イギリスで生まれアメリカで活動する美術史家。専門は西洋近現代美術史。美術作品を当時の社会との関連において検討する独自の研究方法で知られる。ブリストル生まれ。ケンブリッジ大学とロンドン大学コートールド・インスティテュートに学ぶ。1966年から1年間パリに留学し、その後いくつかの大学で教鞭をとったあと、80年ハーバード大学美術学部の美術史の教授に就任。さらに87年以降はカリフォルニア大学バークリー校教授。
後のクラークの業績を考えれば、アカデミックなキャリアもよりも60年代に彼が参画していた社会運動のほうが注目される。当時クラークはシチュアショニスト・アンテルナシオナル(SI=Situationniste International)のイギリス支部員だった。ギイ・ドゥボールGuy Debord(1931―94)主導のもと57年にパリで結成されたこの社会・芸術運動集団は、消費社会を徹底的に批判するとともに、その消費社会にどっぷり浸かった都市の日常生活=「状況」の再構築を目指した。「芸術の社会史」という構想を早くから抱いていたというクラークはこのとき、ドゥボールやSIのいう「都市」や「スペクタクル」の問題に鋭く対峙したのである。
その最初期の著作『民衆のイメージ』Image of the People(1973)で、クラークは、ギュスターブ・クールベがどれだけ都市パリの「市民」と故郷オルナンの「民衆」、それぞれの政治的な立場を同時に相手にし、またその両者との駆け引きから活力を得ながら、大作『オルナンの埋葬』(1849~50)をはじめとする作品を描き上げたかを明らかにした。また84年の著書『近代生活の絵画』The Painting of Modern Lifeでは、エドゥアール・マネをはじめとする画家たちが、当時のパリに氾濫していた、「スペクタクル」としての都市あるいは女性にどのように応じつつ作品を描いたかを論じている。ドゥボールのいう「スペクタクル」とは、そこに具体的に存在する社会的な問題や矛盾を抽象化し、またその状態があたかも自然なものであるかのように見せる偽装工作、またその結果としての、見栄えのいい、あるいはそれゆえにすんなりと理解できるイメージのことである。それに対してたとえばマネは、『オランピア』(1863)や『1867年パリ万博の光景』(1867)で、当時の観客にとってマネがなにをいいたいのかよくわからない、不自然な女性像や都市の姿を描いている。それらを通じて、逆になじみのある「自然な」女性や都市のイメージこそが「スペクタクル」、つまり偽装された自然にすぎないことを気づかせるために描かれたとクラークは論じる。
こうしたクラークの立場を要約するなら、次のようになるだろう。あらゆる美術作品は、芸術家とそれを取り囲む社会との意識的あるいは無意識的な「取引」の産物である。つまりそれはたえず両者の緊張関係のなかで、「創造」ではなく「生産」され、「鑑賞」ではなく「消費」される。クラークは作品を、そして同時に作品や同時代の社会に関わるあらゆる資料を微視的に分析し、また記号論や精神分析などの手法も取り入れてゆくことで、そうした相互的な「取引」の状況を明らかにする。もちろん「生産」や「消費」といった語の選択は、彼のマルクス主義への傾倒からくるものである。だが従来のマルクス主義的な美術史学の多くが、ある美術作品はそれを生んだ社会状況を(一方的に)「反映」している、と見なすに留まるのに対し、クラークはあくまで個々の作品の成り立ちに則しつつ、その相互作用的な「生産」と「消費」の状況を執拗に記述する。彼のこの姿勢は、アメリカの第二次世界大戦後の美術などを対象としたその後の研究でも一貫している。
同時にこのクラークの立場は、芸術は社会から独立した自律的なものであると主張する、モダニズム/フォーマリズム(形式主義)のそれとも真っ向から対立するものでもある。モダニズム/フォーマリズムの陣営を代表するクレメント・グリーンバーグを批判的に読解した彼の一文「クレメント・グリンバーグの芸術理論」Clement Greenberg's Theory of Art(1982)は、グリーンバーグ直系の批評家、美術史家マイケル・フリードとの論争を引き起こした。この論争は近代芸術をめぐるもっとも重要な論争の一つとなっている。
[林 卓行]
『上田高弘訳「クレメント・グリーンバーグの芸術理論」(『批評空間』臨時増刊号『モダニズムのハードコア』所収・1995・太田出版)』▽『Image of the People; Gustave Courbet and the 1848 Revolution (1999, University of California Press, Berkeley)』▽『The Paintings of Modern Life; Paris in the Art of Manet and his followers (1999, Princeton University Press, Princeton)』
