精選版 日本国語大辞典 「アカデミー」の意味・読み・例文・類語
アカデミー
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広くは、高等教育機関や、科学・芸術などの専門教育機関、あるいは科学・芸術の専門家の団体としての学会、協会、研究所などをさして使われる。狭くは、科学・芸術などの諸分野の振興のために政府によって設立、庇護(ひご)され、運営されている国家的機関をさすことがある。ここでは広い意味でのアカデミーの歴史的発展を、自然科学と技術を中心に概観する。
[髙山 進]
「アカデミー」の語源は、ギリシアのプラトンが紀元前385年ごろ設立した学園アカデメイアAkadēmeiaに由来する。この学園は、アテネの城壁外、アカデモスという半神を祀(まつ)る地につくられたためその名がついた。ここでは実用的な知識ではなく、哲学者や政治家になるための原理的な知識を教えた。これと並んでアリストテレスが創設したリケイオンが有名である。最初の国立の研究所は、前3世紀初めにアレクサンドリアに設立されたムセイオンで、約100人の教授が国家に雇われ、ヘレニズム時代の学問研究の中心となった。
[髙山 進]
ヨーロッパ中世を特徴づける「アカデミー」は学院と大学である。学院(スコラschola)は8世紀にフランク王国のカール大帝(在位768~813)がつくり、以降ヨーロッパ全体に広がった。ここでは文法、修辞学、弁証法、音楽、算術、幾何、天文の7科(これをリベラル・アーツliberal artsとよぶ)が必修とされ、官吏や司祭になるための職業教育が行われた。学院の教育に満足せず、より高度な学問をしようとする人々によって、12~13世紀を頂点として、たとえばイタリアのボローニャ、サレルノ、ナポリ、フランスのパリ、モンペリエ、イギリスのオックスフォードなどに大学が創設された。大学を意味するラテン語ウニウェルシタスuniversitasは、もともと「組合」「協会」を表すことばで、ボローニャ大学などでは学生が組合を形成して教師を雇う方式をとった。大学の目標は、より高度な真理の探究にあったが、総じてギリシアの古典や教父たちの著作を詳細に検討する文献学が主流であり、これが近代の科学者によって批判されることになった。
[髙山 進]
市民社会の形成される16~17世紀、職人や商人たちは実証的で数学的な「学問」を必要とし、知識人たちによって興されつつあった「近代科学」を支持した。ヨーロッパの主要都市には「近代科学」の研究組織が数多く生まれた。もっとも早かったのはイタリアで、アカデミア・セクレトルム・ナチュラエAcademia Secretorum Naturae(1560年代、ナポリ)や、ガリレイが活躍したアカデミア・デイ・リンチェイAccademia dei Lincei(1603、ローマ)、実験研究を重視したアカデミア・デル・チメントAccademia del Cimento(1657、フィレンツェ)などがそれである。
17世紀、近代科学の中心はしだいにイギリスとフランスに移った。イギリスで先駆的な役割を果たしたのは、T・グレシャムの遺言でつくられたグレシャム・カレッジ(1580年代)であった。この学校は商人が管理し、市民は無料で英語での講義を受け、また自然に関する学問が実際的な仕事と結合されて教えられた。そしてこの公開講義に集まった人たちを中心に、1662年、王室の特許状を得て、王立協会Royal Societyが創設され、機関誌Philosophical Transactionsも刊行された。会員にはボイル、フック、ニュートン、ハリーらの科学者がおり、ニュートンの『プリンキピア』Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(1687)で最盛期に達した。フランスでは、ロバーバル(ロベルバル)Gilles Personne de Roberval(1602―1675)やガッサンディらが活躍したコレージュ・ド・フランス(1518)を経て、1666年パリに科学アカデミーAcadémie des Sciencesが創設された。会員は20名で国王から俸給を支給された。イギリス、フランスのアカデミー会員であったドイツ人ライプニッツは、両国のアカデミー同様の組織をヨーロッパ各地に普及しようと努め、その結果、プロイセンのベルリン(1700)、ロシアのペテルブルグ(1725)にアカデミーがつくられ、18世紀終わりにはヨーロッパの大半の国が科学アカデミーをもつようになった。この時代、イギリスの王立協会の場合は、科学者(当時の言い方で「自然哲学者」)のほか医者や商人、貴族の科学愛好者たちの組織であった。他の国の場合、王室によって科学者が召し抱えられており、技術的問題には関心が薄かったが、パリの科学アカデミーは王から依頼され、技術的問題を研究し、諮問する義務を負っていた。
