった。これは従来のハリウッド方式に対する一種の反逆で、虚構のドラマ性よりも現実的な感覚による表現、ロケ撮影中心、反体制的テーマなどで新風を吹き込んだ。しかしこの傾向は、未熟でひとりよがりな作品を生む弊害をもたらし、あまりにも現実を直接に反映した内容が映画に夢と憩いを求める観客の離反を生む結果を招いた。

 1970年代に登場したフランシス・フォード・コッポラ、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスら、新世代の監督たちは、それぞれ、『ゴッドファーザー』(1972)、『ジョーズ』(1975)、『スター・ウォーズ』(1977)で興行的に大成功を収め、作品的にも高い評価を受けた。彼らの特色は、映画本来の娯楽性を踏まえながら、ニュー・シネマが切り開いた新しい映画表現の可能性をさらに発展させようとしているところにある。

 こうした映画自体の変化に伴って、アメリカ映画の表看板だったスター・システムも大きく変質した。美男美女時代は1940年代でほぼ終りを告げ、ロバート・テーラーRobert Taylor(1911―1969)やエリザベス・テーラーといった美男美女タイプよりも、マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、オードリー・ヘップバーンらの個性派スターの時代が訪れる。マリリン・モンローは、ハリウッド最後のグラマー・スターだったといえるだろう。

[品田雄吉]

現状

今日では、スター・バリューで観客をよぶ時代はほぼ完全に過去のものとなった。しかし、自ら書いた脚本『ロッキー』をメジャー・カンパニーに売り込み、その映画化(1976)に自ら主演して大成功を収めたシルベスター・スタローンSylvester Stallone(1946― )のようなスターも生まれている。マスコミは彼をアメリカン・ドリームの体現者とよんだ。また、『ジョーズ』で商業的に大成功したスピルバーグは、アクション映画『インディ・ジョーンズ』シリーズ(1981~1989)やSF映画『E.T.』(1982)、『ジュラシック・パーク』(1993)などでも商業的にもっとも成功した監督となり、さらにナチ強制収容所を舞台にした『シンドラーのリスト』(1993)では待望のアカデミー作品賞および監督賞を受賞、その後、映画製作会社ドリーム・ワークスの主宰者の一人となって、アメリカ映画界の中心的存在にのしあがった。彼と同じような歩みを続けてきたジョージ・ルーカスは、『スター・ウォーズ』の続編を手がける一方で、特撮プロダクションのILM(Industrial Light & Magic:インダストリアル・ライト&マジック)社を創設して、アメリカ映画の特殊撮影関係で大きな存在となっている。

 『ミッドナイト・エクスプレス』(1978)などで脚本家として活躍していたオリバー・ストーンは、1986年、ベトナム戦争の実態をリアルに暴き出した『プラトーン』でアカデミー監督賞を受賞、以後、『7月4日に生まれて』(1989)、『JFK』(1991)、『ニクソン』(1995)などで体制批判的な政治的映画を数多く発表している。人気スターのケビン・コスナーKevin Costner(1955― )は、西部劇の大作『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)に主演・監督して、アカデミー作品賞、監督賞を受賞した。騎兵隊の将校がアメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)と親密になっていくというドラマには、自然との親和、白人の武力征服への疑問などが提示されて、従来の西部劇とはまったく違った内容をもつ作品となった。やはり人気スターから監督に進出したクリント・イーストウッドが主演・監督にあたって、1992年度のアカデミー作品賞、監督賞を受けた『許されざる者』も、西部開拓にまつわる贖罪(しょくざい)意識に貫かれた作品だったといえる。イーストウッドは、2004年度のアカデミー賞においても『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー作品賞・監督賞を再度受賞、いまやアメリカ映画の代表的な監督となった。そしてさらにイーストウッドは2006年(平成18)に、第二次世界大戦で日本軍がほぼ全滅した硫黄島(いおうとう)の戦いを取り上げ、『父親たちの星条旗』ではアメリカの側から、『硫黄島(いおうじま)からの手紙』では日本の側から描く「二部作」を監督して、硫黄島の戦いの真実に迫った。なかでも、日本側から描いた『硫黄島からの手紙』はアメリカ映画であるにもかかわらず、出演者のほとんどが日本人で、話される台詞もほとんどが日本語という異色の問題作となった。