アメリカのジャズ・ピアニスト。ペンシルベニア州に生まれ、4歳でピアノを習い始める。ブギ・ウギ・ピアノのピート・ジョンソンPete Johnson(1904―1967)が好きで、6歳のときにラジオのアマチュア参加番組でブギ・ウギ・ピアノを演奏。14歳のころラジオで放送されるデューク・エリントン楽団、カウント・ベイシー楽団の演奏を聴いて本格的にジャズに興味をもち、ジャズ・ピアノの巨匠アート・テータムの演奏をレコードで聴く。高校時代はビブラホーン、ベースも演奏し、少年バンドに所属する。母子家庭に育ったため、1951年に母親が亡くなると、ピアニストの兄とともにロサンゼルスの叔母のもとに身を寄せる。ちょうどこの時期、ジャズ・シーンの中心はイースト・コーストから軍需産業、映画産業で好況を迎えた西海岸へと移りつつあり、ウェスト・コースト・ジャズが活況を呈し始めていた。ロサンゼルス滞在中、テナー・サックス奏者のワーデル・グレイWardell Gray(1921―1955)、ドラム奏者のシェリー・マンShelly Manne(1920―1984)、ギター奏者バーニー・ケッセルBarney Kessel(1923―2004)、アルト・サックス奏者アート・ペッパーといった一流ミュージシャンたちと共演する。
1953年ベース奏者オスカー・ペティフォードOscar Pettiford(1922―1960)のトリオに加わり、バンドの移動に伴ってサンフランシスコに赴(おもむ)く。ここでクラリネット奏者のバディ・デフランコBuddy DeFranco(1923―2014)に出会い、彼のカルテットのメンバーとなりレコーディングに参加する。1954年にはジャズ評論家レナード・フェザーLeonard Feather (1914―1994)率いる「ジャズU. S. A.」の一員としてヨーロッパに公演旅行を行う。1956年ふたたびロサンゼルスに戻り、白人ベース奏者ハワード・ラムゼーHoward Rumsey(1917―2015)のバンド、ライトハウス・オールスターズのピアニストとなるが、これは典型的な白人ジャズマンによるウェスト・コースト・ジャズで、黒人のクラークの感覚にはあわなかった。
そこで1957年ニューヨークに移り、ベース奏者サム・ジョーンズSam Jones(1924―1981)、ドラム奏者アート・テーラーArt Taylor(1929―1995)とピアノ・トリオを組み、ジャズ・クラブ「バードランド」に出演。テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズのアルバム『サウンド・オブ・ソニー』吹き込みに参加する。続いて彼にとって大きな意味をもつジャズ・レーベル、ブルーノートとの契約を果たす。ブルーノートでは彼の代表作である『ソニー・クラーク・トリオ』(1957)、『クール・ストラッティン』(1958)といったアルバムを出している。ほかにもいわゆるブルーノート・ハード・バップの名盤とよばれる多くの作品にサイドマンとして名を連ねており、彼の評価はこのレーベルの存在を抜きにしては考えられない。
1962年、脚気(かっけ)と心臓病のため入院、1963年退院したものの、麻薬の過剰摂取のため心臓発作を起こし死去。ブルーノート以外の代表作に、タイム・レーベルの『ソニー・クラーク・トリオ』(1960)がある。彼のピアノ・スタイルはバド・パウエルの影響を強く受けたもので、比較的地味な印象を与えるためか、アメリカではさほど一般的人気はなかった。だが、ミュージシャンの間での評価は高く、彼の死後セロニアス・モンク、ホレス・シルバー、ケニー・ドーハムKenny Dorham(1924―1972、トランペット)らによってメモリアル・コンサートが催された。また、その哀調を帯びたタッチから、日本のジャズ・ファンの人気は非常に高い。
[後藤雅洋]
アメリカの写真家、映画監督。オクラホマ州タルサ生まれ。乳幼児専門の写真家であった母親の仕事を手伝うことで写真に興味を抱く。1963年、オクラホマ・シティのレイトン美術学校を卒業後にタルサに戻り、幼なじみの不良仲間を撮影し始める。ドキュメンタリー映画のように「セックスとドラッグとロックン・ロールの日々」をストレートなドキュメントとして綴(つづ)った写真は、1971年に写真集『タルサ』Tulsaにまとめられ、同時代の写真表現に決定的といえるような衝撃を与えた。互いに薬を打ち合う男女、警察の密告者への暴行など、たしかに暴力的でセンセーショナルなイメージが多いが、全体としては抑制され、静まりかえった印象を受ける。とりわけ、自然光を巧みに生かしたライティングにより、むしろ古典的といえるような味わいさえ生じている。
