デジタル大辞泉 「ペン」の意味・読み・例文・類語
ペン(pen)
2 文章を書くこと。文筆活動。また広く、言論活動。「
[類語]万年筆・付けペン・硬筆・鉄筆・ボールペン
アメリカの俳優、映画監督。カリフォルニア州サンタ・モニカ生まれ。父親レオ・ペンLeo Penn(1921―1998)は舞台演出家、母親アイリーン・ライアンEileen Ryan(1927― )は女優と芸能一家に生まれ、弟のクリストファー・ペンChristpher Penn(1966―2006)も俳優。サーフィンなどに熱中する10代を過ごしたが、サンタ・モニカ高校卒業後、演劇学校ロサンゼルス・グループ・レパートリー・シアターに2年間研修生として在籍。本格的に演技にのめり込むようになったきっかけは、後に彼が監督する映画で主演を務める俳優ジャック・ニコルソンから彼のアクターズ・スタジオ時代のクラスメイトだったペギー・フューリーPeggy Feury(1924―1985)を紹介されたことで、ペンは、彼女が設立した「ロフト・スタジオ」に入り浸って演技指導を受けるようになった。
俳優としての映画デビュー作は『タップス』(1981)。その後も実力派の若手俳優として映画や舞台でキャリアを重ねるが、1985年に当時人気の絶頂にあった歌手のマドンナと結婚。彼女を追いかけまわすマスコミへの暴力的な行動が、格好の記事の題材を提供する悪循環に陥り、トラブルメーカーとの烙印(らくいん)を押された。結局、1989年に2人は離婚。その後、『ステート・オブ・グレース』(1990)で共演した女優のロビン・ライトRobin Wright(1966― )と1996年に結婚したが、2010年に離婚した。
マドンナとの離婚後の私生活および精神的な混乱のなか、監督業に進出、最初の監督作品『インディアン・ランナー』(1991)を発表。ロック・シンガー、ブルース・スプリングスティーンの曲「ハイウェイ・パトロールマン」に触発されて自ら書き下ろした脚本に基づいて兄弟間の葛藤を描くこの作品でペンは、ジョン・カサベテスやハル・アシュビーHal Ashby(1929―1988)ら、商業主義から袂(たもと)を分かつ、妥協を許さない、アメリカの優れた少数のインディペンデント映画作家の系譜に連なろうとする意志をあらわにした。
一時は監督業に専念するために俳優業から撤退すると宣言したペンだが、俳優としての地位を揺るぎなくする充実した仕事がその後も継続されてきた。代表作をあげると、ブライアン・デ・パルマ監督作品『カリートの道』(1993)、監獄で死刑執行を待つ囚人を演じてベルリン国際映画祭で最優秀主演男優賞を受けたティム・ロビンスTim Robbins(1958― )監督作品『デッドマン・ウォーキング』(1995)、カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞したニック・カサベテスNick Cassavetes(1959― )監督作品『シーズ・ソー・ラブリー』(1997)、娘の養育権を奪い返すために立ち上がった知的障害のある父親を演じて注目を集めたジェシー・ネルソンJessie Nelson監督『I am Sam アイ・アム・サム』(2001)などがある。一人娘を何者かに殺害されて復讐(ふくしゅう)に燃える父親を演じたクリント・イーストウッド監督作品『ミスティック・リバー』(2003)では、四度目のノミネートにしてついにアカデミー主演男優賞に輝き、メキシコのアレハンドロ・ゴンザレス・イニリャトゥAlejandro Gonzalez Inarritu(1963― )監督作品『21グラム』(2003)でもベネチア国際映画祭最優秀男優賞を獲得するなど、俳優としてのキャリアは早くも円熟期を迎えた。