 1990年代の主要作品としては、スピルバーグの『シンドラーのリスト』、ロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』(1993)、ロバート・ゼメキスの『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)、クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』(1994)、フランク・ダラボンFrank Darabont(1959― )の『ショーシャンクの空に』(1994)、ロン・ハワードRon Howard(1954― )の『アポロ13』(1995)、ジョエル・コーエンJoel Coen(1954― )の『ファーゴ』(1996)などがあり、シリアスな問題提起作から娯楽超大作まで、多様な作品が生まれた。また、ベン・アフレックBen Affleck(1972― )とマット・デイモンMatt Damon(1970― )が脚本を書き、主演した、ガス・バン・サントGus Van Sant(1952― )の『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997)にみられるように、若い才能も台頭した。

 前述のような意欲的な作品を生んだ1990年代のアメリカ映画は、世界的な大ヒットとなったジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997)がアカデミー賞の作品賞・監督賞などを受賞し、CGを有効に使ったスペクタクル大作時代へと移っていく。それらの代表作としては、2000年度アカデミー作品賞受賞作『グラディエーター』、2003年度アカデミー作品賞受賞作『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』などをあげることができよう。

 そしてこれらの作品群からわかるのは、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの英語圏の才能が、アメリカ映画の世界で活躍するようになっている事実であろう。以前からアメリカ映画の製作に密接にかかわってきたイギリス映画は、製作スタッフと俳優を含めて、その密接度をいっそう深めている。『グラディエーター』の監督であるリドリー・スコットはイギリス出身、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(2001~2003)の監督であるピーター・ジャクソンPeter Jackson(1961― )はニュージーランド出身、また『タイタニック』のジェームズ・キャメロンはカナダ出身である。俳優でも、ニコール・キッドマンNicole Kidman(1967― )、ケイト・ウィンスレットKate Winslet(1975― )、ケイト・ブランシェットCate Blanchett(1969― )、ラッセル・クロウRussell Crowe(1964― )など、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド出身者が多い。

 もう一つの傾向として、シリーズ作品、リメイク作品の多さをあげなければならない。これは、明らかにアメリカ映画における企画力の衰弱を示すものである。

 今日、アメリカ映画は、映画館だけでなく、ビデオやDVD、ケーブル・テレビジョンの業界にも大きな市場をもつようになり、また、ヨーロッパやアジアの映画市場でも圧倒的な優位を誇るようになった。アメリカ映画の最大の強みは、巨額の製作費をかけて娯楽性豊かな大作を生み出す基盤をもっているところにある。それが特殊撮影効果を最大限に発揮した『スター・ウォーズ』のようなSFアクション大作を生み出し、さらにコンピュータ・グラフィクスが開発されると、特撮効果はさらに進歩した。『ジュラシック・パーク』は現実に存在しない恐竜の群れを再現してみせた。いまや映画で視覚的に表現できないものはない時代になった。

 このような、デジタル・テクノロジーであるコンピュータ・グラフィクス(CG)が製作分野に導入されて、視覚的に表現できないものはない時代となった2000年代、アメリカ映画は、この技術を最大限に活用した大作を次々と公開し、世界市場での存在感を高めている。企画力の衰弱という批判の一方で、そういった大作の多くがシリーズ化され、しかも作品の本数を重ねるごとに、世界規模で数字を伸ばす傾向がみられる。このような例としては、前述の『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(2001~2003)に加えて、『ハリー・ポッター』シリーズ8本(2001~2011)、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ5本(2003~2017)、『トランスフォーマー』シリーズ5本(2007~2017)、『スパイダーマン』シリーズ3本(2002~2007)、『バットマン』シリーズ3本(2005~2012)、『シュレック』シリーズ4本(2001~2010)、『アイス・エイジ』シリーズ5本(2002~2016)などがあげられる。

 さらにデジタル・テクノロジーは、新たな3D映画の誕生へとつながった。3D映画すなわち立体映画は、既述のように、1950年代にテレビへの対応策として取り入れられたものだったが、2000年代においても映画館ならではの体験の提供という動機は共通している(加えて今回は、海賊版対策といった側面もある)。3D映画に対しては、これまでに映画館に定着してこなかったことから、業界関係者と観客それぞれに懐疑の念は少なくなかったが、『アバター』(2009)の大成功により評価は一変した。このジェームズ・キャメロン監督作品は、それまで破られることのなかった自身の『タイタニック』の興行記録を更新し、新たな3D映画が上映できるような、映画館のデジタル化が世界的に促進されるに至っている。

 製作、上映両面でのデジタル化が、これからのアメリカ映画をどう変えていくか注目しなければならない。なぜなら、アメリカの動向が、結局、世界の映画状況をリードしていくことになるからである。