クラークは、『タルサ』によって一躍アメリカ写真界の寵児となるが、その後ドラッグと酒に溺(おぼ)れ、1975年から暴力事件とピストル不法所持によって5年間の刑務所暮らしをおくる。1983年に刊行された『ティーンエイジ・ラスト』Teenage Lustは、彼の再起を期した写真集であり、より自伝的な要素が強まっている。巻末の長文インタビューを含めて、子供のころの家族写真、傷害事件の新聞記事、裁判の調書などがアトランダムに挿入されたコラージュ的な構成のなかでとくに目だつのは、10代の男女のポルノグラフィーすれすれの性行為の描写である。しかし、そこには覗(のぞ)き見趣味的ないやらしさはなく、むしろ写真家自身もその状況のなかに巻き込まれていくことで、彼らの生命力の発露が肯定的な眼差しでとらえられている。
『ティーンエイジ・ラスト』で試みられたコラージュ的な構成は次の写真集『1992』Larry Clark;1992(1992)では、より徹底的に突き詰められている。『1992』は断ち落としの写真が300ページ以上も続く写真集で、自殺ごっこをしている少年のさまざまなポーズを執拗(しつよう)に追い続けている。このようなティーンエイジャーの性と死と暴力に対する強いこだわりは、1993年の写真集『完璧な少年時代』The Perfect Childhoodでも、さらに追求されることになる。ここでは、成熟が遅く、性的に正常ではないというコンプレックスに悩んでいた彼自身の少年期の記憶が、殺人や強姦(ごうかん)の罪を犯した少年たちの犯罪記事やテレビの映像から二重映しに浮かび上がってくるような構造をとっている。それはある意味で、写真やコラージュによる自己回復の試みとみなすこともできるだろう。
1995年には、彼の映画監督第一作である『キッズ』が公開された。スケートボーダーたちの日常を、エイズの影を絡ませて淡々と描いた『キッズ』は、1996年(平成8)に日本でも上映され、カルト的な人気を集めた。1998年には映画監督第二作の『アナザー・デイ・イン・パラダイス』が公開されるなど、プライベート・ドキュメンタリーの手法を生かした映画の作り手としても注目を集めるようになってきている。
[飯沢耕太郎]
KIDS キッズ Kids(1995)
アナザー・デイ・イン・パラダイス Another Day in Paradise(1998)
BULLY ブリー Bully(2002)
獣人繁殖 Teenage Caveman(2002)
Ken Park ケン パーク Ken Park(2002)
ワサップ! Wassup Rockers(2005)
『「特集ラリー・クラーク」(『デジャ=ヴュ』No.13・1993・フォト・プラネット)』▽『「特集ラリー・クラーク」(『美術手帖』1996年8月号・美術出版社)』▽『飯沢耕太郎著『フォトグラファーズ』(1996・作品社)』▽『Tulsa (1971, Lustrum Press, New York)』▽『Teenage Lust (1983, Millerton, New York)』▽『Larry Clark;1992 (1992, Thea Westreich, New York/Gisela Capitain, Cologne)』▽『The Perfect Childhood (1993, Scalo Verlag, Zürich)』
イギリスの経済学者、統計学者。オックスフォード大学で化学を学んだが、のちに経済学や統計学の研究に転じた。ハーバード大学助手、ケンブリッジ大学講師などを経て、1937年オーストラリアに渡り、メルボルン、シドニーなどの大学の客員講師を歴任し、またオーストラリア労働産業省の次官などの官職についたこともある。その後53年にイギリスに帰り、オックスフォード大学農業経済学研究所所長になった。彼は、主著『経済進歩の諸条件』The Conditions of Economic Progress(1940)において、各国の統計を利用して国際単位という統計学的操作によって国民所得の国際比較を行ったが、そのなかで産業を第一次、第二次、第三次の三つに分け、経済発展に伴って産業構造が第一次から第二次へ、さらに第二次から第三次産業へと比重を移していくことを実証的に明らかにし、ペティの法則と名づけた。
[志田 明]
『大川一司他訳篇『経済進歩の諸条件』上下(1968・勁草書房)』▽『杉崎真一訳、馬場啓之助監修『人口増加と土地利用』(1973・農政調査委員会)』
