翻訳|pound
イギリスの通貨単位。同国のほか、キプロス、エジプト、レバノン、シリアの5か国が同名の呼称を使っているが、通常ポンドというときは、英ポンドすなわちポンド・スターリングpound sterlingを意味する。補助通貨単位はペニーpenny(複数形はペンスpence)で、1971年2月以降、1ポンド=100ペンスという十進法をとっている(それまでは、1ポンド=20シリングshilling=240ペンスであった)。
ポンドの語源は、ローマ時代の重量単位リーブラlibraであり、ポンドを示す£またはlbはこのことばからきている。イギリスの貨幣は当初ペニーとよばれる銀貨であったが、これは重量1ポンドの銀から240個つくられていた。この重量単位であるポンドが、イギリスの伝統的な本位とされたのである。
[原 信]
17世紀にギニー金貨が鋳造されるようになり、銀貨と並んで無制限法貨の資格が与えられたので、イギリスは金銀複本位制に入ることになった。しかし、18世紀になると、銀の騰貴によって銀の流出と金の流入が続き、銀貨がしだいに流通から姿を消すに至ったため、イギリスは1816年に金本位制を法制化し、1821年から実施に移した。1ポンド=金123.274グレーン、純金1オンス=3ポンド17シリング10ペンス半が金平価となり、新たにソブリン金貨が鋳造されることとなった。
19世紀はイギリスが世界の政治・経済に覇を唱えた時代であり、ポンドは国際通貨として、国際決済や公的準備に広く使用され、ロンドンは国際金融の中心地となった。もっとも早く産業革命を成し遂げたイギリスは、世界の工場として、原料供給国との貿易関係を通じて経常黒字を累積し、これを長期貸付や投資によって海外に還流させた。ポンドに対する信任と、イングランド銀行の金利政策による資本流出入の調整策に支えられて、国際金本位制が安定的に維持された。
[原 信]
第一次世界大戦後、イギリスの地位は後退し、ポンドは国際通貨としての地位を米ドルやフランス・フランと分かつようになった。イギリスは1925年、戦後しばらく停止していた金本位に旧平価で復帰したが、ポンドの過大評価と、世界恐慌の到来で維持できなくなり、1931年についに金本位を放棄した。
これによって当時の国際通貨体制であった国際金為替(かわせ)本位制は崩壊し、為替変動期を迎えた。イギリスは1932年に為替平衡勘定を設立、為替の安定化に努める一方、大英帝国の版図を活用してポンド・ブロック(スターリング地域)を結成、地域的国際通貨としての地位の維持を図った。
[原 信]
第二次世界大戦後、ポンドの国際通貨としての地位は急速に低下した。それはイギリスの国際政治・経済的地位の低下に伴うものであり、また、戦時中蓄積された非居住者のもつ巨額のポンド残高が大きな圧力となった。
イギリスはすでに1939年に為替管理を導入していたが、第二次世界大戦後もこれを継続し、ポンド保有者をポンド地域、非ドル地域、ドル地域の三つに分け、前二者に対してポンドの米ドルへの交換性を制限した。
国際通貨基金(IMF)に登録されたポンド平価は、1ポンド=3.58134ドルであった。1947年7月、イギリスは前記の交換性を回復したが、それと同時にポンドの米ドルへの交換要求が殺到し、6週間後にはふたたび制限せざるをえなかった。それから2年後の1949年、国際収支悪化のため、平価を1ポンド=2.80ドルに切り下げた。
1958年には、他のヨーロッパ主要国とともに、非ドル地域保有ポンドの交換性を回復した。しかし、ドル不安を背景とする主要通貨の為替平価調整の機運が高まるなかで、生産コストの上昇による国際競争力の低下に悩むイギリス経済を反映して、ポンドはしばしば切下げ不安をはやす投機にみまわれ、バーゼル協定(1961年)などによる国際的支援も奏効せず、1967年にはふたたび、1ポンド=2.40ドルに平価切下げを行った。
その後ドル不安の進むなかでイギリスは対外収支を改善、1971年のスミソニアン協定では1ポンド=約2.60ドルに切り上げられたが、弱体化したイギリス経済はこの平価に耐えられず、1972年平価を放棄して変動相場制に移行した。それとともに、為替管理上のポンド地域を大幅に縮小、ここにポンド・ブロックは実質的に解体し、ポンドは事実上一ローカル通貨にすぎなくなった。
[原 信]
