日本大百科全書(ニッポニカ) 「スミス」の意味・わかりやすい解説
スミス(Adam Smith)
すみす
Adam Smith
(1723―1790)
イギリスの社会科学者で、古典経済学の創始者。
生涯
スコットランドの港町カーコルディで、弁護士・関税監督官を父とし、郷士の娘を母として生まれた。誕生前に父を失い、母の手で育てられた。後半生は故郷で長命の母と暮らし、生涯独身であった。故郷の学校を出て、1737年スコットランドのグラスゴー大学に学び、道徳哲学者F・ハチソンの教えを受けた。さらに、1740年から6年間オックスフォード大学のベリオル・カレッジに学んだのち、1751年にはグラスゴー大学教授に就任して、ハチソンの後を継いだ。1759年に『道徳感情論』The Theory of Moral Sentimentsを出版し、全ヨーロッパに名声をはせた。そのころ、のちに蒸気機関を発明したJ・ワットも同大学内で実験助手をしており、スミスは彼を保護、激励していた。副総長を歴任したのち、1764年に大学を辞し、バックルー公Henry Scott, the third Duke of Buccleuch(1746―1812)の私教師として約3年間フランスに滞在した。その間、ボルテールや重農学派のケネーなどと交わり、学識を深めた。帰国後は、故郷で『国富論』の執筆に専念し、1776年アメリカ独立戦争のさなかにこれを刊行した。1777年スコットランド税関委員に任命されたため、翌1778年にはエジンバラに居を移し、1787年にはグラスゴー大学総長に選ばれた。1790年に死の近いのを知ったスミスは、草稿類を焼却させ、同年7月17日死去した。エジンバラ市キャノンゲイト墓地に葬られている。
[星野彰男 2015年7月21日]
著作
スミスの生前に刊行された著作は先の2著だけであるが、彼が遺著として公刊することを認めた『哲学論文集』Essays on Philosophical Subjectsが1795年に刊行された。そのなかでは天文学史を論じた部分が卓越しており、科学革命の見方が展開されている。そのほかに、1763年前後に行った講義の受講ノートと、『国富論草稿』An Early Draft of Part of the Wealth of Nationsが、19世紀末から20世紀なかばにかけて発見された。受講ノートの一つは『法学講義』Lectures on Jurisprudence(1978)で、これの旧版(1896)が『グラスゴウ大学講義』である。もう一つは『修辞学・文学講義』Lectures on Rhetoric and Belles Lettresで、論理学の受講ノートである。これらの著作等はすべて『グラスゴー大学版アダム・スミス著作書簡集』The Glasgow Edition of the Works and Correspondence of Adam Smith全6巻7冊(1976~1983)に収められている。
スミスの蔵書は、ギリシア・ローマ時代の古典が大半を占めており、また近代の人文・社会・自然諸科学も含めて多彩を極めており、3000冊に上る蔵書のなかで経済学に関する書物はきわめて少ない。蔵書の大半は、エジンバラ大学に収められているが、一部は東京大学にも所蔵されている。詳細な蔵書目録として、スミス研究者の水田洋(みずたひろし)(1919―2023)によるAdam Smith's library: a catalogue(2000, Oxford University Press)がある。
[星野彰男 2015年7月21日]
思想
スミスの思想は、近代の代表的な思想家たちと同様に、古典古代の人文学の素養に基礎づけられている。また、グロティウス、ホッブズ、ロック、ヒューム、ルソーなどからも学びながら、『道徳感情論』において独自の同感理論を展開した。すなわち、ある行為や感情は、それを見ている観察者の同感を受けることによって是認される。行為者は、観察者の同感を受けようとする本性を備えているために、観察者から同感されないばかりか、反感すら受けるような行為については、これを未然に自己規制しようとする。他者を侵害するほどの不正や傲慢(ごうまん)が社会的に非難されるのは、このような同感感情に基づいているからである。この考えによると、人々の関係が公平に開かれたものでありさえすれば、おのずと不正が自己規制され、また正義=自然法が守られるようになり、国家的強制力をほとんど必要としなくなる。このような観点から、スミスは自然法学を展開しようとした。
しかし現実には、法や統治の特定のあり方が歴史的に確立されてきた。スミスは、これについて先の講義で詳細に講述し、法がいかにして改善されてきたかを論じた。そして、道徳や法や統治のあり方が、便宜の世界としての経済のあり方によって大いに左右されうるとみなして、分業論をもとにした経済分析に入っていった。『国富論』は、この法学講義の後段部分が独立してより詳細に肉づけされたものである。同書でスミスは、ケネーらから学んだ再生産・資本蓄積の視点を補強し、また、アメリカ独立戦争の原因を究明して、打開策を提言した。このように、『国富論』は、自然法学の一環として、より洗練された法や統治や国際関係のあり方を論証するものとして著された。人々の自由な経済活動に任せておけば、「見えざる手」の導きによっておのずと均衡が保たれていくという市場機構への信頼感も、開かれた人間関係のなかで円滑に作用すべき先の同感理論によって支えられた見方だったのである。
