アメリカの映画監督。1月23日ケンタッキー州クレストウッドに生まれる。青年期にさまざまな職業を遍歴、俳優として舞台に立ちながら未来のシェークスピアを夢みたが、1908年映画界へ入る。俳優、脚本家から監督へと転じ、短編『ドリーの冒険』(1908)を発表、以後矢つぎばやに作品を発表して、質・量ともにアメリカ映画を代表する大監督となった。「映画芸術の父」とたたえられるグリフィスの功績は、多様な映画技法を開拓することによって劇映画の物語構成を発展させたこと、またスターや監督らハリウッドを背負ってたつ多くの人材を育てたことにある。なかでも『イントレランス』(1916)は世界中の映画人、観客に大きな影響を与えた。作品傾向は、1908~1914年の短編・中編時代および1915年から晩年までの長編時代に大別できる。二つ以上のアクションを並行して描くクロス・カッティングまたはパラレル・モンタージュの手法は、グリフィス得意の「最後の瞬間の救助(ラスト・ミニッツ・レスキュー)」として観客に親しまれたが、晩年はビクトリア朝メロドラマの感傷癖があだとなり、トーキー作品を3本発表したものの、映画界から脱落した。1948年7月23日ハリウッドに没。その他のおもな作品に『淋(さび)しい別荘』『小麦の買占め』(ともに1909)、『イノック・アーデン』(1911)、『ピッグ横丁の銃士達(たち)』(1912)、『エルダーブッシュ峡谷の戦い』(1913)、『アッシリアの遠征』(1914)、『国民の創生』(1915)、『世界の心』(1918)、『散り行く花』(1919)、『東への道』(1920)、『嵐(あらし)の孤児』(1921)など。
[岩本憲児]
淋しい別荘 The Lonely Villa(1909)
小麦の買占め A Corner in Wheat(1909)
イノック・アーデン Enoch Arden(1911)
女の叫び The Lonedale Operator(1911)
ピッグ横丁の銃士達 The Musketeers of Pig Alley(1912)
エルダーブッシュ峡谷の戦い The Battle at Elderbush Gulch(1913)
アッシリアの遠征(ベッスリアの女王) Judith of Bethulia(1914)
ホーム・スイート・ホーム Home, Sweet Home(1914)
恐ろしき一夜 The Avenging Conscience : or 'Thou Shalt Not Kill'(1914)
国民の創生 The Birth of a Nation(1915)
イントレランス Intolerance(1916)
偉大なる愛 The Great Love(1918)
人類の春 The Greatest Thing in Life(1918)
世界の心 Hearts of the World(1918)
スージーの真心 True Heart Susie(1919)
悪魔絶滅の日 Scarlet Days(1919)
幸福の谷 A Romance of Happy Valley(1919)
散り行く花 Broken Blossoms(1919)
大疑問 The Great Question(1919)
勇士の血 The Girl Who Stayed at Home(1919)
愛の花 The Love Flower(1920)
渇仰の舞姫 The Idol Dancer(1920)
東への道 Way Down East(1920)
夢の街 Dream Street(1921)
嵐の孤児 Orphans of the Storm(1921)
恐怖の一夜 One Exciting Night(1922)
ホワイトローズ The White Rose(1923)
アメリカ America(1924)
素晴しい哉人生 Isn't Life Wonderful(1924)
曲馬団のサリー Sally of the Sawdust(1925)
竜巻 That Royle Girl(1925)
サタンの嘆き The Sorrows of Satan(1926)
愛の太鼓 Drums of Love(1928)
男女の戦 The Battle of the Sexes(1928)
心の歌 Lady of the Pavements(1929)
世界の英雄 Abraham Lincoln(1930)
『リリアン・ギッシュ著、鈴木圭介訳『リリアン・ギッシュ自伝――映画とグリフィスと私』(1990・筑摩書房)』▽『向後友恵著『グリフィス――ハリウッドに巨大な城塞を築いた映像魔術師』(1992・メディアファクトリー)』