札幌(さっぽろ)農学校(北海道大学の前身)の創設者。アメリカのマサチューセッツ州に生まれる。アマースト大学およびドイツのゲッティンゲン大学に学び、鉱物学、化学を専攻。帰国後母校のアマースト大学の化学教授に就任し、南北戦争では義勇軍に入隊し大佐に昇進した。1867~1879年アマーストのマサチューセッツ農科大学学長となる。北海道開拓事業をつかさどる政府機関である開拓使の懇望により同大学長のまま、1876年(明治9)6月来日し、8月開校の札幌農学校初代教頭に就任。事実上の創設者となった。
彼は細かな学則を否定して「予がこの学校に臨む規則は、Be gentleman!只(ただ)この一言に尽くる」といい、故意に規律を守らない者に対しては、「只退学あるのみ」といった。また厳格なピューリタンとしてキリスト教精神に基づく人間教育を行い、内村鑑三(うちむらかんぞう)はじめ多くの人材を出した。在職1年、1877年4月帰国にあたり、“Boys, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”(青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け)の名言を残したことは有名である。1886年3月9日アマーストで61歳の生涯を閉じた。
[梅溪 昇 2018年8月21日]
『原田一典著『お雇い外国人13 開拓』(1975・鹿島出版会)』
アメリカの経済学者。父は著名な経済学者J・B・クラーク。マサチューセッツ州ノーサンプトンに生まれる。1905年アマースト大学を卒業し、コロンビア大学で修士号と博士号を取得した。コロラド、アマースト、シカゴの各大学を経て、26年コロンビア大学の経済学の教授となる。アメリカ経済学会第37代会長。
クラークは、父の経済学の衣鉢を継ぎ、新古典派の完全競争理論を手掛りに、それを現実の経済に近づけるうえで制度学派的接近方法を採用し、重要な貢献も少なくない。とりわけ、完全競争にかわる有効競争workable competitionの概念を提出し産業組織論の分野を開拓したこと、加速度原理と景気循環に関する先駆的研究、社会的費用と私的費用の区別、会計上の費用と経済学者の費用概念の区別などの貢献はよく知られている。主著に『地方の運賃差別に関する合理的基準』Standards of Reasonableness in Local Freight Discriminations(1910)、『間接費の経済学の研究』Studies in the Economics of Overhead Costs(1923)、『景気循環の諸要因』Strategic Factors in Business Cycles(1934)、『動態的過程としての競争』Competition as a Dynamic Process(1961)などがある。
[佐藤隆三]
イギリスのSF作家。キングズ・カレッジで物理学と数学を専攻。1946年、短編『太陽系最後の日』を発表してデビューした。初期の作風の特徴は、豊富な科学技術の知識を駆使して現代科学の発達を可能な限り正確に予測した近未来を描くことにあり、『火星の砂』(1952)、『海底牧場』(1957)などがそれにあたるが、20世紀末、突如出現した外宇宙からの宇宙船団によって地球が支配され、人類の文明が新たな進化に向かう過程を描いた『地球幼年期の終わり』(1953)は単にクラークの代表作にとどまらず、1950年代のSFを代表する名編。
1979年『楽園の泉』の発表を最後に隠退を声明したが、おもな作品には、ほかに『銀河帝国の崩壊』(1953)、同名の映画化とタイアップして書かれた『2001年宇宙の旅』(1968)、自伝的エッセイ集『スリランカから世界を眺めて』(1978)など多数ある。
[厚木 淳]
アメリカの望遠鏡製作者。1824~1844年は肖像画家として働いていたが、1846年光学会社を設立、もっぱら望遠鏡の製作に従事し、大型かつ精密な望遠鏡の提供により、近代天文学の発展に貢献した。彼の製作になるおもな望遠鏡は、プリンストン大学(口径23インチ)、海軍天文台およびバージニア大学(26インチ)、プルコボ天文台(30インチ)などに設置された。
長子グラハムAlvan Graham Clark(1832―1897)も父の技(わざ)を継ぎ、1862年製作の18インチ望遠鏡は、その試観測の機会にシリウスの伴星(白色矮星(わいせい))を発見、検出した。ついで1888年にリック天文台に36インチ鏡を、さらに1889年にヤーキス天文台に40インチ鏡を設置した。後者は現在でも世界最大の屈折鏡である。
[島村福太郎]