イギリスは1973年にヨーロッパ共同体(EC)に加盟したが、ヨーロッパの共同変動相場制(いわゆるスネーク)に対して発足後すぐに離脱、1979年に発足したヨーロッパ通貨制度(EMS)の為替相場機構(ERM)にも参加しなかった。しかし1990年10月、英ポンドは中心相場に対して上下6%の変動幅でERMに参加し、マーストリヒト条約の調印(1991年)により、ヨーロッパ通貨統合(EMU)への参加の道を開いた。1992年9月ヨーロッパ通貨危機に際し、英ポンドは投機筋の標的となって売り浴びせにあい、対マルク相場が大幅に下落して、ERMを脱退した。
1993年11月マーストヒリト条約発効によりECはヨーロッパ連合(EU)に発展。1999年1月よりEU加盟15か国中11か国でEMUが発足し、各国で決済通貨として統一通貨ユーロが導入された(一般流通は2002年)が、イギリスは導入を見送った。
2003年6月、イギリス政府の財務相であったブラウン(後に首相)は、
(1)ユーロ金利とイギリスの景気循環と経済構造が共存できるか
(2)ユーロ体制が経済的ショックに柔軟に対応できるか
(3)イギリスへの長期投資に有利か
(4)イギリスの金融サービス業の競争力に有利か
(5)参加後経済成長、安定性、雇用改善が可能か
というユーロ参加条件を公表し、(4)以外はすべて否定的と判断した。野党の保守党は反対で、一般の国民感情としても、栄光あるポンドに執着する人も多いと思われる。
かつての国際通貨としての役割はなくなったが、英ポンドが公的準備として保有されている比率は約5%あり、かつての円の地位をやや凌駕(りょうが)している。為替取引の一方の相手となる比率も15~16%で円と拮抗(きっこう)している。そして現在、一日平均3兆ドルが取引されるという世界の為替市場でロンドンはその35%弱を占め、アメリカ市場の倍の取引がなされ、世界最大の市場となっている。もしポンドがユーロ圏に参加すると、取引の一方がユーロである比率は約50%となり、米ドルの88%に大きく近づくことになる。
ロンドン市場はすでに1979年に為替管理を全廃、ユーロ市場(外国通貨の市場)は、国内市場と一体化し、さらに1986年には従来弱小であった証券業者に外部ないし外国資本を入れて強化し、業務上の制約を撤廃してロンドンの国際資本市場的機能を活発化した(金融市場のビッグバンといわれる)。ユーロ圏からみるとこのような市場が圏内に入ることは大きな意義がある。しかしこのような発展の行きすぎが当面の世界金融危機を招いたこともあわせて考えられなくてはならない。
[原 信]
さかのぼって英ポンドの為替相場を振り返ってみよう。ブレトン・ウッズ体制崩壊後、オイル・ショック(石油危機)による経常赤字や高いインフレ率から、対米ドルおよび貿易額による加重平均の実効相場でも下落を続けたが、1970年代後半から回復。アメリカの不況、インフレーション、経常赤字によるドルの落潮(下落の傾向)に乗り、また、1980年代に入り北海油田による石油輸出国への転換もあり、ポンド=2.3ドル台まで戻した。
しかしその後、アメリカの高金利が主因となり、大幅な経常赤字にかかわらず米ドルはポンドなど主要通貨に対して上昇し、1985年平均でポンドは1.3ドルとなる。
同年の先進5か国による「プラザ合意」によりドル高は調整され、ポンドも上昇し、イギリスは1990年には前記のようにERMに加盟、同年末のポンド相場は1.92米ドルに達した。しかし、1992年秋のERMの危機で英ポンドは大幅に下落してERMを脱退、同年末には1.51米ドルとなった。
1990年代前半のポンドは経常赤字、および金利の面で対米ドルおよび実効相場は低迷した。しかし後半から金利の上昇や対外収支の改善で、とくに1997年以降実効ベースで水準を高めた。それ以後2000年代中ごろまで安定した推移をみせてきた。
とくに米ドルに対しては強く、2007年秋以降の金融危機にも上昇を続け、2ドルを超える水準に達した。しかし金融危機の影響がイギリスでも大きく、問題は影響を受けた世界の金融機関に当面の流動性ドル資金を供給すること、すなわち「ドル不足」の解消にあるということで、2008年9月以降ドル相場の全面高となり、ポンドも大きく下落した。
21世紀初めのイギリスの経済運営は比較的良好であったが、経常収支の赤字が年々拡大し、それを海外からの証券投資や借入れでまかなっており、規模はかなり違うが、アメリカとパターンは同じである。しかし貿易依存度は大きく、とくにその半分はユーロ圏である。それを考えると、ユーロとの相場安定あるいはユーロ圏への参加が有利という結論になる。