最晩年にスミスは、『道徳感情論』の大幅な増補改訂を行い、同感理論に基づく自己規制論の完成を期したが、自然法学の体系的著述は、『国富論』を除き、ついに未完に終わった。
[星野彰男 2015年7月21日]
『内田義彦著『経済学の生誕』増補版(1962・未来社)』▽『水田洋著『アダム・スミス研究』(1968/新装版・2000・未来社)』▽『ジョン・レー著、大内兵衛・大内節子訳『アダム・スミス伝』(1972・岩波書店)』▽『高島善哉著『アダム・スミス』(岩波新書)』
スミス(Kiki Smith)
すみす
Kiki Smith
(1954― )
ドイツ生まれのアメリカの彫刻家。ニュルンベルクで生まれ、アメリカ、ニュー・ジャージー州で育つ。父はミニマリズムの彫刻家トニー・スミス。布、毛糸、ガラス、紙、蝋(ろう)、松脂(まつやに)、陶器、銀、ブロンズなどさまざまな素材を使い、人間の身体構造や生体の活動に触発された彫刻をつくる。
1976年からニューヨークに住み、1979年ごろからイギリスの解剖学者ヘンリー・グレーHenry Gray(1825―1861)の『解剖学』Gray's Anatomy(1858)をもとに末梢(まっしょう)神経や身体の細部のドローイングを制作。1980年に、自らも一員であったアーティスト集団コラボラティブ・プロジェクト(COLAB)とオルタナティブ・スペース(作品を収蔵する美術館でも作品を売る画廊でもない作品発表の空間)、ファッション・モーダの企画によるグループ・ショー「タイムズ・スクエア・ショー」に参加する。これは、具象を異端視するコンセプチュアル・アートの偏狭さに抗議した若いアーティストたちが、古い風俗業の建物を改装して彫刻、絵画、グラフィティを展示し、展覧会自体がギャラリー、クラブ、ストリートの要素を混在させた、ニューヨーク・ニュー・ウェーブ・アートの始まりを告げた有名な展覧会であった。1981年から1983年の間にニューヨークのP.S.1コンテンポラリー・アート・センター(現、MoMA P.S.1)、ホワイト・コラム、アーティスト・スペース、キッチンなど、イースト・ビレッジ・アート・シーンの拠点であったオルタナティブ・スペースにおけるグループ展や、COLABのヨーロッパにおける展覧会活動に参加する。1982年キッチンで初個展「生命は生きたがっている」を開催。1984年にホイットニー美術館の「近代の仮面」展に参加。1985年、ニューヨーク実験ガラス工房でガラスを素材に制作を始める。1988年にはMoMA(ニューヨーク近代美術館)のグループ展に参加し、作品がコレクションに加えられる。これらの活動によりスミスの作品は1990年までにすでに国際的に認められていたが、エイズや湾岸戦争を背景とした生や死や人間の傷つきやすさについての意識の高まりを反映し、1990年代初めに大きな成功を収め、以後身体をテーマにした数多くの個展やグループ展で作品を発表する。
スミスの彫刻は、紙や糸や布を編んだり縫い合わせたりした繊細なものから、ブロンズやガラスを型どりした重厚なものまで、さまざまな素材と技術を駆使してつくられる。それは、人体の一部のオブジェや全体像であるが、個別的に展示されても、インスタレーションでも、そこには身体の傷つきやすさと、傷を負ったり断片化したりすることでいっそう強くなる生命の存在感が暗示されている。中心に蝶番(ちょうつがい)があり、開くことのできるブロンズ製の子宮型の彫刻『子宮』(1986)や、白く着色されたテラコッタの断片を刺しゅう糸でつなぎ合わせ、モビールのようにつるした『胸骨』(1987)などには、生命の神秘とはかなさに対する作者の関心や、聖者の心臓などを聖骸(せいがい)として祀(まつ)るカトリック的な感性の反映がみられた。一方、1990年代に入ってつくられた、正面から見ると静かに座っているだけの裸婦像の背中に深い爪痕(つめあと)が刻まれている『無題』や、直径20~30センチメートルの赤褐色のガラスの円盤を100個直線上に並べた1994年の『血の線』には、女性であることから生まれる痛みや独特の身体観が投影されている。
スミスの彫刻は、ロバート・ゴーバーRobert Gober(1954― )の彫刻やマイク・ケリーやポール・マッカーシーのパフォーマンスと並んで、1990年代初めのニューヨークに台頭した「おぞましいもの」(abjection。フランスの思想家ジュリア・クリステバによれば、人間がその社会的正当性と理性的主体性を確立するために切り離さなくてはならない母の身体への執着と、母の身体を連想させるさまざまなもの――血や体液――、不完全な状態を示す分断された身体の断片、身体の内部との接触を暗示する食べかけの食物などをさす)の美術的表現の一環と考えられた。実際に、1990年代なかばにスミスの作品がアメリカ各地やカナダの大学の付属美術館を頻繁に巡回したことは、その作品がフェミニズム研究者の関心を強く引き付けたことと無関係ではない。1990年代後半には、その題材を自然界や童話の世界に広げている。
1990年MoMAで個展「プロジェクト24――キキ・スミス」、1998年ハーシュホーン美術館(ワシントンDC)で個展開催。1991年、1993年ホイットニー・バイエニアル(ニューヨーク)に参加。1992年、当時流行していたジェンダーや階級の差を、テクノロジーの発達を媒介にして超越する、進化した(極端に退化した)身体への夢想をテーマとした「ポスト・ヒューマン」展(イスラエル美術館などヨーロッパ5か所の美術館を巡回した)に参加した。
[松井みどり]