その一方で、彼の映画監督としての仕事も寡作ながら充実したフィルモグラフィーを形成している。第二作『クロッシング・ガード』(1995)では、交通事故で娘を失った痛手から立ち直ることができず、家族を崩壊させたジャック・ニコルソン演じる男性が、復讐を期して出所してきた事故の当事者を追跡する模様を描くもの。第三作『プレッジ』(2001)で、やはりニコルソン演じる元刑事が、未解決に終わった(と彼が信じる)事件の真犯人を強迫観念に導かれるかのように追跡する行程が前作から継承され、ペンが映画作家として一貫した主題――何らかの妄想にとりつかれた存在が、そこからの解放を目ざして繰り広げる迷走や闘争――を追求していることがうかがい知れる。また、2001年9月11日にアメリカを襲った同時多発テロをめぐって世界各国の11人の映画監督が競作したオムニバス映画『11' 09'' 01/セプテンバー11(イレブン)』(2002)にもアメリカ人監督としてただ1人参加した。
[北小路隆志]
インディアン・ランナー The Indian Runner(1991)
クロッシング・ガード The Crossing Guard(1995)
プレッジ The Pledge(2001)
11' 09'' 01 セプテンバー11~「アメリカ編」 11'09'01 - September 11 - USA(2002)
イントゥ・ザ・ワイルド Into the Wild(2007)
アメリカの写真家。ニュー・ジャージー州生まれ。フィラデルフィア美術大学在学中から、高名なアート・ディレクターであるアレクセイ・ブロドビッチAlexey Brodovitch(1898―1971)の下で『ハーパーズ・バザー』Harper's Bazaar誌で働く。初めて同誌に掲載された靴のイラストの原稿料でペンはローライフレックス・カメラ(ドイツ、ローライ社の二眼レフカメラ)を購入し、ニューヨークの街を撮りはじめた。1938年、同大学卒業後、フリーランスの時期を経て、グラフィック・アーティストとしてビバリー・ヒルズのサックス・フィフス・アベニュー・デパートでブロドビッチとともに働いた。その後、1942年メキシコで絵画に没頭した1年を過ごした後、アート・ディレクターのアレグザンダー・リーバーマンAlexander Liberman(1912―1999)に誘われ、1943年から彼のアシスタントとして『ボーグ』誌で働く。ペンが写真家としてのキャリアを築くのは、『ボーグ』誌で働きはじめてすぐのことである。ペンはリーバーマンから『ボーグ』の表紙をまかされ、さまざまなアイデアを当時の『ボーグ』の写真家たちにもっていった。『ボーグ』で活躍していたのはホルスト・P・ホルストHorst P. Horst(1906―1999)やアーウィン・ブリューメンフェルドErwin Blumenfeld(1897―1969)、セシル・ビートン等々、ファッション写真史に名を残すそうそうたる写真家たちであった。しかし彼らは若いアシスタントの相手をするには忙しすぎた。困ったペンが相談したリーバーマンの提案は、それではペン自身が撮影すればいいだろう、というものであった。ファッション写真家、アービング・ペンの誕生である。
当時のファッション写真の主流は、モデルをヒロインに見立て、何らかのストーリーを喚起させるような大がかりな舞台的演出に、ドラマティックな効果を狙ったライティングによる写真であった。対してペンは自然光に近いタングステン・ライトを使い、ストーリーではなく、被写体そのもののもつ線や質感、色や形を際立たせて存在感を伝える、シンプルで洗練されたライティングを施した。リーバーマンは後にこうしたペンの写真の特徴を「冴えた静謐(せいひつ)感」と呼んでいる。『ボーグ』の表紙を初めて手袋やバック、スカーフといった静物だけの写真が飾ったのは1943年10月1日号、ペンによる最初の表紙写真であった。その後彼は、表紙の写真を165回担当するが、興味を徐々にポートレートに移していった。
彼の被写体は、静物、ファッション、有名人のポートレート、ヌード、ストリート、花、煙草の吸殻、アフリカやオーストラリアの小部族の人々など多岐にわたっているが、その一つ一つがほかの誰の作品ともまごうことない彼独自の世界に昇華されているのである。