2009年3月末の時点で、ポンド相場は1.42ドル、1.08ユーロ、そして140円の水準にある(
)。[原 信]
『R・ヌルクセ著、村野孝・小島清訳『国際通貨』(1953・東洋経済新報社)』▽『R・F・ハロッド著、塩野谷九十九訳『貨幣』(1974・東洋経済新報社)』▽『S・ストレンジ著、本山美彦他訳『国際通貨没落過程の政治学――ポンドとイギリスの政策』(1989・三嶺書房)』▽『片桐幸雄著『国際通貨問題の課題』(1996・批評社)』▽『奥田宏司著『両大戦間期のポンドとドル――「通貨戦争」と「相互依存」の世界』(1997・法律文化社)』▽『米倉茂著『英国為替政策――1930年代の基軸通貨の試練』(2000・御茶の水書房)』▽『金井雄一著『ポンドの苦闘――金本位制とは何だったのか』(2004・名古屋大学出版会)』
ヤード・ポンド法単位系の質量の単位で、基本単位。記号はlb。大きさは国によりわずかずつ異なっていたが、1959年、アングロサクソン系諸国の協定によって、1ポンドは0.45359237キログラム(国際ポンド)に統一された。記号はポンド相当単位の古名libraからきている。日本の1ポンドは計量法施行法によって0.45359243キログラムとされていたが、これは1909年(明治42)ヤード・ポンド法の使用を認めたとき、アメリカの値をとったままになっていたからである。計量単位令の改正によって、1993年(平成5)より国際ポンドに変更された。
イギリスには古くから2種のポンドがあり、一つは7000グレーンの常用ポンドavoirdupois poundで、もう一つは貴金属や宝石用の5760グレーンのトロイポンドtroy poundで、日本では「金衡」と書かれる。1879年、イギリスは常用ポンド一本立てにしてトロイポンドを廃止したが、アメリカではなお公定されており、国際市場ではこの12分の1のトロイオンスが金銀の取引に広く用いられている。
[小泉袈裟勝]
イギリスおよびキプロス共和国,レバノン共和国の通貨単位。ふつうポンドといえばイギリスの通貨のことをいい,正式にはポンド・スターリングpound sterlingという。補助通貨単位はペニーpenny(ペンスpenceはペニーの複数形)で,1ポンド=100ペンスである。1971年2月13日までは1ポンド=20シリングshilling=240ペンスであった。
ポンドの歴史は8世紀にまでさかのぼる。当時のアングロ・サクソン時代にはスターリングとかペニーと呼ばれていた銀貨が鋳造されていた。そして重量1ポンドの銀からその銀貨240枚が鋳造された。また多額の支払の際にはpound of sterlingsという計算単位が用いられた。ポンド・スターリングの呼称はこれに由来するという。ノルマン人もイギリスへの進入後,この銀貨を継承し,古代ローマの度量衡や貨幣の単位であるリブラlibra,ソリドゥスsolidus,デナリウスdenariusをそれぞれポンド,シリング,ペニーに対応させ,1ポンド=20シリング=240ペンスとした。ポンド,シリング,ペニーの略称である£(またはlb),s,dはそれぞれlibra,solidus,denariusからきている。その後1663年にチャールズ2世がギニーguineaと呼ばれる新しい金貨を鋳造し,公式にその価値を1ポンドとした。すでに13世紀半ばころからヨーロッパでは金貨と銀貨が流通していたが,金と銀の市場比価と貨幣1単位が含む金と銀の量目である法定比価との間に差が生まれると,金銀はそれぞれ有利な国に流れることになる。17世紀以降イギリスの法定比価は金に有利であったため,大量の金がイギリスに集中した。とくに1774年イギリスが銀貨を事実上本位貨幣としては認めない措置をとったことも手伝って,18世紀末すでに金の優位は決定的になった。イギリスが1816年金本位制を法制化(リバプール卿の鋳貨法ともいわれる)し21年これを実施したとき,それまで続いた金と銀との複本位制の歴史は終止符を打ったといってよい。このとき1663年以来使用されてきたギニー金貨に代わって,1817年新たに20シリングのソブリン金貨sovereignが登場した。このとき金1オンスの公定価格は3ポンド17シリング10ペンス半とされた。