『Paradise Cage; Kiki Smith and Coop Himmelblau (1996, Museum of Contemporary Art, Los Angeles)』▽『Linda ShearerKiki Smith (1992, The Ohio State University Wexner Center for the Arts, Columbus)』▽『Benjamin WeilCharles Ray, Kiki Smith, Sue Williams (in Flash Art, November/December 1992, Giancarlo Politi Editore, Milano)』▽『Rebecca Howland, Christy Rupp, Kiki Smith, Cara PerlmanSigns of Life (1993, Illinois State University Galleries, Normal)』▽『Hal FosterThe Return of the Real; The Avant-Garde at the End of the Century (1996, MIT Press, Cambridge)』▽『Bridgitte Reinhardt, Ilka BeckerKiki Smith; Small Sculptures and Large Drawings (2002, Hatje Cantz Publishers, New York)』
スミス(Jimmy Smith)
すみす
Jimmy Smith
(1928―2005)
アメリカのジャズ・オルガン奏者。本名ジェームズ・オスカー・スミスJames Oscar Smith。ペンシルベニア州にピアニストの両親の間に生まれる。幼児期からピアノに親しみ9歳で天才児といわれるほど上達し、アマチュアのコンテストで優勝している。海軍を除隊した1948年フィラデルフィアのハミルトン音楽学校に入学、このときはベースを学んでいる。翌49年から50年にかけ同市のオースティン音楽学校で正規にピアノを習得。52年ドラム奏者ドン・ガードナーDon Gardnerのバンドに参加。
1953年ジャズにおけるオルガン演奏の雛型(ひながた)をつくりあげたといわれるワイルド・ビル・デービスWild Bill Davis(1918―95)の演奏に影響されオルガン奏者に転向し、ニューヨークのクラブ「スモールズ・パラダイス」や「カフェ・ボヘミア」に出演する。55年、短期間ながらテナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンと共演。56年、ブルーノート・レーベルの名プロデューサー、アルフレッド・ライオンAlfred Lion(1908―87)に見込まれ、初リーダー作『ア・ニュー・サウンド・ア・ニュー・スター』を録音。57年から同レーベル専属ミュージシャンとなり以後62年までに30枚を超すアルバムを吹き込み、ブルーノート・レーベルの看板スターの地位を得た。この時期のスミスの演奏はモダン・ジャズ・ピアノの開祖バド・パウエルの影響を強く受けたスタイルで、オルガンにおけるモダン奏法を確立させた。ブルーノート時代の共演ミュージシャンには、アルト・サックス奏者のルー・ドナルドソンLou Donaldson(1926― )、同じくアルト・サックスのジャッキー・マクリーン、トランペット奏者のリー・モーガンなどがいる。
1962年、ブルーノート・レーベルにおける最後の年に、アルバム『ミッドナイト・スペシャル』が大ヒット、『ビルボード』Billboard誌の28位(シングル69位)というジャズとしては異例の「ホット100」入りを果たした。これはジャズ専門のレコード会社、ブルーノート・レーベルにとっては初めてのことであると同時に、オルガン・ジャズの一般的認知度が飛躍的に向上した記念すべきできごとでもあった。63年からバーブ・レコードに移籍し、オーケストラとの共演作品で大衆的人気を得る。とりわけ64年に録音された『ザ・キャット』は、同年公開されたアラン・ドロン、ジェーン・フォンダ主演、監督ルネ・クレマンによるMGM映画『危険がいっぱい』(1964)の主題曲をタイトルとしていたこともあって、ジャズ・ファンを越えた幅広い人気を博し、スミスの名声を決定的なものとした。
エレクトリック・ジャズの流れが顕著になる1970年代は、相対的にオルガン・ジャズの地位が低下したためロサンゼルスでクラブを経営し、そこで演奏すると同時に個人レーベル「MOJO」を設立。82年に至ってギター奏者、ボーカリストのジョージ・ベンソンと共演したアルバム『オフ・ザ・トップ』Off The Topでふたたびジャズ・シーンの注目を浴びた。
[後藤雅洋]
スミス(Patti Smith)
すみす
Patti Smith
(1946― )
アメリカのロック歌手、詩人。シカゴの工場労働者の家庭に生まれ、後にニュー・ジャージー州に移住する。高校時代にランボーの詩に傾倒し詩作を始めるとともに、ローリング・ストーンズに熱中し、アートや演劇に親しむ。ニュー・ジャージー州グラスボロ教育大学在学中の1967年春、大学教授との間の子どもを出産するが、生活のために里子に出し、ニューヨークへと移り住む。