ペンの写真を特徴づけるのは、ライティングであり空間構成である。それは1948年に制作された彼の初期のポートレートによく表されている。モデルになったのは作家トルーマン・カポーティ、画家マルセル・デュシャン、画家ゲオルク・グロッス、ボクサーのジョー・ルイス、画家チャールズ・シーラー、オートクチュールを着たモデルたちといった、時代の寵児たちである。彼らはペンのスタジオで、古びた二面の可動壁で囲まれた隅に押し込まれて窮屈げに所在なげに立っている。被写体の功績を示唆するような、絵だとか本、机といった小道具は一切ない。時代の花形である彼らの存在、彼らが着ている高価な背広やオートクチュールと、スタジオの空間のそっけなさが好対照をなして、被写体の生の存在感を際立たせている。それは「孤独なポートレート」と呼んでもいいような写真である。
彼の作品は、ファッション写真からヌード、静物、ポートレートなど多くの分野に及ぶ。ペンは、写真の視覚を飽くことなく探究した完璧主義者である。
[笠原美智子]
『Irving Penn; A Career in Photography (1997, Little Brown, Boston)』▽『Still Life (2001, Little Brown, Boston)』▽『Dancer (2002, Nazräli Press, München)』▽『Maria Morris Hambourg ed.Earthy Bodies; Irving Penn's Nudes, 1949-1950 (2002, Little Brown, Boston)』▽『「アーヴィング・ペン自選展」(カタログ。1997・ウイルデンスタイン東京)』▽『コリン・ウェスターベッグ編、三宅一生ほか著「アーヴィング・ペン全仕事」(カタログ。1999・東京都写真美術館・朝日新聞社)』
筆記具の一種。鋼ペン先のことで、ペン軸に取り付けて液体インキを含ませ、文字などを書写する。ラテン語のpenna(鳥の羽)が語源である。
[野沢松男]
古代エジプトでアシの茎でつくったペンを用いたのが最初といわれる。ヨーロッパではガチョウの羽の先端を斜めにカットし、切れ目を入れてペンに用いた。現在のような鋼ペン先は18世紀に入ってからで、1780年にイギリスの金具師サミュエル・ハリスンが初めて一種の鋼ペンをつくったが、1830年に同じくイギリスのジェームス・ペリーが、現在の基礎をなす鋼ペンをつくり、機械で大量生産を行ってから一般に用いられるようになった。日本には1872年(明治5)にインキとともに輸入され、文明開化の波にのって一部の知識階級に普及した。国産のものは1902年(明治35)石川徳松が製造したのが最初である。しかし、筆記具が多様化した現在、ペンはあまり使われなくなった。
[野沢松男]
日本の鋼ペンは当初イギリスから輸入されていたため、その形状の基本はイギリス製品と類似している。また最近では、製品の幅も特殊用途のものへと広がり、種類も多岐にわたっている。一般に多く用いられているものを大別すると、次のようになる。(1)さじペン(タマペン、スプーンペンともよばれる) 一般筆記に用いられる。(2)日本字ペン 縦書きの日本文字を書くのに適した日本独特のペンで、一般の鋼ペンに比べ弾力性に富み、書写時の力の入れぐあいによって太い線、細い線が自由に書ける。(3)Gペン 英字を書く場合に用いられるもので、縦方向に書くと太く、横方向では細い。アルファベットが美しく書ける。(4)スクールペン 学生用で、ノート書きに適し、細くて美しい線が書ける。(5)銀行ペン 細書き用で、帳簿記入などに適している。(6)その他 特殊用途として、ラウンドペン、鉄道ペン、楽譜ペン、製図用ペン、丸ペンなどがある。そのほか、インキの補給回数を少なくするために考案された、ペン先のインキ含有量を多くするような構造をもたせたリザーボアペンもある。
[野沢松男]
材質は特殊鋼を用いたものが多く、表面処理にはニッケル、クロム、銅などのめっきが施されている。製造方法は、特殊鋼を自動プレス機によって打ち抜き、それに丸みをつけてペン形状にしたものを高熱で二度焼きし、地金にほどよい弾力性をつける。表面を研磨したのち、先端の弾性を加減するために、その先端の厚みを薄くする。次に先端を二等分して先切りを行い、ペンによっては先端の紙当たりの部分の丸みをつけるなどの加工をしたのち仕上げ磨きをし、めっき処理を行ってできあがる。購入時には、ペン先端を押し当てたとき左右等分に開くものを選ぶとよい。