ところでイングランド銀行は,ウィリアム3世の対フランス戦争の戦費調達機関として1694年創設されたが,同行創設以降,イギリスの貨幣的流通手段は(一部には補助硬貨と地方銀行券が存在したが)イングランド銀行券とギニー金貨である。1793年勃発したフランスとの戦争は好況の頂点にあったイギリス経済を襲い,金融パニックによりイングランド銀行に対する金の取付けが相次いだ。その後たび重なる国際収支の悪化が信頼の喪失につながり,ついに97年イングランド銀行は金支払の停止に踏み切った。この措置は,戦争による貿易の障害,1799-1800年の農業不作によって長びいたが,その間枢密院に設置された〈鋳貨事情の研究とその改善〉に関する委員会は,イングランド銀行の保有する金地金の量が著増したこと,1816年には金の打歩が1%以下にまで縮小したことを好材料に金兌換(だかん)の準備を始め,試行錯誤の末ついに金単本位制が成立したのである。
ポンドが19世紀に国際通貨として確固たる地位を築いたのは,ポンドが金本位通貨であっただけでなく,イギリス経済が〈世界の工場〉〈世界の銀行〉の役割を果たしたからである。イギリスは世界で最も早く産業革命をなしとげ,近代工業製品の輸出,食糧・原材料の輸入を通じて世界経済の成長の原動力となった。加えてロンドンに形成された国際商品市場と国際金融市場(シティ)は,証券投資のほか輸出入決済をポンドで行うことを至便にしたので,世界各国はいずれもポンド残高をもつ必要に迫られた。しかもポンドがいかなる通貨とも無制限に交換可能であり,金の裏付けによって価値が安定していたから,ポンドを基軸とする国際金本位制の形成は当然の帰結であった。イングランド銀行は,イギリスの国際収支が黒字となり金が流入するときには金利を引き下げて資本輸出を促進し,逆に赤字のときは金利引上げ政策によってポンド建貸付資本の還流を刺激した。世界はポンドを基軸にした金本位制のルールによって内外均衡を自動的に保証することができた。
しかし第1次大戦によるイギリス経済の消耗と巨額の海外資産の喪失は,ポンドの地位を急速に低下させた。これに代わってアメリカは貿易黒字とその結果として巨額の金の蓄積を実現し,ドルをポンドにまさる国際通貨とすることに成功した。とくに1923年,公開市場政策により大量に流入した金を不胎化して以降,金は非貨幣化され世界はドル本位制に向かって大きく転回したのである。しかるにイギリスは25年,かつてのポンドの威光を信じて金本位制への復帰を強行したが,イングランド銀行の金利政策は実質的にはアメリカ連邦準備局(FRB)のそれに従わざるをえず,加えてヨーロッパ大陸の信用恐慌の圧力が重くのしかかり,ついに31年金本位制を離脱した。離脱後のポンドは金本位制時代の平価を大きく下回り,その結果イギリスの国際収支は大不況下でも大幅に改善した。同時にイギリスはポンドの国際通貨としての地位を保持するために為替平衡勘定を設置し,自国通貨をポンドとリンクしているスターリング地域との結合を深めた。32年のオタワ協定はその具体化である。1930年代のポンドは,このように管理通貨となったものの,広大なスターリング地域を基盤に国際通貨性を維持することができた。
第2次大戦はイギリス経済に対し第1次大戦以上の打撃を与えた。巨額の戦費を調達するために,海外資産の処分と国内資本の食いつぶしのほかに対外負債の重荷が加わった。対外負債の相手はアメリカであり,当然のことながら大量の金・ドルがアメリカに移動しただけでなく,巨額のポンド債務を累積することになった。これがいわゆる〈ポンド残高問題〉であり,第2次大戦後のポンドに苦難の道を用意したのである。第1に,戦前は対アメリカ貿易で出超傾向を維持していたスターリング地域が逆に入超を続けることになったため,イギリス本国がみずからの金・ドル準備でこれを補塡(ほてん)せざるをえなくなった。第2に,ポンドの信認低下を象徴するかのように,1946年7月15日(それは〈イギリス・アメリカ金融協定〉の発効日であった)ポンドのドルへの大量逃避が発生し,ついに8月20日ポンドの交換性が停止され,ポンドの凋落を世界的に印象づけることになった(ポンド危機)。ポンドの将来に対するこうした悪材料は当然ポンド切下げ期待を強める。しかもイギリス(スターリング地域全体)のドル収支はいっこうに改善されず,イギリスの金・ドル準備が危機的水準に陥るに及んで,49年9月18日1ポンド=4.03ドルから2.80ドルへ30.5%に及ぶ平価切下げが実施された。アメリカの景気回復による所得効果もあるが,大幅切下げの価格効果によってイギリスの貿易収支は一時的に改善した。しかしそれでポンドの国際的信認が回復されたわけではない。52年にはイギリスは早くも戦後第3回目の国際収支危機に見舞われたからである。とはいえポンドの苦難の道も厳しいディスインフレーション政策によって曙光を見いだし,54年には管理ポンドから制限つきながら自由ポンド(非居住者保有ポンドによる金の購入)へ転化する可能性がでてきた。