〈アメリカ映画の父〉,あるいは〈映画芸術の父〉と呼ばれるアメリカの映画監督。1970年代に出たスティーブン・スピルバーグ,マーティン・スコセッシ,ブライアン・デ・パルマらの若手映画監督を《エスクアイヤ》誌が〈ハリウッド第9世代〉と呼んだが,その際の〈第1世代〉がグリフィスである。ケンタッキー州の貧しい旧家に生まれ,どさ回りの劇団の俳優を経て,1907年に映画界に入り,俳優と脚本家を兼ねたのち《ドリーの冒険》(1908)で監督となる。400本余りの短編をつくったのち,《カビリア》(1913)など,イタリアの長編史劇の影響を受けてアメリカ最初の4巻もの《ベッスリアの女王》(1914)などに続いて,12巻3時間の大作《国民の創生》(1915)を完成。〈映画の文法〉はグリフィスによって創造されたといわれるとおり,グリフィスは,カメラマンのビリー・ビッツアー(1872-1944)の協力を得て,クローズアップ,ロングショット,フェイド,アイリス,ソフトフォーカス,移動,その他カメラによる表現技法によって,〈動く画面〉を通じて物語る真に〈映画的〉な技術を発見した。とりわけ,短いカットをモンタージュする〈ラピッド・カッティング〉と,離れた場所で同時に起こっているできごとを並行的につないで見せる〈パラレル・モンタージュ〉(いわゆる〈カット・バック〉)の発明は,劇映画を発展させた重要な功績とされる。グリフィスはストーリーを〈映画のことば〉で物語り,〈ストーリー・ピクチャー〉を〈モーション・ピクチャー〉へと発展させた。そして,《国民の創生》とこれに続く《イントレランス》(1916)は,フランスのフォトジェニー論やソ連のモンタージュ理論に影響をあたえ,映画芸術の基礎を築いた。ルネ・クレールは,〈映画芸術は,グリフィス以後なんらの本質的なものを付け加えていない〉とまでいったほどである。
しかし,莫大な製作費を注ぎこんだ《イントレランス》が興行的に失敗した後のグリフィスは,リリアン・ギッシュをヒロインにした《散り行く花》(1919)や《東への道》(1920)が評価されたにすぎず,初のトーキー《世界の英雄》(1930)に続く《苦闘》(1931)を最後に映画界を退かざるを得なかった。《散り行く花》をトーキーで再映画化する企画も実現しなかった。グリフィスのつくる〈ビクトリア朝時代的な〉感傷性にみちたメロドラマが,ジャズ・エージの観客の心をとらえられなくなったためであったが,近年の批評的な関心は,この〈ビクトリアニズム〉に注がれており,《世界の心》(1918),《嵐の孤児》(1921)のようなメロドラマ,《スージーの真心》《幸福の谷》(ともに1919)といったのどかな田園を舞台にしたロマンスものが再評価され,それらの作品でリリアン・ギッシュが演じた〈子どものような女(チャイルド・ウーマン)〉がハリウッド映画の女性像の歴史に占める位置の重要性がみなおされてきている。すなわち,〈グリフィスの仕事は,19世紀に根をもつメロドラマと,その表現形式を吸収・発展させてきたアメリカ映画の全史とをつなぐ力強い環であったとみなすことができよう〉と評されている。35年,アカデミー特別功労賞が贈られたが,人目をさけて住んでいたハリウッドのホテルで孤独と失意のうちに生涯を終えた。75年にはアメリカ政府により10セントのグリフィス記念切手が発行された。
執筆者:柏倉 昌美
アメリカの日本学者。ラトガーズ大学在学中,アメリカ人宣教師G.H.F.フルベッキの助言で留学中の横井小楠の甥2人と知り合った。1870年そのフルベッキの仲介によって来日,越前福井藩の藩校で理学などを教え,廃藩置県の大変動を見,72年,東京大学の前身である南校の教師となり,74年帰国した。そして牧師をするかたわら,《皇国》(1876)や《ミカド》(1915)のほか,ペリー,ハリス,ブラウン,ヘボン,フルベッキなどに関する本を続々出版,日本学の先駆者となった。彼はハーンと違って,日本をアメリカ型の近代国家にすることに情熱を燃やし続けた。
執筆者:亀井 俊介
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(吉家定夫)
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…だがヒルドレスは西欧人の手による資料,旅行記などを通してのみ日本に接触した。日本体験に基づいた最初の本格的な研究書は,お雇い教師として来日したW.E.グリフィスの《皇国》(1876)である。この書には,封建制度の廃止によってつくられた〈新日本〉への賞賛とともに,その〈新日本〉の民主主義化,キリスト教化を強く望む,牧師志願の若者らしい啓蒙的な態度が見られる。…