ニューヨークでは写真家のロバート・メープルソープ、劇作家・俳優のサム・シェパードらと親しくなり、またニューヨークのアート・シーンや演劇シーンと交流し、詩作に努める。『7番目の天国』Seventh Heaven(1972)、『ウィット』Witt(1973)など数冊の詩集を発表。やがて彼女は公園やコーヒーハウスなどでポエトリー・リーディングを行うようになり、そのバックにギターやピアノの伴奏がつくこともしばしばあった。後にニューヨーク・パンクを代表するグループとなるテレビジョンのギタリスト、トム・バーレインTom Verlaine(1949―2023。本名トーマス・ミラーThomas Miller)らをバックに最初のシングル「ヘイ・ジョー/ピス・ファクトリー」(1974)を発表。ライブ活動も積極的に行うようになり、ファースト・アルバム『ホーセス』(1975)をリリースする。フランス象徴派の影響を受けた文学的な詩とロックン・ロールの結び付きはニューヨークから誕生した新たなロック・ミュージックとして歓迎され、後のニューヨーク・パンクの先駆けとなる。
1976年にはセカンド・アルバム『ラジオ・エチオピア』を、続いてサード・アルバム『イースター』(1978)をリリース。後者に収録された、ブルース・スプリングスティーンBruce Springsteen(1949― )との共作曲「ビコーズ・ザ・ナイト」は全米で13位まで上る大ヒットとなった。4枚目のアルバム『ウェイブ』(1979)をリリースした後、元MC5のギタリスト、フレッド・スミスFred Smith(1948―1994)と1980年に結婚・引退し、デトロイトで静かな結婚生活を送る。
1986年ころからフレッドの協力によって復帰作のレコーディングが開始され、やがて9年ぶりのアルバム『ドリーム・オブ・ライフ』(1988)がリリースされる。1993年には久しぶりに観衆の前でポエトリー・リーディングを行い、活動再開の準備をしていた矢先、夫のフレッドが心不全で急死する。悲しみを乗り越え、かつての友人たちとの協力で録音されたアルバム『ゴーン・アゲイン』(1996)を発表、ベテラン・ロック・アーティストとしての風格をみせた。その後も『ピース・アンド・ノイズ』(1997)、『ガン・ホー』(2000)などのアルバムを発表。1997年(平成9)には初来日するなど活発な活動を続けている。
[増田 聡]
『東玲子訳『パティ・スミス完全版――詩と回想、そして未来へのメモ』(2000・アップリンク)』▽『ニック・ジョンストン著、鳥井賀句訳『パティ・スミス――愛と創造の旅路』(2000・筑摩書房)』
スミス(ロック・グループ)
すみす
Smiths
1980年代イギリスのインディー・ロック・シーンを代表するグループ。マンチェスターに生まれ、オスカー・ワイルドとジェームズ・ディーンを敬愛する内気な青年であったモリッシーMorrissey(1959― 、ボーカル。本名スティーブン・パトリック・モリッシーSteven Patrick Morrissey)は、1960年代ポップスに影響を受けながら自身の曲を書きためる毎日を送っていた。年下のギタリスト、ジョニー・マーJohnny Marr(1963― )と出会ったモリッシーはバンドを始めることを決意し、アンディ・ロークAndy Rourke(1964―2023、ベース)、マイク・ジョイスMike Joyce(1963― 、ドラムス)とともに1982年スミスを結成する。
グラジオラスを腰に差して踊るモリッシーの風変わりなライブ・パフォーマンスと、1960年代のギター・ロックを現代的によみがえらせたサウンドが話題をよび、スミスはインディー・レーベルのなかでは大手のラフ・トレードと契約する。1983年5月にデビュー・シングル「ハンド・イン・グローブ」がリリースされ、彼らの評判はイギリス国内に広まっていく。1984年の初めには、デビューから3枚目までのシングルが全英インディー・チャートのトップ3を独占するまでに人気が高まるなか、デビュー・アルバム『ザ・スミス』(1984)がリリースされ、彼らはパンク以降の新しいロックの旗手との評価を受けることになった。
同年セカンド・アルバム『ハットフル・オブ・ホロウ』をリリース、続いてリリースされたサード・アルバム『ミート・イズ・マーダー』(1985)では、表題曲で菜食主義を支持し政治的な姿勢もみせ始める。その後全英ライブ・ツアーも成功するが、このころからスミスは所属レーベルであるラフ・トレードとの金銭的な問題や、ロークのドラッグ問題などのトラブルにみまわれる。そんななかリリースされた4枚目のアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』(1986)は彼らの最高傑作とされる優れた作品であった。表題のとおりの英国王室批判も含めた政治的な姿勢と、練度を増したバンド・サウンドは、サッチャー保守政権下のイギリスの若者から絶大な支持を集めることになる。
1986年9月、絶頂期にあったスミスはメジャー・レーベルであるEMIと契約を結ぶが、ラフ・トレードとの契約が残っていたため、翌1987年2月にシングル曲集『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』をリリース、5月にはラフ・トレード最後のアルバムになる『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』を完成させた。しかし、モリッシーとマーの関係がもつれ、8月にマーは脱退を表明。メジャー移籍前に突然、バンドは空中分解してしまう。モリッシーも結局、9月に解散を正式に表明。同時に『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』は、スミスのラスト・アルバムとしてリリースされた。