[品田雄吉・濱口幸一]

『筈見有弘著『世界の映画作家28 アメリカ映画史』(1985・キネマ旬報社)』『水野晴郎著『ハリウッド100年』(1990・勁文社)』『佐藤忠男著『アメリカ映画』(1990・第三文明社)』『安木正美著『デジタル・ハリウッド――マルチメディア時代の映像ビジネス』(1995・日本経済新聞社)』『加藤幹郎著『映画ジャンル論――ハリウッド的快楽のスタイル』(1996・平凡社)』『加藤幹郎著『映画 視線のポリティクス――古典的ハリウッド映画の戦い』(1996・筑摩書房)』『ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定・村山匡一郎・出口丈人・小松弘訳『世界映画全史7、8 無声映画芸術の開花――アメリカ映画の世界制覇1、2』(1997・国書刊行会)』『井上一馬著『アメリカ映画の大教科書』上下(1998・新潮選書)』『八尋春海著『映画で学ぶアメリカ文化――映画を見ればアメリカが解る』(1999・スクリーンプレイ出版)』『ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定訳『世界映画全史11 無声映画芸術の成熟――ハリウッドの確立』(1999・国書刊行会)』『滝山晋著『ハリウッド 巨大メディアの世界戦略』(2000・日本経済新聞社)』『畑暉男編『20世紀アメリカ映画事典 1914→2000 日本公開作品記録』全2冊(2002・カタログハウス)』『大場正明編『アメリカ映画主義――もうひとつのU.S.A.』(2002・フィルムアート社)』『田中英司著『現代・アメリカ・映画』(2004・河出書房新社)』『藤原帰一著『映画のなかのアメリカ』(2006・朝日選書)』『北島明弘著『アメリカ映画100年帝国――なぜアメリカ映画が世界を席巻したのか?』(2008・近代映画社)』『塚田幸光著『シネマとジェンダー――アメリカ映画の性と戦争』(2016・臨川書店)』『上島春彦著『レッドパージ・ハリウッド――赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝』(2016・作品社)』『田山力哉著『現代アメリカ映画の監督たち』(現代教養文庫)』『ロバート・スクラー著、鈴木主税訳『アメリカ映画の文化史――映画がつくったアメリカ』上下(講談社学術文庫)』『井上一馬著『ブラック・ムービー――アメリカ映画と黒人社会』(講談社現代新書)』『北野圭介著『新版ハリウッド100年史講義――夢の工場から夢の王国へ』(平凡社新書)』『ミドリ・モール著『ハリウッド・ビジネス』(文春新書)』『中条省平著『クリント・イーストウッド――アメリカ映画史を再生する男』(ちくま文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「アメリカ映画」の意味・わかりやすい解説

アメリカ映画 (アメリカえいが)

ジャン・リュック・ゴダールは〈すべての映画はアメリカ映画である〉といっている。クローズアップモンタージュなどさまざまな映画的手法を開発し,それらを駆使して巧みに長編の物語を語ることをはじめ,それ以後のすべての映画の基礎を築いたのは,〈アメリカ映画の父〉D.W.グリフィスであった。また,スターシステムや撮影所のシステムをはじめ,映画の製作,配給,興行のしくみなど,映画のあらゆる側面を通じて,〈アメリカ映画〉から生まれ発展し,各国の映画にもたらされたものは数多い。1911年,ハリウッドに最初の撮影所が建設されて以来,アメリカ映画史はハリウッドを中心に形成されることになる。ここでは,〈アメリカ映画〉の特質をなすいくつかの点を中心に記述するが,〈ハリウッド〉の項目をも参照されたい。

アメリカ映画の産業としての始まりは,〈ストーリー・ピクチュア〉,すなわち,ストーリーを物語る映画の出現からとされる。それは,E.S.ポーター監督の《アメリカ消防夫の生活》(1902),《大列車強盗》(1903)に始まるが,グリフィスは,《ドリーの冒険》(1908)以降の諸作品でその手法を発展させ,完成させた。例えば,クローズアップは《大列車強盗》で初めて使われたが,それは犯人が観客席の間近から射撃しているように見せるための,いわば純粋にセンセーションを引き起こすトリックとして使われたにすぎない。エイゼンシテインによれば,重要なのはグリフィスがこの手法を〈モンタージュ的に,つまりストーリーを語る手段として使った〉ということであった。こうしてグリフィスの映画はその後のあらゆる〈劇映画〉の作法の基本および模範となったのである。エイゼンシテイン,ラング,ルノアール,ドライヤー,ヒッチコック等々,やがて映画の最初の黄金時代を築く各国の巨匠たちは皆,グリフィスに学んだことを強調し,〈グリフィスの国〉で映画を撮ることを,すなわち〈アメリカ映画〉を撮ることを生涯の夢としたのである。