…ジャン・リュック・ゴダールは〈すべての映画はアメリカ映画である〉といっている。クローズアップやモンタージュなどさまざまな映画的手法を開発し,それらを駆使して巧みに長編の物語を語ることをはじめ,それ以後のすべての映画の基礎を築いたのは,〈アメリカ映画の父〉D.W.グリフィスであった。また,スターシステムや撮影所のシステムをはじめ,映画の製作,配給,興行のしくみなど,映画のあらゆる側面を通じて,〈アメリカ映画〉から生まれ発展し,各国の映画にもたらされたものは数多い。…
…(2)同じ英語圏であるということもあって,イギリスで作られるアメリカ映画が圧倒的に多く,その歴史がほとんどそのままイギリス映画の歴史にもなっていること。ハリウッドの映画会社フェイマス・プレイヤーズ,ラスキーLasky(パラマウントの前身)が1916年にロンドン郊外のアイリントンに撮影所を作って〈アメリカ映画〉を製作し,18年にはハリウッドの巨匠D.W.グリフィスが時の宰相ロイド・ジョージの要請で,イギリスの国策映画《世界の心》を撮っているが,以来,30年代末には,MGM=ブリティッシュがK.ビドア監督《城砦》,S.ウッド監督《チップス先生さようなら》(ともに1939)などイギリス的題材による〈アメリカ映画〉,あるいはむしろハリウッド的超大作の〈イギリス映画〉の製作の先鞭をつけ,また50年代にはJ.ヒューストン監督《アフリカの女王》(1951),《赤い風車》(1952)などイギリスの製作会社による〈アメリカ映画〉も作られる。《アフリカの女王》の製作にかかわったS.P.イーグルは,ハリウッドの〈赤狩り〉から逃れてイギリスにきていたハリウッドのプロデューサー,サム・スピーゲルの変名で,この後彼はD.リーン監督《旅情》(1955),《戦場にかける橋》(1957),《アラビアのロレンス》(1962)などのアメリカ資本の〈イギリス映画〉を製作する。…
…いずれも2時間をこえる超大作で,このような長編映画の成功が短編主体だったアメリカ映画に長編映画製作の大きな刺激と糸口を与えたのである。なかでもD.W.グリフィスは《カビリア》の〈壮麗な〉スペクタクルと映画的テクニックに触発されて,《イントレランス》(1916)の〈バビロニア編〉を撮ったといわれる。
[ダンヌンツィオ映画]
当時イタリアでは〈官能的な濃艶な恋愛文学〉の作家で詩人であるG.ダンヌンツィオがもっとも大きな人気を誇り,映画の分野でも〈ダンヌンツィオ的な芸術環境〉(〈ダンヌンツィオ主義〉などと呼ばれた)が隆盛をきわめていた。…
…フィルムの長さにして5200m,サイレントスピードによる上映で4時間半以上)。〈アメリカ映画の父〉D.W.グリフィスがここで用いた数多くの〈映画的〉技法は各国の映画に影響を与え,とくに革命後のソ連の若い映画作家たち(エイゼンシテイン,プドフキン,クレショフ)にとっては〈モンタージュ理論〉の形成を促すきっかけとなった。夫を無実の罪で捕らえられ,生まれたばかりの子どもも奪われて〈施設〉に預けられてしまう女性(メー・マーシュ)を描く現代アメリカ編〈母と法律〉に,古代バビロニア編〈バビロンの崩壊〉,古代エルサレム編〈キリストの受難〉,中世フランス編〈聖バルテルミーの大虐殺〉という三つの異なる時代の歴史的事件のエピソードをつけ加えて,人間の不寛容の事実を描く。…
…アメリカの映画女優。〈サイレント・スクリーンに現れたもっとも偉大なヒロイン〉と評され,D.W.グリフィス監督作品の主演女優として数々の名作を残した。オハイオ州生れ。…
…カメラを接近させるという方法そのものは,望遠レンズやズームレンズが発案される前に生み出された。その創始者は,映画史家の間にも諸説があるが,〈映画芸術の父〉D.W.グリフィスとする説が古くからあり,アンドレ・マルローの《映画心理学概論》(1946)によると,グリフィスがリリアン・ギッシュの顔の美しさに心うたれたときこの技法が生まれたという伝説もある。しかしクローズアップそのものは,世界最初の映画撮影所といわれるエジソンの〈ブラック・マリア〉の設計者で,35ミリフィルムの発明者でもあるW.K.L.ディクソンの《フレッド・オットのくしゃみ》(1899),写真家出身のG.A.スミスの《祖母の読書用拡大鏡》(1900),スコットランドの化学者でイギリス映画の先駆者J.ウィリアムソンの《大食漢》(1901)などの中でも,すでに,すなわちグリフィス以前に使われていたことが明らかにされている。…