[髙山 進]
18世紀後半から19世紀前半にかけて、イギリスは産業革命を迎え、フランスは市民革命を経過した。プロイセンはナポレオン軍に敗北したことをきっかけに改革が進められ、ドイツ国内二百数十もの領邦を超えた国民意識が芽生え、各国とも大きな変化があり、社会における科学のあり方、「アカデミー」のあり方も変化してきた。
イギリスでは産業資本家の台頭とともに、技術的課題を追究する研究組織がつくられた。有名なものに、ワットが活躍したルナ・ソサイアティ(1760ごろ、バーミンガム)、ドルトンが活躍したマンチェスター文学哲学協会(1781)、ランフォード、デービー、ファラデーらが所属した王立研究所Royal Institution(1799)などがある。
フランスでは17世紀以降、政府が科学や技術を援助してきたが、1792年9月、共和国成立が宣言され、旧体制の諸制度が廃止された。科学アカデミーも廃止され、ラボアジェも元徴税官であったという理由で処刑された。しかし革命を推進したブルジョアジーの多数は共和国建設のためには科学と技術が必要であることに気づき、高等教育機関としてのエコール・ポリテクニクをつくり(1794)、科学アカデミーも復活させた(1795)。エコール・ポリテクニクは技術学校でありながら多くの優秀な科学者を輩出し、第一級の物理学者や数学者がこれにかかわった。しかしこの勢いも1830年代には衰退した。
[髙山 進]
19世紀に科学・技術の急速な発展をみせたのはドイツであった。1809年ベルリン大学が創立され、純粋な学問が強調される一方、1821年にはベルリン実業学校がつくられ、その後もドイツ各地に工科大学が設立されて、ドイツの工学の水準を引き上げた。伝統的な大学に正規に自然科学の課程を採用したのもドイツで、1824年にはギーセン大学がリービヒの化学実験室を設けた。1822年には全国的な科学の振興と科学者の交流を目的としたドイツ自然科学研究者会議が組織された。これはその後のイギリス科学振興協会(1831)、全イタリア科学協会(1839)、アメリカ科学振興協会(1848)、フランス科学者協会(1872)などの先駆となった。19世紀後半には鉄鋼や化学工業の独占が形成され、1887年にはジーメンスWerner von Siemensの寄付を基金に国立物理化学研究所が設立され、1911年にはカイザー・ウィルヘルム協会がつくられた。その下に多くの研究所が設立された。ドイツは高等教育機関や研究所を国家管理し、それが化学戦といわれる第一次世界大戦における高水準の軍事技術の源となった。ちなみに毒ガスはカイザー・ウィルヘルム協会物理化学研究所が開発した。
アメリカでは南北戦争(1861~1865)に多くの新技術が大規模に導入されたことが契機となり、1863年、「科学技術に関するすべての問題について政府の要求にこたえて、研究、調査、実験、報告を行う」ことを任務とする国立科学アカデミーが設立された。しかしアメリカでは、企業による研究所やロックフェラー財団の大学への投資にみられるように、独占資本による研究管理が中心で、国家の役割はドイツに比べて小さかった。
明治維新を経た日本は、先進列強に追い付くために富国強兵、殖産興業の政策をとり、そのためにも学問、教育での大改革を必要とした。高等教育機関としては1877年(明治10)官立の東京大学が誕生、ここでは実用主義を中心理念に、日本の近代化に役だつ人材の育成に努めた。1886年には、法・工・文・理・医の各分科大学と大学院をもつ帝国大学に改組されたが、その目的は「国家ノ須要(すよう)ニ応スル」学術研究と人材の養成にあった。民間では福沢諭吉の慶応義塾(1858)、新島襄(にいじまじょう)の同志社(1875)、大隈重信(おおくましげのぶ)の東京専門学校(1882。早稲田大学の前身)などが創立され、官立大学に対抗して、創立者の思想を強く反映させながら特色ある教育を行った。1879年には文部省によって東京学士会院が設立されたが、単なる政府の諮問機関で、範とした先進国のアカデミーとは大きく隔たっていた。1906年(明治39)学士会院は帝国学士院(1947年日本学士院に改組)となり、独自活動として、1910年に皇室の下賜金による恩賜賞を、翌1911年には三井、三菱(みつびし)の寄付金による学士院賞を制定したほか、財閥の寄付による研究費補助も開始した。1870年代から医学会、東京数学会社、化学会、工学会など個別の専門学会が相次いで誕生した。
