〈笑わぬ喜劇王〉として知られたアメリカのサイレント喜劇のスター。カンザス州生れ。3歳のときから旅回りのボードビル芸人の両親とともに舞台に立つ。赤ん坊のときに階段から落ちてもけが一つしなかったのを,一座の芸人でのちに世紀の魔術師として名をなすハリー・フーディーニが見て〈バスター(やったぜ)!〉と叫んだのが,そのまま芸名になったといわれる。本名はジョゼフ・フランシス・キートン。コメディアンのでぶ君ことロスコー“ファッティ”アーバックル(1887-1933)の相棒(助演,共同監督,ギャグマン)として,1917年から19年にかけて《デブ君の女装》を手始めに14本の短編を撮り,20年,プロデューサーのジョゼフ・スケンク(1878-1961)の下でキートン・プロダクションを設立,22年までに《文化生活一週間(マイホーム)》《案山子(スケアクロウ)》《化物屋敷》《警官騒動》等々,スラプスティックの頂点に列せられる19本の短編を自作自演で撮る。23年の《滑稽恋愛三代記(キートンの恋愛三代記)》から29年の《キートンの結婚狂》に至る12本の〈フィーチャー(長編)〉を生み出した1920年代がキートンの黄金時代で,トーキー以後は1本のヒット作もなく,各国を転々とし,戦後はビリー・ワイルダー監督《サンセット大通り》(1950)やチャップリン監督・主演《ライムライト》(1952)で落ちぶれた映画俳優や芸人の役で特別出演したり,各地の劇場でボードビルを演じたりした。66年に70歳で死去する直前,カナダのアニメーション作家ジェラルド・ポタートンが,キートン・ギャグを集大成してみせた短編《キートンの線路工夫》(1965),サミュエル・ベケットがキートンのために脚本を書いたアラン・シュナイダー監督の短編《フィルム》(1965),およびリチャード・レスター監督がキートンへのオマージュとしてつくった《ローマで起った奇妙な出来事》(1966)で,突如,鮮やかな〈キートン復活〉を見せた。
キートン喜劇は,〈サイト(視覚的)ギャグ〉と〈追っかけ〉を二大要素とするスラプスティックスの頂点にありながら,いわゆるどたばたに堕さず,その喜怒哀楽をいっさい顔に出さない美しい端正な〈無表情〉(英語では〈デッドパン・マスクdeadpan mask〉とか〈ストーン・フェイスstone face〉などと呼ばれる)と,ただひたすら走るという単純なアクションによって抱腹絶倒の笑いを生み出すところに偉大な特質があった。その〈ギャグのソフィスティケーション〉の極致が,自然現象(雨,風,雪,嵐,岩くずれ等々)や暴走する交通機関(列車,自転車,船等々)やときには映画そのもの(カメラ,フィルム,スクリーン等々)といった不可抗力の対象との真に肉体的な格闘のイメージである。例えば,《荒武者キートン》(1923)では激流,《忍術キートン(キートンの探偵学入門)》(1924)では暴走自転車やスクリーンに映写中の映画,《キートンの栃面棒(セブン・チャンス)》(1925)では結婚を迫って襲ってくる花嫁の大群と崩れ落ちてくる岩石の群れ,《キートン将軍(キートンの大列車追跡)》(1926)では暴走機関車,《キートンの船長(キートンの蒸気船)》(1928)では暴風雨,《キートンのカメラマン》(1928)では撮影機等々といった相手と果てしない格闘を演ずる。それはまた,チャップリンのセンチメンタルな〈ヒューマニズム〉とは対照的な涙なきコメディであり,真に映像的コメディでもある。〈キートンの悲劇はチャップリンと同時代のコメディアンであったことだ〉といわれるが,実際,長い間,キートンは〈チャップリンに次ぐ〉コメディアンとみなされてきた。しかし,60年代以降,キートンの作家研究が盛んに行われて,チャップリンをもしのぐ〈サイレント・クラウン〉として評価が高まっている。ドナルド・オコナー主演の伝記映画《バスター・キートン物語》(1957),自伝《わがスラプスティックの素晴らしき世界》(1960)がある。1959年,アカデミー特別功労賞受賞。
執筆者:広岡 勉