 一方,グリフィス,M.セネットと並んで草創期のアメリカ映画の三大監督といわれたT.H.インス(1882-1924)は,プロデューサーを中心とした撮影所のシステムを作った。それがハリウッドの映画製作のシステムの基本となり,ムッソリーニが建設したイタリアのチネチッタも,ソ連のモスフィルムも,世界の撮影所がすべてこのシステムを採用することになる。またバレンティノを大スターにしたてた監督でもあるR.イングラム(1892-1950)は,1926年に南フランスのニースにカリフォルニアと同じ太陽光線を発見して,ハリウッドと同じシステムの撮影所〈ステュディオ・ド・ラ・ビクトリーヌ〉を建設した。のちにここで《天井桟敷の人々》などフランス映画の名作が撮影されるが,この撮影所を舞台にしたF.トリュフォーの《アメリカの夜》という映画の題名は,フランスの映画用語に固有の表現で,〈つぶし〉(疑似夜景)のことであり,〈アメリカ映画式に撮られた夜景〉という意味である。このことばに限らずフランスの映画用語には,例えば〈プラン・アメリカン〉(アメリカ映画的なカットの意で,アメリカ映画の特徴と見られていた腰から上のサイズのカット)といった表現もある。フランスをはじめ各国の映画界で,アメリカ映画の用語が数多く使われることにも,〈アメリカ映画〉が世界のあらゆる映画の中に深く根付いていることが認められよう。

のぞき式のキネトスコープ,次いでスクリーンに映写するバイタスコープを発明したエジソンは発明家にとどまったが,これを企業化,産業化したのは,多くはユダヤ系のヨーロッパ人,とくに東ヨーロッパからの移民,あるいは移民の子どもたちであった。彼らは例外なく貧しい階級に属し,立身と一獲千金の夢を人一倍強くもち新世界に渡ったのである。ハリウッドの映画会社を作ったのはこのような人々であった。すなわち,パラマウントのA.ズーカーは毛皮商,ジェシー・ラスキーは旅芸人,MGMのL.B.メーヤーはくず屋,M.ローは新聞売子,S.ゴールドウィンは手袋屋,20世紀フォックスのW.フォックスは織物屋,ユニバーサルのK.レムリは服屋,ワーナー・ブラザースのJ.ワーナーは寄席芸人,コロムビアのH.コーンは大道芸人の,それぞれ出身である。アメリカ映画産業を牛耳ることになる人々はことごとくこのような境涯から身を起こして,アメリカ的な〈サクセスストーリー〉を地で行った。新世界に夢を求めた〈外国人〉の群れがアメリカ映画を育て上げたところに,アメリカ映画が世界でもっともポピュラーな存在になり得たその〈国際性〉の秘密の一つがあろう。さらに1920年代から30年代にかけて,ドイツからシュトロハイム,ムルナウ,スウェーデンからスティルレル,ハンガリーからカーティスといった監督たち,また女優としてはスウェーデンからグレタ・ガルボ,ドイツからポーラ・ネグリ,マルレーネ・ディートリヒ,チェコスロバキアからヘディ・ラマールといった人々がアメリカ映画に身を投じた。またナチス・ドイツから逃れてきたラング,サーク,シオドマーク,ワイルダーらの映画監督を受け入れ,そのほか,アメリカ映画音楽の基礎を築いたチェコ生れのE.V.コーンゴールド,オーストリア生れのM.スタイナー,俳優ではイギリス人のケーリー・グラント,フランス人のシャルル・ボアイエ,スウェーデン人のイングリッド・バーグマン等々,つねに〈外国人〉を輸入し〈アメリカ映画〉を補強してきたことがその事実を物語っている。しかも,とりわけアメリカ映画的なアメリカ映画である西部劇の作り手がアイルランド人の移民の子であるジョン・フォードであり,アメリカン・ロマンスの名作であり〈もっともアメリカ的な愛国精神〉に貫かれた映画として知られる《カサブランカ》(1942)の監督が,ハンガリー人のマイケル・カーティスであるというところにアメリカ映画の特質があるといえよう。しかも,30年代には,ほとんどすべてのスターがアングロ・サクソン系の名まえを名のった。W.マンチェスターが指摘するように,外国人の集団であったアメリカの興行界は,人種的素性を隠して,〈アングロ・サクソン一色〉とすることによって大衆性と国際性を獲得したのである。