スターリング地域を擁するイギリスにとって,ポンドが国際通貨として重用されることが何よりも望ましい。しかしそのことはスターリング地域全体の国際収支の変化が直接イギリス経済に影響を与えることに,イギリスが耐えられなければならない。その意味でポンド再建の鍵はスターリング地域といかなる結合関係を維持するかにかかっていた。58年ヨーロッパ経済共同体(EEC)がフランス,西ドイツなど6ヵ国で形成されたとき,イギリスはこれに加盟せず,みずからが中心となってヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を形成したのも,スターリング地域との補完的貿易関係を考慮したからである。しかしそれもポンドの基盤強化とはならず,同じ58年末,大陸西ヨーロッパ諸国とともに通貨の交換性回復に踏み切った後でも,いわゆるストップ・アンド・ゴー政策によってポンドの価値を維持するのがやっとであった。むしろ67年秋の第2回目の平価切下げ(1ポンド=2.80ドルから2.40ドルへ14.3%)に象徴されるようにポンドの国際通貨性は明りょうに衰退し,72年イギリスはついにヨーロッパ共同体(EC)に加盟することによって実質的に一欧州国家となった。そしてポンドも変動相場制に移行した。
執筆者:島野 卓爾
ヤード・ポンド法の質量の単位。常衡,トロイ衡,薬衡の別があり,現在は常用ポンドを基本単位とし,他の2衡のポンドは\(\frac{1}{7000}\)常用ポンドのグレーン(gr)から導かれる。常用ポンドの大きさは従来国によって異なっていたが,英語圏諸国の主要標準機関の協議により〈国際ポンドinternational pound〉が採用され,1959年7月以降,実効上これに統一されている。その大きさは国際キログラム原器に基づいて定義され,厳密に,0.453 59237kg,すなわち453.592 37gに等しい。通常,常用ポンドを単にポンドという。単位記号はlbまたはlb avであり,lbはラテン語の単位名libra(e)に由来し,avはavoirdupoisの略である。おもな分量単位,倍量単位は,グレーンのほか,1/16lbの(常用)オンスと,2000lb avの米トン,2240lbの英トンである。トロイ・ポンドと薬用ポンドはともに5760grに等しく,約373.24gであり,単位記号はそれぞれlb tr,lb apである(trはtroyの,apはapothecaries’の略である)。なお,ヤード・ポンド法による重力単位系の力の単位〈重量ポンドpound force〉を単にポンドということがある。その大きさは,重力加速度を9.8119m/s2として,約4.45N(ニュートン)に等しい。記号はlbf,lbwである。
執筆者:三宅 史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…ヤード・ポンド法の質量の単位。常衡,トロイ衡,薬衡の別があり,現在は常用ポンドを基本単位とし,他の2衡のポンドは1/7000常用ポンドのグレーン(gr)から導かれる。常用ポンドの大きさは従来国によって異なっていたが,英語圏諸国の主要標準機関の協議により〈国際ポンドinternational pound〉が採用され,1959年7月以降,実効上これに統一されている。その大きさは国際キログラム原器に基づいて定義され,厳密に,0.453 592 37kg,すなわち453.592 37gに等しい。…
…実際問題として,三つの機能のうちの一部分だけを果たす貨幣(部分貨幣)は歴史的にみてもまれな現象であり,そのような貨幣の重要性は取るに足らない。そのような部分貨幣の例としては,植民地時代のアメリカのポンドや,最近に至るまでのイギリスにおけるギニーを挙げることができる。前者の例では,決済手段としてはスペイン硬貨が利用され,ポンドはもっぱら計算単位としてのみ用いられた。…
※「ポンド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新