[髙山 進]
第一次世界大戦でのドイツの軍事力の背景にあった科学・技術の水準の高さは対戦国に脅威を与えた。各国は競って科学の研究を組織し、援助を強める政策をとった。敗戦国ドイツは科学・技術の国家的統制を戦前以上に強め、1920年にドイツ学術研究協会を設立した。この組織はナチス政権成立後の1939年にはドイツ研究協会に再編され、あらゆる学会、協会が取り込まれ、すべての学者、学生の協会への加入が命ぜられた。
日本でも科学研究に対する認識は急速に広がり、研究機関や高等教育機関が拡充された。1917年(大正6)には理化学研究所が設立され、第一線の物理学、化学の研究者を網羅し、第二次世界大戦が終わるまで日本の科学研究の中心となった。大学は、1918年に制定の大学令により、単科大学および公私立大学が認可となり、高等教育の拡張が進み、民間企業も主として産業的な視点から研究所を拡充した。1932年(昭和7)につくられた日本学術振興会は、経済、軍事の要請にこたえ、列国との競争力を養うために、政府からの補助で、自然科学のほか人文・社会科学にわたる研究費の補助を行ったが、軍国主義への傾斜を強めるなかで、その研究は軍事目的のために取り込まれていった。
アメリカは、第一次世界大戦を契機に科学政策の強化を打ち出し、1916年国家研究評議会をつくり、ニューディール政策のなかでより強力な諮問機関として科学顧問会議を設置した(1933)。第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後、政府は国防会議のもとに国防研究会を設けて本格的に科学・技術研究の再編に乗り出した。1941年には科学研究開発局を設置、ここは軍事研究にかかわって基礎研究から生産現場に至る全組織を統括した。そしてレーダー、電子計算機、ペニシリン、オペレーションズ・リサーチなどと並んで、初期の原子爆弾開発も担当した。原爆の開発は1942年6月にアメリカ陸軍の管理下に置かれ、アメリカの科学者はもとより、ヨーロッパからの亡命科学者、イギリスの科学者などが動員され、4年間に約20億ドルを費やして完成された。原爆は、核分裂という科学上の発見が、軍事目的のためにのみ限定されて、国家の強力な管理と機密保持のもと、膨大な費用と科学者を動員して生産された点で、またその原爆が単なる大型爆弾ということにとどまらず、国際政治を左右する兵器として利用された点で、科学研究のあり方に根本的な問題を投げかけるものとなった。一方、ソ連はロシア革命直後から科学・技術の振興を重視し、革命前の科学者の特権的地位を排する一方、大学や科学アカデミーを優遇し、1920年代に「科学文化革命」とよばれる発展期を迎えた。1929年以降、スターリンによる「反ソ」「ブルジョア」科学者・教師の追放や、科学アカデミーに対する思想統制が強められた。1941年独ソ開戦時、ドイツに劣っていた軍事技術は、追放した科学者をも動員した特別な体制をとり、資源・人材を強引に集中し、指揮権も少数の科学者に集中させて急速に水準を高め、原爆の開発もアメリカにわずか4年遅れで成功した。戦後の軍拡競争においても、少なくとも水爆の成功まで、この方式が引き継がれた。
第二次世界大戦後の科学・技術の動向を特徴づけるのは、国家による強力な科学技術政策の推進と、その性格の軍事中心化であり、いま一つは、先進資本主義国における科学研究に対する産業資本のかつてない投資と、その結果の商品化である。宇宙開発や原子力開発は膨大な費用と研究者を組織して遂行され、その結果は政治的、軍事的、産業的にきわめて大きな影響を与え、基礎科学の研究といえども巨大な設備や費用を必要とし、そこから軍事、産業、学術の協同という状況が生まれている。研究・教育機関としての「アカデミー」は、全体として、真理探求と知識の普及という素朴な世界を保てなくなっている。
[髙山 進]
『今井隆吉著『科学と国家』(1968・中央公論社)』▽『広重徹著『科学の社会史』(1973・中央公論社)』▽『J・D・バナール著、坂田昌一他訳『科学の社会的機能』(1981・勁草書房)』▽『鎌谷親善著『技術大国百年の計――日本の近代化と国立研究機関』(1988・平凡社)』▽『ゲアハルト・A・リッター著、浅見聡訳『巨大科学と国家――ドイツの場合』(1998・三元社)』▽『科学技術庁科学技術政策研究所編『地域における科学技術振興――都道府県及び政令指定都市の科学技術政策の現状と課題』(1999・大蔵省印刷局)』▽『中山茂・吉岡斉編著『科学革命の現在史――日本の持続可能な未来のために』(2002・学陽書房)』▽『全国試験研究機関名鑑編集委員会・文部科学省科学技術・学術政策局編『全国試験研究機関名鑑』全3巻・各年版(ラテイス、丸善発売)』