アメリカの作家ドス・パソスのことばによれば,アメリカ映画は〈欲望や夢を5セントとか10セントで大安売して〉きた。ハリウッドは〈夢の工場〉と呼ばれていた。ジョン・スタインベックは次のように述べている。〈初期の映画は,中世ヨーロッパの大寺院のように生活に栄光をもたぬ人々のために栄光を開いてくれた。生活が単調で,悲しく,興奮もなく,醜く,希望のない人も,切符1枚の値段で,あらゆる人が金持ちで美しく,または力があって勇敢だという,夢の世界に仲間入りすることができた。また前もって解決の糸口がそれとわかる問題が解決されたあとにも,永遠の幸福が紫色と黄金の日没のように訪れる夢の世界に入ることができた。これらの映画は,外国人の心にひどく不正確なアメリカのイメージを植えつけた。いくら無知なアメリカ人でも,栄光と悪徳と暴力の夢の世界に別れを告げれば,やかましい街頭に,平凡な町に,単調な仕事に戻っていくことは承知していた。しかし貧しい移民は,アメリカの黄金の夢と幸福の約束にひきつけられた〉(《アメリカとアメリカ人》)。

 こうした〈黄金の夢〉の最大の体現者がいうまでもなくスターであった。アメリカ映画は大衆をスターに同化させるために,一方では宣伝によってスターを神話化し偶像化しつつ,他方ではゴシップという形をとったもう一つの宣伝によってスターの〈私生活〉を暴く形でスターを一般の人々の程度にまで引き下ろして,親しみやすい存在にしたのである。すなわち豪華な屋上テラスやプールのある大邸宅に住むスターも,愛犬とたわむれたり台所で自分で料理するときにはふつうの人と変りがないといったイメージを見せたり,伝説の美女グレタ・ガルボも街に買物に出るときはいつも古ぼけたレーンコートを着ているところを見せたり,華やかでスキャンダラスな結婚をしたスターも惨めな離婚をするのだというところを見せたり,といったふうに〈偶像〉の裏表を見せる形で大衆のスターへの同化をいっそう強めることに成功した。こうしてアメリカ映画は,長い間,〈アメリカ的生活様式(アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ)〉の模範という幻想を生み出し続けたのである。

ペニー・アーケードという場末の娯楽施設の一部分にすぎなかった〈映画〉が,大衆に〈夢〉を売り続けて太り,やがて1930年代には映画はアメリカの最大の娯楽になっていた。そして,映画そのものが〈栄光と悪徳と暴力の夢の世界〉に膨れ上がっていく過程がアメリカ映画の歴史であった。

 見世物として出発し,製作,配給,上映(興行)のうちの上映を中心とする個人企業の道をたどった初期のアメリカ映画は,たんなる〈動く写真〉か〈舞台の缶詰〉にすぎず,やがて目新しさと物珍しさを失い,一時の好況に乗じたはげしい自由競争ののちに迎えた衰退の危機を乗り越えるには,個人企業からの脱却と〈物語映画〉の出現が必要であった。古い大陸の伝統や芸術の歴史を背後にもたないアメリカ映画は,〈動きの喜劇action comedy〉や〈追っかけものchase picture〉など,映画のもっとも特質的なものを発見して急速に発展し,雄大な自然を背景に活劇を展開する〈西部劇〉,演劇的な構成から自由でスピードとサスペンスを主題とする〈連続ものserial〉,〈追っかけもの〉のあとを継いで,のちの喜劇映画の先駆けとなった〈スラプスティック〉などによって映画独自の世界を作り上げ,文字どおり〈モーション・ピクチュア〉となった。

 その後,アメリカ映画は業界の統制と抗争の問題をかかえて発展し,条件が製作に適しているハリウッドが発見されて製作の中心が東部から西部へ移ったが,ハリウッドの建設はアメリカ映画企業の発展の結果であり,個人企業から出発したアメリカ映画がウォール街の資本と結びついたことを物語るものでもあった。