アメリカの経済学者。ピューリタン。ロード・アイランド州プロビデンスに生まれる。アマースト大学卒業後、3年にわたりドイツに留学し、K・クニースのもとでドイツ前期歴史学派の影響を受ける。帰国後、カールトン大学で教鞭(きょうべん)をとる。制度学派の創始者T・ベブレンはそのときの学生。その後、スミス、アマースト大学を経て、1895年コロンビア大学の教授となる。アメリカ経済学会第3代会長。
1870年代の、W・S・ジェボンズ、C・メンガー、L・ワルラスにはやや遅れをとったが、クラークは独自に、86年に限界効用理論を、99年にはさらに限界生産力的分配論を展開し、いわばアメリカにおいて限界革命の一翼を担った。また、クラークは、比較静学的分析の先駆者でもあった。しかし、歴史学派の洗礼を受けたクラークには社会倫理的視点も鮮明であり、効率と同時に公正を重視する点が特徴となっている。主著には『富の哲学』The Philosophy of Wealth(1886)、『富の分配――賃金・利子および利潤の理論』The Distribution of Wealth : A Theory of Wages, Interest and Profits(1899)、『トラストの統制』The Control of Trusts(1901)などがある。
[佐藤隆三]
アメリカの地球化学者。ボストンに生まれる。ハーバード大学で分析化学を学び、シンシナティ大学教授となる。1883年合衆国地質調査所に移ってから岩石・鉱物の化学組成を研究し、多くの分析を行うとともに資料を集め、1908年に『Data of Geochemistry』(地球化学データ)を著した。また地殻の平均化学組成を試算し、元素の地殻存在度を推定した。クラークの算出した数値はそれぞれの元素のクラーク数とよばれ広く用いられた(現在の存在度はクラーク以後に計算されたもの)。万国原子量協会International Committee on Atomic Weights(ICAW)の議長を長年にわたって務めた。
[橋本光男]
イギリスの神学者、哲学者、イギリス国教会の司祭。ケンブリッジ大学卒業。独学でニュートン物理学を学び、その信奉者となった。宮廷付きの司祭を20年務め没す。ニュートン物理学の解釈をめぐるライプニッツとの往復書簡(1715~1716)は有名。唯物論や汎神(はんしん)論に対し、正統的キリスト教を擁護する『神の存在と属性』(1704)では、理性の強調と数学的方法による神の存在と属性の論証を試みた。また道徳の客観性を強調し、それを数学規則とアナロジカルな事物・行為そのものの普遍的「適合性」に求めた。ライプニッツとの論争では、ニュートンの絶対空間・時間を神の感覚器官とする説を擁護し、引力の概念をスコラ的にではなく、実証的に解釈すべきことを主張した。
[小池英光 2015年7月21日]
ロシアの富裕な農民、農村ブルジョアジー。1861年の農奴解放後に成立し、20世紀初めには農家の5分の1を占めた。ロシア政府は、1905年革命後、ストルイピン改革によってクラークを育成強化し、農村における政権の支柱としようとした。17年の十月革命後、国内戦期には反革命の社会的基礎となったが、食糧徴発制によって打撃を受けた。21年以後のネップ(新経済政策)期において、土地国有という条件やソビエト政府の政策によってその力は制限されていたが、27年には農家の4~5%、すなわち100万戸以上になっていた。ジノビエフ、トロツキーらは、この力を過大に評価してネップの速やかな変更を求め、一国社会主義論争の論点の一つとした。スターリンは反対派を敗北させたのち、穀物危機に直面して政策を転換、29年末からクラークの激しい抵抗を排して農業経営の集団化を強行、クラークを階級として清算し、農業、家畜などの生産手段をコルホーズの財産とした。
[木村英亮]
イギリスの美術史学者、美術評論家。オックスフォード大学に学び、のちフィレンツェに渡ってベレンソンに師事。イタリア・ルネサンス美術の専門家と認められるようになって、ロンドン・ナショナル・ギャラリー館長(1934~45)となる。さらにオックスフォード大学教授のほか、イギリス美術協会会長、大英博物館理事、独立テレビ放送協会会長などの要職を務め、広く評論や啓蒙(けいもう)活動も行い、1969年男爵に叙せられた。主著に『ゴシック・リバイバル』(1925)、『レオナルド・ダ・ビンチ』(1939)、『風景画論』(1949)、『ザ・ヌード』(1956)などがある。
[鹿島 享]
『高階秀爾訳『絵画の見方』(1977・白水社)』▽『丸山修吉・大河原賢治訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1981・法政大学出版局)』
