アウスグライヒ

百科事典マイペディア 「アウスグライヒ」の意味・わかりやすい解説

アウスグライヒ

均衡〉〈妥協〉の意。1867年オーストリアハンガリーの間で結ばれた協定で,これにもとづきハプスブルク家の当主(オーストリア皇帝)を両国共通君主として戴くオーストリア・ハンガリー二重帝国が生まれた。1866年普墺戦争に敗れてドイツ諸邦の盟主という地位を失い,東部領域のみが勢力圏となったオーストリアと,1849年以降のオーストリア直接統治に代って国家的自立を回復できるハンガリーとの連携による。
→関連項目オーストリア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アウスグライヒ」の解説

アウスグライヒ
Ausgleich

1867年,オーストリア帝国を,オーストリア‐ハンガリー帝国に転化させた国法的協定。ハンガリー国王を兼ねる皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と,ハンガリー国民を代表するハンガリー国会の間で締結された。ハンガリーはハプスブルク家の国王のもとで独自の王国となり,オーストリア帝国とともに,外交軍事,およびそれに関連する財政のみを共通にする「二重帝国」を構成することになった。「アウスグライヒ」は「妥協」「和議」を意味するドイツ語。「和協」とも訳される。

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世界大百科事典(旧版)内のアウスグライヒの言及

【オーストリア】より

…帝位を継ぐべき息子ルドルフは心中し,妃エリーザベトはアナーキストの凶刃に倒れた。66年オーストリアは,ケーニヒグレーツKöniggrätzの戦でプロイセンに敗れ,翌67年いわゆるアウスグライヒAusgleich(妥協)を通してオーストリアとハンガリーとの二重帝国が成立し,オーストリアは軍事と外交を除くすべてを自立したハンガリーの手にゆだねた(オーストリア・ハンガリー二重帝国)。第1次世界大戦前の相対的安定期にはオーストリア・ハンガリーの経済は急速に発展した。…

【オーストリア・ハンガリー二重帝国】より

…1848年革命を鎮圧したのち〈新絶対主義〉体制をうちたて,自国内の諸民族の抑圧をはかってきたハプスブルク帝国も,59年の対イタリア戦争以来,体制の再編成を迫られた。連邦制や中央集権制などの試みの末,66年の普墺戦争の敗北を経て,決定的にハンガリーとの二重国家の形成に向かい,67年オーストリアとハンガリーのアウスグライヒAusgleich(〈妥協〉の意。ハンガリー語でKiegyezés)が成った。…

【ハプスブルク家】より

…ことに59年のイタリア独立戦争,66年の普墺戦争に敗れてイタリアとドイツから排除されると政策上も中央集権化と諸民族の連邦化との間を動揺する。ドナウ帝国の再建のために67年ハンガリーとアウスグライヒAusgleich(妥協)を行い,オーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させるが,犠牲にされたスラブ系諸民族の不満は高まる。78年ベルリン会議後のドイツ・オーストリア同盟も,ロシアとの関係を悪化させてスラブ系諸民族をロシアに近づけ,また西欧列強からも孤立してドイツへの従属を深め,オーストリア帝国主義は民族運動と帝国主義の交錯するバルカンの泥沼にはまり込む。…

【ハンガリー】より

…この戦争が,クロアチア軍,ロシア軍の援助を得たオーストリア軍によって8月に鎮圧されると,ハンガリーはクロアチア,トランシルバニアと分離されて,オーストリアの〈新絶対主義〉の支配下に入った。
[オーストリア・ハンガリー二重帝国]
 しかし,帝国内諸民族の抵抗と対イタリア,対プロイセン戦争の敗北のために帝国の再編を余儀なくされたオーストリアは,67年,ハンガリーと〈アウスグライヒ(妥協)〉を結び,ドイツ人とハンガリー人とで帝国内のスラブ諸民族を支配するオーストリア・ハンガリー二重帝国をつくった。この二重帝国のなかで地主貴族に指導されたハンガリーは,半封建的な要素を温存しつつ,急速な資本主義化を図る農業国として発展した。…

※「アウスグライヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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