解散後、マーは、トーキング・ヘッズやブライアン・フェリーBryan Ferry(1945― )、ザ・ザなど、多数のアーティストのレコーディングに参加した後、いくつかのグループを経て活動を続け、モリッシーもソロ歌手として活動している。
[増田 聡]
『ジョニー・ローガン著、丸山京子訳『モリッシー&マー――茨の同盟』(1993・シンコー・ミュージック)』▽『ジョニー・ローガン著、丸山京子訳『グレイト・ロック・シリーズ――ザ・スミス/モリッシー&マー全曲解説』(1997・バーン・コーポレーション)』
スミス(George Pearson Smith)
すみす
George Pearson Smith
(1941― )
アメリカの生化学者。コネティカット州ノーウォーク生まれ。1963年ペンシルベニア州のハバフォード大学卒業。高校教師などを経て、1970年ハーバード大学で細菌学と免疫学の博士号を取得。その後、博士研究員としてウィスコンシン大学で、オリバー・スミシーズ(2007年ノーベル医学生理学賞受賞)の指導を受け、1975年ミズーリー大学助教授、1990年教授、2000年に特別栄誉教授に任命された。
1980年代、細菌に感染するウイルス、バクテリオファージを使いDNAのクローニングの研究を始めた。バクテリオファージは、カプセル状の表面タンパク質の中に少数の遺伝子を含む単純な構造のウイルスで、細菌に感染すると、自らの遺伝子を細菌のDNAに潜り込ませ、ウイルスの表面に増殖に必要なタンパク質の断片(材料)をつくりだすことによって大量に増殖する。スミスは、1983~1984年、サバティカル休暇で、デューク大学に滞在した時、バクテリオファージの表面タンパク質をつくる遺伝子「Phage gene Ⅲ」にさまざまなDNAの破片を注入し、既知のタンパク質をつくろうとしていた。ねらったタンパク質が、ファージの表面につくられていることを確認。それを生体がつくりだす抗体と結合させて、釣りあげられることを実証し、1985年に発表した。この手法は「ファージディスプレー法」とよばれ、精度よく、大量の遺伝子、タンパク質を取り出すことを可能にし、広く普及した。この手法を活用し、画期的な自己免疫疾患治療用ヒト抗体医薬品「アダリムマブ」(商品名ヒュミラ)を開発したのが、イギリス医学研究会議(MRC)分子生物学研究所のグレゴリー・ウィンターである。この薬はリウマチ性関節炎ほか炎症系疾患の治療に適用拡大されている。
2007年プロメガ・バイオテクノロジー研究賞を受賞。2018年には「ファージディスプレーによるタンパク質や抗体の開発」の業績で、グレゴリ・ウィンターとノーベル化学賞を共同受賞した。「指向性進化による酵素の合成」に貢献したアメリカのカリフォルニア工科大学教授フランシス・アーノルドとの同時受賞であった。
[玉村 治 2019年3月20日]
スミス(Ian Douglas Smith)
すみす
Ian Douglas Smith
(1919―2007)
ローデシア(現ジンバブエ)の政治家。白人入植者の子としてミドランド州のセルクウェに生まれる。南アフリカ連邦のローズ大学を卒業、第二次世界大戦中イギリス空軍飛行士として活躍。1948年政界に入り南ローデシア立法審議会議員。1961年白人入植者を代表するローデシア戦線党(RF)を結成。1964年首相に就任。1965年11月宗主国イギリスとアフリカ人の反対を押し切って入植者による支配を続けたままでの一方的独立を宣言した。アフリカ人の合意が独立の条件とするイギリスと何度も交渉を重ねたが決裂。1970年代以降のアフリカ人武力闘争に武力で対峙(たいじ)。以後、ソ連が積極的に支援するアフリカ人解放勢力との戦争が続いた。ソ連の南部アフリカ進出を恐れたアメリカは1975年のビクトリア・フォールズ会談で初めて解放諸勢力と交渉したが決裂。しかし、スミスは1976年のアメリカ国務長官キッシンジャーによる和平交渉、さらに1977年の一人一票制の選挙を主唱する英米提案をけり、国内穏健派のアフリカ人指導者ムゾレワらと国内解決を図った。1979年8月に開かれたイギリス連邦首脳会議で、アジア・アフリカ諸国は国内解決を認めたサッチャー政権を非難し、改めて全当事者によるロンドン制憲会議を提唱した。同年9月のロンドン制憲会議に合意し、新憲法、独立までの移行期、軍・ゲリラの武装解除、一定期間の白人権益保護について協議した。その結果ランカスター協定が締結され、翌1980年4月ジンバブエは独立。その後もRF党首、下院議員として白人の権利の擁護にあたった。RFは1985年ジンバブエ保守連合(CAZ)と改名したが、1987年、独立時のランカスター協定の期限終了後に全100議席のうち20議席あった白人議席はなくなり、党首を辞任、翌1988年政界から引退した。
[林 晃史]
『Bitter harvest(2001, Blake Publishing, London)』▽『Dickson A. MungaziThe last defenders of the laager(1998, Praeger Publishers, Westport,Conn.)』
スミス(Michael Smith)
すみす
Michael Smith
(1932―2000)