[野沢松男]
アメリカの映画監督。フィラデルフィアに生まれる。演劇活動に長らく従事したあと、テレビ・舞台の演出家となる。1958年『左きゝの拳銃(けんじゅう)』で映画監督デビュー。『奇跡の人』(1962)、『逃亡地帯』(1966)を経て、1967年、不況時代を背景にした無法者男女の物語『俺(おれ)たちに明日(あす)はない』(原題「ボニーとクライド」)を発表、アメリカ社会における暴力の意味を問いなおすとともに、その鮮烈な描写と新鮮な感覚によって「アメリカン・ニュー・シネマ」の口火を切った。その後『小さな巨人』(1971)、『ミズーリ・ブレイク』(1976)など。
[宮本高晴]
左きゝの拳銃 The Left Handed Gun(1958)
奇跡の人 The Miracle Worker(1962)
逃亡地帯 The Chase(1966)
俺たちに明日はない Bonnie and Clyde(1967)
アリスのレストラン Alice's Restaurant(1969)
小さな巨人 Little Big Man(1970)
時よとまれ 君は美しい ミュンヘンの17日~「最も高く」 Visions of Eight - The Highest(1973)
ナイトムーブス Night Moves(1975)
ミズーリ・ブレイク The Missouri Breaks(1976)
フォー・フレンズ 4つの青春 Four Friends(1981)
ターゲット Target(1985)
冬の嵐 Dead of Winter(1987)
ペン&テラーの 死ぬのはボクらだ!? Penn & Teller Get Killed(1989)
キング・オブ・フィルム 巨匠たちの60秒 Lumière et compagnie(1995)
アメリカ、ペンシルベニア植民地の創設者で、熱心なクェーカー教徒。父は、クロムウェルに仕え、チャールズ2世の王政復古にも協力した有名なイギリスの海軍提督。イギリスにいたとき、急進的信仰のゆえにオックスフォード大学を追われたが、執筆や説教活動を続けた。父の死後、1681年、国王よりペンシルベニア開拓の特許状を獲得。同地を宗教の自由の実践地だけでなく、社会的、政治的に不遇な人々のための避難所とした。同地へのペンの投資、土地の廉価な売却、豊かな生産力、国王の寛大な特許状、インディアンとの友好関係などの条件も加わり、同植民地は発展した。数多くの書物やパンフレットを著し、自由のために努力したが、本国の政情の変化や負債のため、晩年は不幸だった。
[野村文子]
『今津晃著『アメリカ革命史序説』(1960・法律文化社)』
筆記具の一つで,毛筆とならんで代表的なもの。語源はラテン語のpenna(翼,羽毛)で,もとは羽毛の軸の先にインキをつけて書くものを指した。羽根ペン,鵞ペンquillともいわれ,5世紀ころから19世紀まで使われていた。古くは文字を書くのに手の指や簡単な尖筆を用いたと思われるが,中空の管がインキを保持する点を利用して,古代エジプトではアシcalamusの茎が使用され,羽根ペンが出現して小さな字が可能になってからも,アシのペンは地中海地方に残っていた。羽根ペンの羽根は大型の鳥の翼からとり,北ヨーロッパのガチョウ,ガンを最良とし,ハクチョウ,シチメンチョウ,ペリカンなどが利用された。細字用にはカラスの羽根も使われた。一般には羽枝を切り落として羽軸だけにし,小型ペンナイフで先をとがらせて用いたが,羽根を節約するため短く分割し,ホールダーにつけるくふうも19世紀には行われた。18世紀中葉以降,ドイツのヤンセンJ.Janssen,フランスのアルヌーJ.Arnoux,イギリスのハリソンW.Harrisonが金属でペン先をつくることを始めた。すでに17世紀に銀製ペンがあったという記録もある。しかし鋼鉄ペンが大量生産で普及するようになるのは1830年ころで,同年にはペリーJ.Perryがペン先中央の割れ目の左右にも割れ目をつける特許を得ている。