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…学問分野によって学会の性格が異なるのは当然であるが,個々の学会は,その設立の経緯,規模,組織形態,機能など千差万別である。たとえば,英語で学会を表すのにacademy,society,association,instituteなど多くの語が用いられることも,学会の多様性の反映とみることができる。しかし,一応の目安として学会が具備すべき基準・条件としては次の五つが考えられる。…
…プラトンはアテネ郊外のアカデメイアを中心に学問を講じたが,ここでは俗塵を離れてひたすら真理を探究する精神が称揚された。アカデミーとアカデミズムはここに起源をもち,学問研究の中心をなす学術研究者の団体や研究機関や学校がアカデミーと呼ばれ,世俗を離れた純粋な研究態度がアカデミズムと呼ばれるようになった。ルネサンス以降,学問の発展,分化に伴い,自然科学や美術のアカデミーもつくられ,18世紀啓蒙期にはすべての学問芸術arts and sciencesを総合するものとしてのアカデミーがヨーロッパ諸国につくられ,学芸の水準と権威を高めることに役だった。…
… 画家組合は各都市の繁栄の中で,親方画家に独立し安定した活動の場を保証し,作品の質を一定水準に保つ上で有効な組織であったが,イタリアでは15世紀末ごろから絵画,彫刻がいわゆる〈芸術〉として単なる手工芸から区別されるようになり,抜けがけを防ぐことを目的とした組合の規約や実践中心の修業法への不満が台頭してくる。かくして16世紀に自由で理論的な芸術探求のための集りとしてのアカデミーが発達し,従来の組合も併存したものの,アカデミーに従属してその拘束力は弱まっていった。これに対しネーデルラントでは16,17世紀にも依然中世以来の画家組合(彫刻家,ガラス絵師,画商なども含むことが多い)が実質的に機能していたが,17世紀後半にはイタリアやフランスの先例にならって各地にアカデミーが誕生している。…
…しかし,経済的事情や研鑽を積む目的で,資格取得後も著名な画家の工房で助手を務める者もあり(例えばルーベンスの工房におけるファン・デイク),またこれとは別に顔料を砕くなどの下働きに一生従事する徒弟も存在した。16世紀以降イタリアから始まって各地に,職人とは区別された芸術家の団体であるアカデミーが設立される。しかし,アカデミーでは主として理論面の教育が行われ,17,18世紀になっても芸術家の技術的育成は依然として個人の工房を中心に行われた。…
…宗教戦争の終結後,王位についたルイ13世の治下で,宰相・枢機卿リシュリューは,統一国家としての秩序と調和への意志を,政治,経済,文化のあらゆる局面における中央集権体制の確立によって果たそうとする。その文化政策であるアカデミー・フランセーズ創設(1635)や文人,芸術家の庇護は,上からの改革として古典主義の確立に大きな役割を果たし,アカデミー・フランセーズの中心人物シャプランJean Chapelain(1595‐1674)は,16世紀以来のイタリア人文学者を中心とするアリストテレス《詩学(創作論)》の読解を受けて,古典主義の理論的基準となる規則論を確立する。1637年初演のP.コルネイユの悲喜劇《ル・シッド》をめぐるアカデミー側と作者側の規則論議(いわゆる〈ル・シッド論争〉)は,40年代のコルネイユ自身の〈規則にかなった悲劇〉(《オラース》《シンナ》《ポリュークト》)の制作と成功によって,実践の領域へと超えられていく。…
…リシュリュー,コンデ大公,コルネイユらを常連としたこのサロンは,約半世紀の間繁栄した。1629年に始まったコンラールValentin Conrart(1603‐75)のサロンは,ボアロベールやシャプランの集会所となり,アカデミー・フランセーズ誕生(1635)の母体となった。フロンドの乱(1648‐53)のころには政治サロンも開かれたが,以後はスキュデリー嬢のサロンを中心に,フランス語の洗練に主力が注がれた。…
※「アカデミー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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