カナダの生化学者。イギリスのブラックプール生まれ。1956年マンチェスター大学で博士号を取得後、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学のH・コラーナ(DNAの遺伝情報解読で1968年ノーベル医学生理学賞受賞)のもとで、オリゴヌクレオチドの合成について研究する。1961年にはカナダ水産研究委員会で海洋生物学の研究に携わる。1966年ブリティッシュ・コロンビア大学準教授、1970年に同大学教授となる。1975年にはF・サンガー(1958年にタンパク質のアミノ酸配列決定で、1980年にDNA塩基配列解読で二度ノーベル化学賞受賞)の研究室に留学し、ファージの塩基配列を決定するプロジェクトに参加した。1978年にファージを実験材料として、オリゴヌクレオチドの設計を工夫することでDNAの特定の位置に一塩基置換変異や欠損変異を導入する方法を開発した。この方法によりタンパク質のアミノ酸を自由にかえられるようになり、タンパク質の構造及び機能解析が飛躍的に進歩した。この功績により1993年、ポリメラーゼ連鎖反応法を開発したK・マリスとともにノーベル化学賞を受賞した。その後もゲノム解析などの生化学の研究を精力的に続けた。
[馬場錬成]
スミス(Osborne Earl Smith)
すみす
Osborne Earl Smith
(1954― )
アメリカのプロ野球選手(右投左右打)。通称、オジー・スミス。大リーグ(メジャー・リーグ)のサンディエゴ・パドレス、セントルイス・カージナルスで遊撃手としてプレー。華奢(きゃしゃ)なスイッチ・ヒッターであるが、「オズの魔法使い」と異名をとったほどの好守備を誇った名遊撃手である。
12月26日、アラバマ州モービルで生まれる。カリフォルニア・ポリテクニック州立大学サン・ルイス・オビスポ校から1977年、ドラフト4巡目指名でパドレスに入団。抜群の守備力ですぐに頭角を現し、プロ入り2年目の1978年には開幕から大リーグでレギュラーの座を確保した。打率2割5分8厘、ホームラン1本、打点46と打撃成績は振るわなかったが、守備力に加えて盗塁40という機動力でチームに貢献した。1980年には初のゴールドグラブ賞を受賞。以降、13年連続して同賞を独占し続けた。また、1981年からはオールスター・ゲームの常連となり、1992年まで12年連続して出場した。1982年にトレードでカージナルスへ移籍。守りと機動力を軸としていた名将ホワイティー・ハーゾグDorrel Norman Elvert "Whitey" Herzog(1931―2024)監督の野球に欠かせない存在となり、同年チームのワールド・シリーズ優勝に貢献した。1985年と1987年にもリーグ優勝に貢献。1985年にはチャンピオンシップ・シリーズの第5戦でリーグ優勝に王手をかけるサヨナラホームランを打ち、1987年は最初で最後の打率3割をマークした。ホームゲームやオールスター・ゲームでは、試合最初の守備につく際に後方宙返りを決めてファンを喜ばせた。1994年以降は出場試合が100以下に減り、1996年の地区優勝を花道に引退した。
19年間の通算成績は、出場試合2573、安打2460、打率2割6分2厘、本塁打28、打点793、盗塁580。獲得したおもなタイトルは、ゴールドグラブ賞13回。2002年に野球殿堂入り。
[山下 健]
スミス(Hamilton Othanel Smith)
すみす
Hamilton Othanel Smith
(1931― )
アメリカの微生物学者。ニューヨークに生まれる。イリノイ大学、カリフォルニア大学バークリー校、ついでジョンズ・ホプキンズ大学医学部で学び、1956年同校の博士号を取得した。その後セントルイスのバーンズ病院、サン・ディエゴの海軍基地、デトロイトのヘンリー・フォード病院で医療に従事し、1962年ミシガン大学の研究員。1967年ジョンズ・ホプキンズ大学の微生物学助教授、1973年同教授となり、1981年には分子生物学遺伝学教授となった。
1970年にヘモフィルス・インフルエンザ菌からデオキシリボ核酸(DNA)を切断する制限酵素を発見、HindⅡと命名した。1968年にアルバーが発見した制限酵素(Ⅰ型制限酵素)とは別種のもの(Ⅱ型制限酵素)であった。Ⅱ型制限酵素は部位特異性制限酵素で、スミスはこの酵素がDNAの特定の部位を切断するものであることを確認した。大学の同僚のネイサンズは、この酵素を利用して遺伝子の構造を明らかにする方法を開発した。その後、部位特異性制限酵素は盛んに研究され、多くの酵素が検出されるようになり、分子遺伝学は大きく前進、遺伝子工学が開発されるに至った。この業績により、アルバー、ネイサンズとともに、1978年ノーベル医学生理学賞を受賞した。
[編集部 2018年8月21日]
スミス(Sir Grafton Elliot Smith)
すみす
Sir Grafton Elliot Smith
(1871―1937)
イギリスの解剖学者、人類学者。慣用的にエリオット・スミスとよばれる。オーストラリアのグラフトン(ニュー・サウス・ウェールズ州)の教師の家に生まれた。シドニーで成長して、シドニー大学医学部を1892年に卒業した。単孔・有袋類の大・小脳、嗅脳(きゅうのう)の比較解剖学的研究が注目され、1896年にイギリスのケンブリッジ大学に招かれて、王立外科医学校の脳標本を整理するなどの業績をあげた。1900年には新設のカイロ国立医学校の初代解剖学教授に赴任した。解剖学的研究の一環として着手した古代埋葬人骨の調査から、古代エジプトの宗教・慣習、とくにミイラ作製法に強い関心をもった。1909年にマンチェスター大学の解剖学教授となってからは、リバーズ、ペリーWilliam James Perry(1868―1949)らとともに、エジプトを高度文化の単一源泉とみた退行的文化伝播(でんぱ)論を提唱した。この伝播論は人類学的・民族学的諸科学に強い衝撃を与えたものの、一時的な流行の仮説にすぎなかった。それに比べ、1919~1932年のロンドン大学解剖学教授在任中にスミスが努力した人類学的研究・教育の拡充・奨励は、ダート、ブラックDavidson Black(1884―1934)などの活躍にみられるように、この分野の発展に長期的な功績を残した。