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アメリカの映画俳優。本名はJoseph Francis Keaton。カンザス州生まれ。ボードビルの芸人であった両親のもとで幼くして舞台に立ち、アクロバットに才能をみせた。1917年映画界に入り、ロスコー・アーバックルの喜劇に助演したのち、20年から自作自演の作品をつくり始める。『恋愛三代記』(1923)、『探偵学入門』『海底王キートン』(1924)、『セブン・チャンス』(1925)、『キートンの機関車』(1926)など、アクロバットを基本にしたスペクタクルに富むスラプスティック喜劇の傑作を送り出した。何が起こっても顔色ひとつ変えない無表情を特徴とし、チャップリン、ロイドと並ぶ三大喜劇王であった。トーキー以後は振るわず、チャップリンの『ライムライト』(1952)などにわずかに顔を出しているにすぎない。彼のサイレント喜劇は、周囲のものとの闘いであり、物に翻弄(ほんろう)されるなかで世界の秩序が完全に別の様相を帯びてみえてくるところに真価があり、没後、世界的に再評価されている。
[出口丈人]
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…アメリカでは22週興行が続いたものの,それはグリフィスの前作《国民の創生》(1915)の44週の半分で,《国民の創生》の大ヒットによる収益をすべて注ぎこんだグリフィスは破産,19年に撮り足し分を加えて再編集した現代アメリカ編および古代バビロニア編の2編を独立作品として配給し,借金の返済に当てようとしたといわれるが,結局,その後ずっと膨大な負債をかかえこんだまま一生を終えた。なお,この映画の副題は〈いろいろな時代の愛の闘争〉で,バスター・キートンの《滑稽恋愛三代記》(1923。リバイバル公開時の邦題は《キートンの恋愛三代記》)はそのパロディとして知られる。…
…チャップリンは,エッサネイ,ミューチュアルと,より好条件の撮影所へ移りながら,自作自演の2巻物を撮り続け,《チャップリンの失恋》(1915)で創造した放浪者のキャラクターを生かし,どたばた喜劇の中に,ドラマ性とペーソスを盛りこむ方向へ歩み始める。当時チャップリンと人気を競ったハロルド・ロイド,バスター・キートンも,その〈個性〉においてはチャップリンにひけをとらない存在だった。ロイドの都会的な明朗さ,シャイな好青年ぶりとクライマックスで一気に噴出する行動力の鮮やかな対照,高層ビルの壁面をよじ登るそのアクロバット的な芸は,〈ロイド眼鏡〉とともに,彼のトレードマークとなった。…
… 薄幸のヒロインを演じたリリアン・ギッシュは,1912年にグリフィス作品《見えざる敵》でデビュー以来,いわばグリフィスの子飼いのスターであったが,この映画で初めて対等の協力者として自分の解釈に基づく演技を許されたという。不幸な境遇のため笑顔を忘れたヒロインが,父親に〈笑え!〉と脅かされて指で唇に微笑のかたちをつくるシーンは,悲哀にみちた名場面として知られるが,〈笑わぬ喜劇王〉としてその無表情ぶりで有名なバスター・キートンは,《キートン西部成金》(1925)でそのパロディを演じた。36年にイギリスでリメークされる際,グリフィスは製作監修者として招かれたが撮影開始前に辞任している。…
…すなわち,メイエルホリドの演劇,ストラビンスキーとロシア・バレエ団(バレエ・リュッス),ピカソやルオーの絵画などである。 第1次大戦後に現れた新しい道化としては,チャップリンやキートンなど無声映画の喜劇俳優をあげなければならない。道化の古来の武器の一つであった身体言語が,新しいメディアによってめざましくよみがえったのである。…
※「キートン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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