アメリカの実業家。ユタ大学博士課程を終了後、スタンフォード大学準教授を経て、1982年シリコングラフィックス社(SGI)を設立。映画『ジュラシック・パーク』のCGなどを手がけて成功を収め、年間収益22億ドルの企業に育て上げる。1994年同社を辞職し、23歳のマーク・アンドリーセンMarc Andreessen(1971― )を副社長に迎え新ソフト会社モザイク・コミュニケーションズを設立、会長兼最高経営責任者(CEO)。ホームページ用の閲覧ソフト「ネットスケープ・ナビゲーター」を開発。社名をネットスケープ・コミュニケーションズに改称。アメリカのベンチャー企業の旗手的存在である。
[編集部]
オランダの建築家。14歳からE・カイペルスのもとで設計を修業し、1910年代に入って独立。ファン・D・メイ、L・クラメルと協同して、海運ビルをアムステルダムに完成(1916)させて以来、有機的で視覚的変化に富んだいわゆる「アムステルダム派」特有の建築を次々と発表して注目され、同派の中心的存在となった。なかでも彼の建築家としての真価は集合住宅の設計において発揮され、アイヘン・ハール集合住宅地や、デ・ダヘラート集合地に実現した建物などに、その天才的な構想力と情感あふれる意匠力が今日に至るまで伝えられている。
[長谷川堯]
ロシア語のクラーク(拳)から出た言葉で,ロシア農村の富裕な層をさす。もともとは主として高利貸,買占人,投機業者などを意味したが,1890年代以降は,農村の資本主義的関係の発展を背景として,他人を搾取する富農を意味するようになった。しかしロシアの大半の富農は,ヨーロッパ的な意味での農業資本家とは異なって,みずから農作業に従事する農民という性格を維持していた。20世紀初頭に最高数(全農家の1/5)に達したとされる。帝政は1906年のストルイピン改革によって,富農の成長の妨げとなる共同体を破壊しようとしたが,ロシア革命の過程で共同体は強力に復活し,土地保有規模は著しく均等化された。さらに19年に導入された食糧徴発制度も富農に対する強力な打撃となった。20年代には全農家の5~7%がクラークであるといわれた。20年代末に農村から穀物を買い付けることに失敗したソビエト政権は,多量の穀物を保有しているとみられたクラーク層に対する攻撃を開始し,この動きが29年秋からの全面的集団化運動に接続するとともに,ソビエト政権は〈クラークの階級としての絶滅〉の政策をうちだした。絶滅されたクラークの資産は,コルホーズの不可分フォンドに収容された。この過程で行使された暴力は,クラークばかりでなく中農や貧農にまで及んだ。クラークの運命はさまざまであり,ソビエト権力に最も敵対的なクラークは収容所に送られ,その他のものはカザフやシベリアなどの遠隔地へ,残りのものは同じ行政的地区内部で村の外へ追放された(このグループもその後再び遠隔地へ追放された)。遠隔地に送られた旧クラークの多くは,特殊なコルホーズ(定款をもたず,理事会は外から任命されたものが構成した)に組織された。このコルホーズは1938年になってやっとふつうのコルホーズと同じ資格をあたえられた。絶滅されたクラークの総数に関する公式の資料はなく,一説では1929年から33年のあいだで数百万農家,1000万人をこえるといわれる。
→農業集団化
執筆者:奥田 央
イギリスの美術史家。ロンドンで富裕な有閑階級に生まれ,永年,イギリス美術史界の中枢の地位にあった。まずウィンチェスターおよびオックスフォード大学に学んだ後,フィレンツェの美術史家ベレンソンのもとで修業。ついでオックスフォードのアシュモリアン美術館管理官を経て,1934-45年ロンドン・ナショナル・ギャラリー館長の職にあり,またほぼ同時期に王室絵画監督官も務めた。第2次世界大戦中は情報省で働き,戦後は,オックスフォード大学のスレードSlade美術史講座教授として教鞭を執った(1946-50)。内外の美術関係機関の要職を務め,レジヨン・ドヌールをはじめ数々の栄誉を受けている。主要著書は《ウィンザー城王家コレクション蔵レオナルド・ダ・ビンチ素描目録》(1935),《風景画論》(1949,邦訳1967),《ピエロ・デラ・フランチェスカ》(1951),《絵画の見方》(1960,72,邦訳1977)など。彼は固定的な方法論にとらわれることのない美術史家で,その柔軟な思考力と鋭い美的感受性のうかがわれる平明な語り口を好む読者は多い。テレビの美術番組でも活躍し,親しまれた。
執筆者:鈴木 杜幾子