 第1次世界大戦が始まった1914年には,世界中で上映される映画の90%はフランス映画であったが,戦争と同時に全ヨーロッパの映画製作はほとんど中止され,この機会にアメリカ映画はアメリカ資本主義の成長とともに発展した。さらにグリフィスの二つの長編《国民の創生》(1915)と《イントレランス》(1916)の興行的成功は,特作品,あるいは超特作品製作のきっかけを作り,やがて全上映作品を同一会社の作品でまかなう専門館システム〈ブロックブッキング〉制度を助長して,結果的に映画資本のトラスト化を促進した。そして自然発生的なスターに代わる人為的な〈スターシステム〉が強化されることになる。

 サイレント映画の発展と完成の時期を経験したアメリカ映画は,20年代半ばにはアメリカの五大産業の一つに数えられていたが,危機をはらんだアメリカ経済の不況に影響されて経営が悪化し,それを打開する投機として世界最初のトーキー《ジャズ・シンガー》(1927)が公開されてトーキーの時代を迎えた。映画のトーキー化は莫大な資金を必要としたため,映画資本の高度化と金融資本との結びつきを促進し,ハリウッドはウォール街によって支配されることになる。一方,世界市場への進出も進み,28年には世界中で上映される映画の85%をアメリカ映画が占めるに至った。29年に始まったアメリカの経済恐慌は,企業として有望視された映画への大資本の進出をさらに促進し,アメリカ映画に娯楽商品としての性格を定着させ,新しく音を得たトーキーの特色を活用した音楽映画,戦争映画,ギャング映画,西部劇が量産されて〈ハリウッドの黄金時代〉が到来する。第2次大戦中は,映画は政府によって重要産業に指定され,24万人の映画人のうちの4万人が戦線で軍務に服し,あるいは記録映画や宣伝映画の製作に従事した。41年には戦時情報局が設置されて,戦争中のハリウッド映画の約1/4は国策に協力する戦意高揚映画で占められたが,メロドラマ,西部劇,喜劇,ミュージカルなどの娯楽映画が流れ作業的に量産された。

第2次大戦中の映画界の好況は戦後になっても持続するかに見えた。1年後の1946年は約17億ドルというアメリカ映画史上最高の興行収入を記録したのである。しかし翌年からこの数字は少しずつ減少し始め,アメリカ映画はさまざまな試練を体験することになる。50年ころまで年間約350~500本の長編劇映画を生産していたハリウッドは,続く10年間では,52年に278本,60年に211本,62年には138本と縮小の一途をたどっていった。その原因には,観客の嗜好の変化,レジャーの多様化など多くの複合要素があるが,具体的なものとしてはテレビの興隆とハリウッド独占資本の解体があげられよう。

 まずテレビは,1946年に本格的なネットワーク放送が開始されたのだが,その受像機台数は52年に1800万台,60年代には6000万台と急増を見せ,映画の国内市場を著しく狭めた。これに対して,最大の国外市場であるイギリスなど英語圏諸国は言うに及ばず,世界の国々への進出の努力がなされ,おおむね効を奏したが,ときとして高い関税という障壁にも遭った。またインフレによる製作費の高騰は,1941年から61年までの間に3倍にも達し,その後も上昇を続けているが,このことは結果的にイギリス,イタリア,スペインなどコストの安い国での製作を助長して現在に至っている。ちなみに70年代初頭のアメリカ映画は,その約半数が国外で作られたものである。テレビの脅威に対抗して映画界は〈ワイドスクリーン〉による映画の大型化を打ち出した。フレッド・ウォーラーが1952年に発表した〈シネラマ〉方式を皮切りに,《聖衣》(1953)を第1作とする20世紀フォックス社の〈シネマスコープ〉をはじめ,パラマウント社の〈ビスタビジョン〉,MGM社の〈パナビジョン〉,さらに70ミリ映画などが次々と開発され,古代史劇などのスペクタルを売物にするカラー大作が一時的に観客を映画館へと引き戻した。しかし,それは形式的な拡大にすぎず,やがて大衆に見放され,近年はめったに製作されることもなくなっている。このほか,〈3D〉方式と呼ばれる立体映画が作られたり,〈においの出る映画〉が試みられたり,70年代に入ってからも,空気を振動させて臨場感を生む〈センサラウンド〉方式が開発されるなどしたが,決定的な成功にはほど遠いものであった。

 一方,ハリウッド独占資本の解体は,パラマウント社など〈メジャー〉と呼ばれる大映画会社が,トラスト内で〈取引制限〉をしていることを違法であるとする連邦最高裁の決定(1948年5月)によってもたらされた。メジャーが統括していた製作,配給,興行の3部門から興行部門が分離され,各社は大きな経済的基盤を失い,それに伴って独立プロデューサーが台頭する契機を生み出す一方,やがて1950年代から60年代にかけてメジャー各社がコングロマリットに次々と吸収されていくことになる。