日本へは1871年(明治4)ころ羽根ペンや金属ペンが輸入され,74年の大蔵省達書では,ペン,インキは必要なときは買って支給せよとあるから,短期間である程度普及したらしい。鋼鉄ペンはほとんどイギリス製だったが,97年には国産品が現れ,日本字用もつくられた。しかし,公文書のペン書きは1908年まで認められなかった。
ペンはペン先をペン軸にさして用い,用途に応じて種々の形状・筆跡のものが安価に得られるため,一般の筆記用のほか,製図用のもの,地図を描く際に2本の並行線が一度に引ける鉄道ペンなどもつくられたが,最近は他の筆記具に移行している。ガラスペンは墨汁でも使えるよう1902年に日本で考案されたもので,鋼鉄ペンと形状は異なり,ガラス棒の周囲に縦溝をつけ,先端を細くとがらせたものである。
→インキ →万年筆
執筆者:小川 伸
イギリスのクエーカー教徒の政治家,新大陸ペンシルベニア植民地の創設者。父は海軍提督。オックスフォード大学を中退,外遊後リンカンズ・インで法律を学んだが,1667年クエーカーに加わる。チャールズ2世およびジェームズ2世の知遇を得るが,クエーカーとして説教やパンフレットの著述に励み,数度の入獄にも屈せず,信教の自由と立憲政治のために闘う。70年代にウェスト・ジャージー植民地の経営に参画し,民主的統治のため憲章の作成に貢献。次いで自己の理想に基づく植民地の設立(〈神聖な実験〉)を企図し,父から相続したチャールズ2世の債務に対する代償として,81年ペンシルベニア(〈ペンの森〉という意味)の領主権を付与される。《政治の形体》を起草して82年に渡米,住民総会においてその採択をみた。この統治機構では,信教の自由など人権を尊重したが,政治的には保守的な面がのこされた。植民地滞在中(1682-84)インディアンとの友好関係の樹立やフィラデルフィア市建設計画など,広く活躍した。メリーランドとの境界問題や本国のクエーカー救済のために帰国し,名誉革命後ジェームズ2世との親交のゆえに嫌疑をかけられ,領主権を一時奪われた(1692-94)。復権後植民地を再訪(1699-1701),住民の要求をいれて民主的な〈権利の憲章〉を制定する。晩年は植民地との関係に円滑を欠き,家庭的不幸も加わり不運であった。
執筆者:大下 尚一
アメリカの写真家。ニュージャージー州プレーンフィールドに生まれる。ペンシルベニア工芸大学を卒業後,《ハーパーズ・バザー》や《ボーグ》のアート・ディレクターでR.アベドン,R.フランクなど数々の写真家を育てたA.ブロードビッチのもとでデザインを学び,1943年《ボーグ》誌のアート・ディレクターとなった。彼はそこですすめられて写真を撮り始める。ペンの写真は百数十回も《ボーグ》誌の表紙を飾っているが,これらのファッション写真は,クールで格調高いロマンティシズムに溢れたものである。またポートレートは優しいなかにも冷徹なまなざしがつらぬかれている。写真集《保存された瞬間Moment Preserved》(1961)は,彼の写真家としての仕事の全体を一望させるものである。
執筆者:金子 隆一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1644~1718
ペンシルヴェニア植民地の建設者,領主。クエーカーであった彼は宗教的迫害を受けている人々に信仰の自由を与える植民地の建設を志し,チャールズ2世に願い出てそれを実現した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
「スタイラス」のページをご覧ください。
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典ASCII.jpデジタル用語辞典について 情報
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