アメリカの経済学者。ロード・アイランド州プロビデンスに生まれ,1872年にアマースト大学を卒業後ドイツに留学し,おもにハイデルベルク大学とチューリヒ大学に学び,主としてK.クニースの指導を受けた。75年に帰国し,カールトン,スミス,アマーストの諸大学を経てコロンビア大学(1895-1923)で教えた。アメリカ限界主義の父と呼ばれ,アメリカ経済学会の創設にも貢献し,その第3代会長を務めた。はじめ《富の哲学》(1886)において歴史学派の影響下に古典派経済学を批判したが,W.S.ジェボンズ,C.メンガー,L.ワルラスとは独立に,社会的観点を強調した限界効用価値論に到達した(〈限界革命〉の項参照)。しかしのちには,限界主義分析を分配論に拡充し,主著《富の分配》(1899)において,社会的観点に力点を置いた限界生産力的分配論を展開し,限界主義理論の体系化に貢献した。主著での静学理論に加えて,《経済理論綱要》(1907)では独自の動学部門を加えた。ほかに独占や平和問題の研究でも貢献をした。
執筆者:田中 敏弘
イギリスの経済学者,統計学者。南イングランド,コーンウォールのプリマスで商人の子として生まれた。ウィンチェスター校を経て,オックスフォード大学のブレーズノーズ・カレッジに学ぶ。1931年より37年までケンブリッジ大学の統計学講師。37年オーストラリアに渡り,メルボルン,シドニー,ウェスタン・オーストラリアの各大学の訪問教授,次いでオーストラリア連邦政府労働産業省次官,クイーンズランド州財政顧問などを歴任。第2次大戦後オックスフォード大学に戻り,53年より69年まで同大学農業経済学研究所所長を務めた。代表的著作《経済進歩の諸条件》(1940)においてクラークは,産業を第1次産業,第2次産業,第3次産業に区分し,経済発展に伴い一国の産業構造の比重が第1次産業より第2次産業へ,ついで第3次産業へ移るという経験法則を発見,〈ペティの法則〉(ペティ=クラークの法則ともいう)と名づけた。ほかに《人口増加と土地利用》(1967)など著書多数。
執筆者:倉林 義正
アメリカの化学者,教育家。アマースト大学,ゲッティンゲン大学に学び,アマースト大学で教え,マサチューセッツ農学校の校長になった。1876年日本政府の招きで来日し,札幌農学校教頭となり,2人の有能なアメリカ人教授とともに,北海道開拓に必要な人材養成に尽くした。内村鑑三,新渡戸稲造ら多くの人々が彼の残したキリスト教の遺産や科学的精神を自覚的にうけとり,日本の宗教,教育,北海道開拓の指導者となった。札幌滞在8ヵ月の後,77年の離日に際して〈青年よ,大志を抱けBoys,be ambitious〉と言い残した,という。帰国後,学生を船に乗せ,世界を巡遊して教育する計画を立てたが実現せず,鉱山経営にも失敗して,晩年は不遇であった。
→札幌バンド
執筆者:土肥 昭夫
英国国教会の聖職者。ケンブリッジ大学に学び,そこでニュートンの影響を受けた。ノリッジの主教J.ムーアに才能を認められ,彼のチャプレンchaplainとなる(1698)。1704年と05年に二つのボイル・レクチャー(物理学者であり清教徒であったR. ボイルの設立した講演)をおこない,J.ロックの経験論に反論を加えた。06年ロンドンのセント・ベネット教会,09年ピカデリーのセント・ジェームズ教会牧師となる。彼はニュートンの立場を受けつぎ,ライプニッツと時間と空間の問題をめぐって文通するなど,すぐれた知識人であり聖職者であったが,理神論を批判しつつもそれに共鳴するところをもち,その三位一体論におけるユニテリアン的傾向を問題にされたこともある。
執筆者:大木 英夫
イギリスのSF作家。1956年以後はスリランカに移住,海洋と宇宙を舞台に未来のテクノロジー社会を扱ったシリアスな作品を書き続け,代表作《幼年期の終り》(1953)は人類的視点に立った新しい形而上学として話題を呼んだ。《海底牧場》(1957),《宇宙のランデブー》(1973)などのほか,映画の小説版として書かれた《2001年宇宙の旅》(1968)や科学エッセー《未来のプロフィール》(1962)の著者としても知られている。
執筆者:山野 浩一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭。アメリカ,マサチューセッツ州生まれ。アムハースト・カレッジ卒業後,ドイツで博士号を取得。アムハースト・カレッジの化学教授在職中,南北戦争で武勲を輝かす。1867年モリル法によって創設されたマサチューセッツ農科大学の初代学長に就任。その手腕により,同大学は全国的に注目される。1876年(明治9)学長在職中に日本政府の招きで札幌農学校の創設に尽力。わずか9ヵ月余の滞在にもかかわらず,アメリカの農科大学のモデルを定着させ,農学校の基礎を確立した。付属農園長として実験農場を経営管理し,北海道の経済発展にも寄与。「Be gentleman!(紳士たれ)」を教育方針に据え,キリスト教に基づく徳育を開拓使長官黒田清隆と激論の末黙認させた。酒・煙草,食欲・情欲の抑制,実地に沿った指導と人格教育,兵式教練や運動会の実施など,自ら行動で示した教導により,生徒たちに多大な感化を与えた。帰国時に残した「Boys, be ambitious!(少年よ,大志を抱け)」は有名。直接指導を受けていない新渡戸稲造,内村鑑三など有為な人材を輩出したことにも影響力は及ぶ。