 さらに,戦後の冷戦の激化とアメリカ社会の反動化を背景として,1947年,共和党議員パーネル・トマスを中心とする下院非米活動委員会が,ハリウッドの〈赤狩り〉に本格的に乗り出し,50年代半ばまで多数の映画人の間に深刻な分裂と動揺をもたらした。この期間にハリウッドから追放され,あるいはみずから去り,その後長い間アメリカでは自由な活動の場を与えられず,海外での活動を余儀なくされた映画人は多い。

 こうしたハリウッド体制のさまざまな動揺の中で,アメリカ映画はますます商業主義の度合を強めていく。例えば55年に建設されたディズニーランドは,映画の〈夢〉が現実をのみ込んだ典型的な例の一つである。そこでは映画は遊園地の一部ではなく,遊園地が〈映画〉の中に入ることになる。さらにキャラクターの商品化にとどまらず,原作,音楽から広告デザインまで含めた多角的,総合的なイメージの商品化(ムービー・マーチャンダイジング)が進み,近年では,MCAというマーチャンダイジング専門の会社が設立され,映画の興収と並行して収益を上げ,映画産業の主要な部分となりつつある。

 一方,60年代末期に,いわゆる〈アメリカン・ニュー・シネマ〉が現れ,それと同時に〈ニューヨーク派〉が台頭して(アンダーグラウンド映画)ハリウッドの崩壊が叫ばれるようになる。以降のアメリカ映画は,当然ながら,かつてのハリウッド映画一色の時代から大きく変貌する。ウッディ・アレンの《マンハッタン》(1979)のような〈ニューヨークのアメリカ映画〉もあれば,〈黒人監督第1号〉のゴードン・パークスの〈黒いジャガー〉シリーズ(1971)のような〈黒人のアメリカ映画〉(〈ブラック・シネマ〉)もある。またフランシス・コッポラの《ゴッドファーザー》(1971)やマーティン・スコセッシの《ミーン・ストリート》(1973)のような〈エスニック(移民としてアメリカに渡ってきた民族の子孫たち)の映画〉もあれば,それに対してマイケル・チミノの《天国の門》(1979)のような〈WASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)の映画〉もあるといったように,〈少数派〉や〈少数民族〉のための映画が群立してきている。同時に,スターの名前もアル・パチーノ,ロバート・デニーロといったふうに,かつてのアングロ・サクソン一色から〈民族系〉のはっきりしたものが目だち始めた。また〈ハードコア〉のポルノ映画も一つの〈少数派〉アメリカ映画といえるかもしれない。

 かつてアメリカ映画は〈万人のため〉〈大多数のため〉に作られたが,70年代以降はその逆をいくようになっている。とはいえ,それもまた新しい形の商業主義であり〈大衆娯楽映画〉のありようなのである。R.スクラーは〈商業主義の精神は,そこにかせぐべき利益がある限りハリウッドを支配することを決してやめようとはしないのである〉といっている。ハリウッドは,その周辺の映画勢力(〈オフ・ハリウッド〉などと呼ばれた)によって変質を余儀なくされたが,そういったすべてをたちまち吸収して新たに肥大化するという力だけは失っていない。その意味では,アメリカ映画は依然としてハリウッドを中心に動いているともいえよう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アメリカ映画」の意味・わかりやすい解説

アメリカ映画
アメリカえいが

草創期よりアメリカは映画の先進国であった。 1910年代にはハリウッドが建設され,サイレントの連続活劇,スラップスティック・コメディ (どたばた喜劇) などで独自の分野を開拓。芸術面でも,D.W.グリフィス監督らが表現の可能性を追究し,さまざまな撮影技術を開発した。トーキー時代に入ると,8社のメジャー会社が映画企業を支配。音を得た映画はミュージカルを開拓。また,20年代末から始った経済大恐慌を反映して,禁酒法下に暗躍するギャングの映画や社会悪を追究した作品も流行。 29年には第1回アカデミー賞授賞式が開催され,現在まで続いている。やがて,35年に始ったカラー映画も『風と共に去りぬ』 (1939) の成功で普及していった。第2次世界大戦後も映画産業は繁栄の一途をたどったが,レッド・パージによる弾圧でチャップリンらは海外に逃れた。 50年代に入るとテレビの普及で打撃を受けたが,スクリーンの大型化や他種企業の傘下での企業再編成が試みられた。やがて,ベトナム反戦などの反体制運動を背景に,60年代末から始ったニュー・シネマ運動が,思想性と制作規準の緩和をもたらし気鋭の作家を輩出。反面,産業としての映画は衰退の傾向をみせた。 70年代に登場した F.F.コッポラ,S.スピルバーグらはこうした沈滞ムードを打破し,ハリウッド伝統の映画作りを復活させ,SFX技術などを駆使して大型映画に挑んだ。この傾向はさらに,『エイリアン』 (79) などの SFや『ターミネーター』 (84) などのハード・アクションを生み,同時にベトナム戦争,ドラッグなど社会状況を反映した作品も次々と作られた。 80年代後半に入るとニューヨークを中心に独立プロなどの自主制作映画が隆盛をきわめ,特にスパイク・リーなど,人種・社会問題をテーマにした黒人監督が注目された。最近は,新しい形の女性映画やエイズなど社会問題を扱う作品,また家族愛や古きよき時代を描いた作品など新しい方向をみせている。現在,アメリカ映画は世界市場をほぼ独占,日本でも洋画興行収入の大部分を占めている。

