パーニーパットの戦い(読み)パーニーパットのたたかい(その他表記)Battle of Pānīpat

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パーニーパットの戦い」の意味・わかりやすい解説

パーニーパットの戦い
パーニーパットのたたかい
Battle of Pānīpat

インド,デリー北方約 80kmのパーニーパットで,1526年4月 21日,56年 11月5日,および 1761年1月 14日の3次にわたって行われた戦い。第1次は,バーブルのムガル軍とデリーのスルタン・イブラーヒーム (在位 1518~26) のロディー朝軍との間の戦い。イブラーヒームは殺され,ロディー朝は滅亡。バーブルによるムガル帝国が創始された。第2次はフマーユーンの死後,ムガル帝国の武将バイラム・ハーンとアフガン勢力の武将ヒームー (ヒンドゥー教徒) との間で戦われた。ムガル軍の勝利に終り,アクバルの皇帝位を強固ならしめた。第3次は名目的主権を有するのみとなったムガル皇帝に代るデカンの強大なマラータ勢力とアフガン勢力との間に行われた戦い。マラータは敗退の結果,北インドより引揚げた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パーニーパットの戦い」の意味・わかりやすい解説

パーニーパットの戦い
ぱーにーぱっとのたたかい

インドのデリー北方、パーニーパットPānīpatで戦われた数度の戦争をいう。有名なものは二つある。一つは1526年の戦いで、中央アジアからアフガニスタンを経て、北インドに侵入したムガル帝国の初代皇帝バーブルと、ローディー朝との間に戦われた。これに勝ったバーブルは、北インド一帯に勢力を確立した。

 もう一つは1761年の戦いで、デカン高原本拠として成長したマラータ勢力が北上して、ムガル帝国の実権を奪い取ろうとしたのに対し、それに対抗する諸勢力がアフガン系諸勢力と結んだうえ、アフガニスタン王アフマド・シャー・ドゥッラーニーの来援を要請したため、二大勢力の決戦が行われた。マラータ軍は壊滅的に敗れて後退した。インドを統一する大勢力になるかとみえたマラータの勢力は、この敗北によって、一時的に弱体化せざるをえなかった。

[小谷汪之]

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