著者: 杉谷祐美子
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(吉家定夫)
(芝哲夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
アメリカの地球化学者.ハーバード大学のローレンス科学校で化学を学ぶ.1874年からシンシナチ大学の化学と物理学の教授になる.1883年にはアメリカ地質調査所(ワシントンD.C.)の主任化学者に任じられ,1924年の引退まで勤めた.かれの指導のもとに何千という岩石,水,大気が分析され,地表近くの化学過程が解明された.データは“地球化学データ”The Data of Geochemistry(初版1908年,第5版1924年)にまとめられた.とくに地表から10マイル(約16 km)の平均化学組成を試算し,元素の地殻存在度を推定したことは有名(クラーク数のはじまり)である.これらの業績から,かれは,地球化学の創始者の一人といわれる.アメリカ化学会の設立にも貢献した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
1826.7.31~86.3.9
アメリカの植物学者・教育者。アマースト大学卒。母校で教授。マサチューセッツ農科大学学長。1876年(明治9)御雇外国人として札幌農学校に招かれ,1年間教頭を務める。帰国の際に,見送りの人々に「Boys, be ambitious」(青年よ,大志を抱け)と言い残したことで知られる。キリスト教にもとづく全人教育と,理論と実地を重視する科学的農業教育を主眼とした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…これらの総体を産業という。
【分類】
産業を大きく第1次産業,第2次産業,第3次産業と分類したのは,フィッシャーAllan G.B.Fisherであったが,C.G.クラークはこれに広範な統計的裏づけを与えた。クラークの定義は次のとおりである。…
…したがって産業構造のあらわし方は,いろいろな産業分類や,産業指標によるのであり,一義的なものはない。 1940年イギリスの経済学者C.G.クラークは産業を第1次産業,第2次産業,第3次産業の三つに分類し,一国の経済の発展につれて労働人口,所得の比重が第1次産業から第2次産業へ,さらに第3次産業へ移動する(ペティの法則)という歴史的な傾向を実証した。日本についても図のように同じことがいえる。…
…C.G.クラークは,産業を三つの種類に区別して,それぞれ第1次,第2次,第3次産業と名づけた。第1次産業は農業,林業,水産業などから成り,経済発展に伴いその比率は低下し,製造工業を中心とする第2次産業の比率が高まるという現象がみられる。…
…歴史家F.J.ターナーは,西部開拓がアメリカの個人主義,経済的平等,立身出世の自由,民主主義を促進したと指摘している。このようなアメリカ開拓の精神と技術は,日本の北海道開拓にあたり,H.ケプロンやW.S.クラークによって伝えられたのである。【岡田 泰男】
[日本]
日本における耕地の歴史については〈田〉〈畑〉の項目を参照されたい。…
…同校は75年札幌に移転して札幌学校と改称,さらに翌76年札幌農学校と改称した。アメリカ人教師が指導したが,とくに初代教頭として就任したマサチューセッツ農科大学長W.S.クラークの影響は大きく,技術者のみならず内村鑑三,新渡戸稲造らの思想家を生んだ。その後,1907年に東北帝国大学農科大学となり,18年北海道帝国大学の創設にあたり,その中核として北海道帝国大学農科大学となった。…
…それらの中には炭素のかわりにケイ(珪)素を主成分とし,砂を食べて砂に戻るような異色の生物も含まれており,それが知的生物であるのかどうかついにわからないまま物語は終わる。はたしてどういう生物を知的と認めるかという問題はその後のSFの重要なテーマとなっており,A.C.クラークは,《幼年期の終り》(1953)において,現代人が宇宙文明の中でまだ知的存在に達していないという,思い切った推論を展開した。またオールディスB.W.Aldissは《暗い光年》(1964)で,異なった知性への無理解が生み出す悲劇を扱っており,宇宙人の問題は知性をどうとらえるかという形而上学に発展している。…
※「クラーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新