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世界大百科事典(旧版)内のアメリカ映画の言及

【サイレント映画】より

…原始的で幼稚な〈もの言うフィルムsprechender Film〉などもつくられていたドイツでも,フランスの〈文芸映画〉にならって文学作品の映画化が始まり,シラーの《ドン・カルロス》(1910),シュニッツラーの《恋愛三昧》(1912),ハンス・ハインツ・エーウェルスの《プラーグの大学生》(1913),ワーグナーの楽劇《タンホイザー》(1914)などが映画化され,〈活動〉(キーントップ)から〈映画〉(キーノ)へ,さらに〈映画芸術〉(フィルムクンスト)への道をたどり始めた。 第1次世界大戦が始まる1914年までは世界の映画の90%をフランス映画とイタリア映画が占め,アメリカ映画はヨーロッパ映画のあとを追いかけていたが,古い伝統や芸術の歴史を背後にもっていなかったため,ヨーロッパよりさきに〈映画〉という表現形式の特質を発見し,映画のもっとも素朴で原始的な性質である〈動くということ〉から出発した。それはのちに映画史家が,滝の特性をつくりだすのは水ではなくて水の運動であるのと同じように,映画の本質は〈画〉ではなくて〈運動〉であると指摘した発見であった。…

【トーキー映画】より

…音波を光学的にフィルムに記録,再生して,それを増幅するというトーキーのための技術的前提は,すでに1920年ころには整っていた。アメリカ映画は,第1次世界大戦に乗じて興隆し,世界市場を制覇したが,そのために利用したスター・システムと大作主義によって製作費が膨張し,20年代末にはアメリカ第3位の重要産業としての発展は限界に達していた。そのうえ,29年に現実となった金融恐慌に象徴されるように,危機をはらんだアメリカ経済の内部矛盾のため大衆の購買力がいちじるしく低下し,アメリカ映画の収支が悪化,ヨーロッパから俳優や監督を〈輸入〉するといった消極的な対策では問題が解決できなくなっていた。…

【ニュー・シネマ】より

…不況時代のアメリカ中西部の銀行を荒らしまわった男と女の2人組のギャングの短く激烈な人生を描く,この〈アナーキーな暴力〉にみちた青春映画に次いで,やはり〈無法の青春〉を描いたデニス・ホッパー監督《イージー・ライダー》(1969)が,若い観客層を熱狂させて大ヒット。ともに低予算の映画で,ハリウッドの伝統である撮影所システムに縛られずに,ハリウッド育ちではない監督(アーサー・ペンはニューヨークの舞台の演出家出身であり,デニス・ホッパーはリー・ストラスバーグの〈アクターズ・スチュディオ〉の俳優出身である)によって〈自由に〉つくられたことから,ハリウッド=アメリカ映画の概念を打ち破った新しいアメリカ映画として〈ニュー・シネマ〉あるいは〈アメリカン・ニュー・シネマ〉の呼称で総括されることになった。 おりから大手映画会社の撮影所が次々に外部の金融資本によって買収され,〈ハリウッドの崩壊〉が叫ばれていた矢先でもあったので,〈ニュー・シネマ〉こそアメリカ映画の救世主であり未来を背負う力であるとすらいわれたが,《俺たちに明日はない》の二番せんじのギャング映画や《イージー・ライダー》を模倣したオートバイ映画などがはんらんした結果,そのほとんどすべてが興行的に失敗した。…

※「アメリカ映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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