[佐々木明 2018年11月19日]
スミス(Vernon L. Smith)
すみす
Vernon Lomax Smith
(1927― )
「実験経済学の父」とよばれるアメリカの実験経済学者。カンザス州ウィチタ生まれ。1949年にカリフォルニア工科大学で電気工学の学位をとり、1952年にカンザス大学で修士号、1955年にハーバード大学で博士号を取得。パーデュー大学、ブラウン大学、マサチューセッツ大学などを経て、1975年にアリゾナ大学教授、2001年からジョージ・メイソン大学教授を務める。経済学は実験と無縁の学問であるという通念を打破し、心理学とは異なる実験経済学独自の方法論を樹立する。2002年にD・カーネマンとともに、ノーベル経済学賞を受賞した。受賞理由は「市場メカニズムの研究において、実証実験を通じて解明する実験経済学を確立した」ことである。
教科書通りに需要曲線と供給曲線の交点付近での取引が実験においても成立することを論証するために、買い手も売り手も価格を提示するダブルオークションの手法を開発する。また被験者に一定の謝金を支払い、実験者にとって適切な選好統制の手段としての誘導価値理論を定式化し、実験できないとされてきた経済学に実験研究の道を開いた。これは自然科学の風洞実験などと同様、社会制度の性能を事前に確認することを意味し、規制緩和した電力市場の機能や、地球温暖化にかかわる二酸化炭素の排出権取引の仕組みなどに応用されている。
[金子邦彦]
スミス(Edward Elmer Smith)
すみす
Edward Elmer Smith
(1890―1965)
アメリカのSF作家。文学博士の学位をもつので通称ドク・スミスともよばれる。処女作『宇宙のスカイラーク』を1928年に発表して大好評を博し、続編を次々に発表して全四巻のシリーズとなった。この作品の主人公リチャード・シートンによって、それまで銀河系内に限定されていたSFの舞台は、初めて他の島宇宙にまで拡大された。この第一作の発表当時はちょうどアメリカのパルプ・マガジンの全盛期にあたり、大科学者の主人公が同時にアクション・ヒーローの役割を演じるという初期のスペース・オペラの典型を確立して、その後の冒険SFの発展に決定的な影響を与えた。『スカイラーク』の後を受けて時間的にも空間的にも思想的にもその規範を拡大した傑作が次のレンズマン・シリーズで、第一巻『銀河パトロール隊』(1937)から第七巻『渦動破壊者』まで10年がかりで完成したスペース・オペラの記念碑である。この両シリーズの成果によってスミスは現在スペース・オペラの父とよばれている。ほかに独立した作品として、『惑星連合の戦士』(1947)、『大宇宙の探究者』(1965)などがある。
[厚木 淳]
スミス(George E. Smith)
すみす
George E. Smith
(1930― )
アメリカの物理学者。シカゴ大学で博士号を取得した後、ベル研究所の研究員となり、超大規模集積回路(VLSI:Very Large Scale Integration)装置部長などを歴任した。2009年にウィラード・ボイルとともに「電荷結合素子(CCD=Charge Coupled Device)センサーの発明」によりノーベル物理学賞を受賞した。
1969年、スミスはボイルとともに光を電気信号に変える素子を集積し、画像として記録する方法を最初に考案した。画像を電気信号に変換するときに、受光素子が光から発生した電荷を読み出す原理を利用、電荷結合素子とよばれる回路素子を用いて電荷を転送する方法である。現代ではデジタルカメラ、デジタルビデオ、内視鏡などに使われるようになり、携帯電話で撮影した写真も手軽に送信できるようになった。
[馬場錬成]
スミス(William Smith)
すみす
William Smith
(1769―1839)
イギリスの地質学者。オックスフォードシャーに生まれる。測量技術を独学で学び、土木工事のための測量に従事するうち地質に興味をもつようになった。異なる地層にはそれぞれに特徴的な化石があることを初めて明らかにし、古生物によって地層対比が可能であるという層序学に重要な法則をみいだしたため、「層序学の父」とよばれる。またこの法則を応用して地層の識別を行い、その分布を地図上に記入し、1815年にイングランド、ウェールズ、スコットランドの一部の精密な地質図を発表した。ゲッタールの地質図作製にやや遅れるものの精密なことで優れ、「イギリスの地質学の父」ともよばれている。
[木村敏雄]
スミス(Sir Francis Pettit Smith)
すみす
Sir Francis Pettit Smith
(1808―1874)
イギリスの発明家。初等教育を終えたあと、農夫となる。趣味で小さな模型の船をつくるのが得意だったが、その際、船の推進方法について、これまでのような外輪船よりも、スクリューで推進したほうが有効であることに確信をもった。1836年、造船技術者エリクソンとは別個に、スクリュープロペラを発明し特許を得た。1839年最初の実用的なスクリュープロペラ推進船アルキメデス号を建造した。1850年まで推進方法の専門家として海軍省で働き、その後はふたたび農業に従事した。のちにサウス・ケンジントンの特許局博物館長に就任している。