…〈映画芸術の父〉D.W.グリフィスが1915年に製作・監督した12巻,2時間45分の大作(1930年に音楽と効果,音入りの短縮版がつくられた)。アメリカ映画史上の偉大な古典であるとともに,そのあからさまな人種偏見(黒人差別)ゆえにアメリカ映画史上最大の恥ともみなされる作品。…
…その原点が映画草創期の1900年代からつくられはじめたイタリアの古代史劇で,当時ローマ史を背景とした文学作品があいついで映画化され,その多くは動きの少ない絵巻物的作品に終わったが,5000人のエキストラとほんもののライオン30頭を登場させてローマの炎上やキリスト教徒の殺戮(さつりく)を描いた6000フィート,9巻,2時間の《クオ・バディス》(1912)と,ローマとカルタゴの第2次ポエニ戦争を題材とした12巻(オリジナル版は4時間を超えたといわれる)の《カビリア》(1914)はスペクタクル映画の草分けとなった。とくに後者はイタリアのサイレント映画の頂点を示す作品であり,著名な詩人,小説家,劇作家,軍人であったダンヌンツィオが荘重華麗な文学的字幕を書いたことでも知られ,スペイン出身の名カメラマン,セグンド・デ・チョーモン(1871‐1929)の移動撮影や,のちにハリウッドで〈レンブラント・ライティング〉と名づけられた人工光線による下からの仰角(あおり)ぎみの照明といった革新的な技術が各国の映画に大きな影響をあたえ,アメリカのD.W.グリフィスは《カビリア》のプリントを1本手にいれてつぶさに研究し,アメリカ最初のスペクタクル映画《国民の創生》(1915)と《イントレランス》(1916)をつくった。 スペクタクル映画はグリフィス以来,ハリウッドのお家芸になって今日まで続いているが,全映画史を通じてその最大の推進者となったのが〈スペクタクルの巨匠〉の名をほしいままにしたセシル・B.デミル監督である(他方,フランスにはほとんど狂い咲きのように大スペクタクル映画をめざしたアベル・ガンス監督の孤高の存在がある)。…
…それは,厳密にいえばコメディというよりもむしろバーレスク,もしくはファース(笑劇)とよぶべきものであったが,その代表的なものは,マック・セネットがキーストン社(1912設立)で製作した〈キーストン・コメディ〉とよばれるスラプスティックである。セネットは自伝《キング・オブ・コメディ》(1954)のなかで,スラプスティックを発明したのはフランス人であり,なかでもマックス・ランデルを中心にしたパテー社の喜劇から自分は最初のアイデアを盗んだのだと述べ,また,誇張したどたばた的所作,たとえば〈コマ落し〉や逆回転のような映画だけに可能な技術やトリックはD.W.グリフィスから学びとったという。まえからの伏線や背景,ゆきがかりや論理の継続のないアクションそのものの笑いであり,アメリカの批評家ギルバート・セルデスは,この一種の〈狂気の世界〉に〈あらゆる気違いじみたシチュエーション,荒々しいでたらめな動作,わずかな刺激にたいする爆発的な怒り,時と場所とのすべての法則を破り,物理的世界を全体的に否定してしまうことになる狂った追っかけ〉を見いだし,また,ベケットやイヨネスコの〈不条理劇〉の原点をそこに見る現代の批評家たちもいる。…
…1919年製作のアメリカ映画。〈映画が初めて描いた本物の悲劇〉〈映画における初めての高貴にして偉大なメロドラマ〉と評され,《国民の創生》(1915),《イントレランス》(1916)に次ぐD.W.グリフィス監督の〈第三の傑作〉ともいわれる作品。グリフィスがチャールズ・チャップリン,ダグラス・フェアバンクス,メリー・ピックフォードとともに1919年に創立した配給会社ユナイテッド・アーチスツの第1回配給作品として製作したもので,ピックフォードのすすめでイギリスの作家トマス・バークの短編小説集《ライムハウスの夜》(1916)の中の1編《シナ人と子供》をみずから脚色し,19世紀ロンドン東部の貧民街を舞台に,理想を夢みる中国人の青年と,ボクサーの父に虐待される少女とのロマンスを描いた(バークの原作は探偵小説作家エラリー・クイーンにより,E.A.ポーに始まる探偵小説史上重要な短編のアンソロジー《クイーンの定員》にも収録された〈巧妙な殺人物語〉(クイーン)であるが,グリフィスはその猟奇的な落ちを捨てた)。…
※「グリフィス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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