[雀部 晶]
スミス(William Eugene Smith)
すみす
William Eugene Smith
(1918―1978)
アメリカの報道写真家。ヒューマニズムに立脚した人間味あふれる数多くのドキュメント、ルポルタージュを残した。カンザス州に生まれ、大学卒業と同時にフリー写真家として通信社と契約し『ライフ』をはじめとする雑誌の仕事に従事、1938年『ライフ』誌の専属となる。第二次世界大戦中は従軍し、戦後は写真通信社「マグナム・フォトス」のメンバーとして活躍し、フォト・エッセイという形式で立体的かつ叙事的な写真表現を確立し、フォト・ジャーナリズムに新風を吹き込んだ。代表作に『スペインの村』(1951)、『ピッツバーグ』(1955~58)などがある。晩年、日本の水俣(みなまた)病問題に強い関心を寄せ、71年来日して現地に居を移し、公害被害者のドキュメントに全身で打ち込み、現代社会における産業と人間の軋轢(あつれき)を鋭く告発、写真集『水俣』(1973)を出版。水俣病公害訴訟を取材中に被告側警備員に暴行を受け失明し、本国で没した。
[平木 収]
『『写真集 水俣』普及版(1982・三一書房)』
スミス(Theobald Smith)
すみす
Theobald Smith
(1859―1934)
アメリカの細菌学者。ニューヨーク州オルバニーに生まれる。コーネル大学、オルバニー医学校に学ぶ。卒業とともに連邦畜産局の一員となり(1885)、1886年からはコロンビア大学細菌学教授を兼ねた。1895~1915年マサチューセッツ州立研究所病理部長。1896年以降ハーバード大学比較病理学教授を兼任した。1915~1929年ロックフェラー研究所の植・動物病理部長。スミスは、パスツール、コッホが切り開いた細菌学時代に活動を始め、ヨーロッパの先駆者に匹敵する業績をアメリカであげた。発表した論文は170編に上る。ウシのテキサス熱の昆虫(ダニ)による媒介を発見し、サーモンDaniel Elmer Salmon(1850―1914)とともに豚(とん)コレラ(豚熱の旧称)の死菌でハトに免疫が成立することを確証、また結核菌の人型、牛型を区別した。その著作『寄生と疾患』(1934)は、宿主・寄生体の複雑な関係を解析した名著として知られている。
[梶田 昭]
スミス(Joseph Smith)
すみす
Joseph Smith
(1805―1844)
アメリカの末日聖徒キリスト教会(モルモン教)の創唱者。スミス一家は、ニュー・イングランドからニューヨークへの移民で、生活は貧しかった。1820年代、宗教上の興奮がニューヨークを襲い、その雰囲気のなかで、スミスは天使モロニイから金の板金を授かったとして、それを翻訳、30年モルモン経として世に示し、同年、末日聖徒キリスト教会を創設した。その後、教会はニューヨーク、オハイオ、ミズーリ、イリノイと移動。彼は、44年には合衆国の大統領候補になると宣言するほど政治的に権力をもった。彼の影響力の強大さに加えて、一夫多妻制の実践は人々の脅威となり、それが非難へと変わった。彼と弟は暴徒に捕らえられ、44年6月27日殺された。
[野村文子]
『ジョゼフ・F・スミス著『モルモン経』(1976・末日聖徒イエス・キリスト教会出版局)』
スミス(John Smith)
すみす
John Smith
(1579/80―1631)
イギリスの探検家、植民地開拓者。ヨーロッパ大陸でオスマン・トルコ軍と戦って捕虜となり脱走した経験をもつ。1607年、ロンドン・バージニア会社の移住者とともに、最初の恒久的植民地となったバージニアに到着し、ジェームズタウンを建設。探検中にインディアンの捕虜となり、首長(しゅちょう)の娘ポカホンタスの哀訴で助けられた話は有名である。08~09年植民地知事に選出されたが、内部抗争に巻き込まれ、死刑を宣告されたこともあった。許されて帰国したのち、ニュー・イングランド海岸の探検を行った。『バージニア・ニューイングランド・サマー諸島の歴史』(1624)のほか、新植民地の紹介に関する著書が多い。
[池本幸三]
スミス(David Smith)
すみす
David Smith
(1908―1965)
アメリカの彫刻家。インディアナ州ディケーターに生まれる。オハイオ大学、アート・スチューデンツ・リーグなどで学ぶ。最初は絵画を制作したが、1930年ころピカソとゴンザレスの影響から絵画にさまざまな物体を使用するようになり、彫刻に転じた。33年からは鉄の溶接を用いた彫刻を始め、60年代には確固とした独自の抽象的作風に到達している。構成主義の影響から簡素で頑強な空間構成による抽象彫刻を発展させたが、65年バーモント州ベニントンで没した。
[石崎浩一郎]
スミス(Bessie Smith)
すみす
Bessie Smith
(1894―1937)
アメリカのブルース歌手。テネシー州生まれ。少女時代に「ブルースの母」とよばれるマ・レイニーに認められ、教えを受けて世に出た。堂々たる声の持ち主で、その歌唱は素朴だが心を打つ説得力があり、気品を感じさせる。1923年からレコードでも活躍し、10年間に160曲を録音。北部のジャズメンにブルースの精神を伝え多大の影響を及ぼし、いまも「ブルースの皇后」と称されている。
[青木 啓]