翻訳|Assyriology
1857年に公式に成立した新しい学問領域。広義には古代オリエントにおいて発見される膨大な楔形文字資料の解読とその文献学的研究を中心課題とし,考古学的研究と並行して楔形文字を使用した民族の政治・社会・経済・法律・宗教・芸術・文学などの文化全般と歴史を研究する学問を意味する。しかし最近では研究が飛躍的に進歩したため多くの専門領域に分化した。例えばシュメールを対象とするシュメール学Sumerology,アッカド,アッシリアを対象とする狭義のアッシリア学,エラム学Elamitology,フルリ学Hurritology,ヒッタイト学Hittitology,ウラルトゥ学Urartology,ウガリト学Ugaritologyなどは独立した名称で呼ばれるようになった。このような広範で多彩な学問領域がアッシリア学の名で包括されるのは,メソポタミアの発掘で最初に知られるようになったのが,アッシリアの遺跡とアッシリア語であったことに起因する。
初期の発掘はイラクのモースル周辺のアッシリアの遺跡を中心に行われ,1842年にはフランスのボッタP.E.Bottaがニネベ,コルサバードの発掘を開始し,45年にはイギリスのレヤードがニムルドで考古学的調査を開始している。この時期の発掘は古代遺物の探索が主要な目的であって,近代的技術を用いた科学的発掘は20世紀に入ってバビロンにおけるコルデワイR.Koldewey,アッシュールにおけるアンドレーW.Andraeらにまたなければならないが,ニネベにおけるアッシュールバニパル王の書庫の発見は,それ以後の文献学的研究の基礎となる特記すべき事件であった。発見された2万2000個の粘土板は大英博物館に移管され逐次刊行されてきている。
1846年にビストゥンやペルセポリスの3ヵ国語碑文のうち古代ペルシア語碑文(第1種碑文)がローリンソンによって解読されると学者の目は次いでバビロニア語碑文(第3種碑文)に向けられた。この碑文は文字数の多いことからまず音節文字であることが予測され,多くの状況証拠はこの言語がセム系言語であることを示唆していた。この点で基本的な発見を行ったのはヒンクスE.Hinksであった。ローリンソンはさらに100個ばかりの音価を決定し,バビロニア文字の原理とセム語的性格を明確に理解して,51年にビストゥンのテキストを刊行する。バビロニア語と方言的な差しかないアッシリア語についてもオッペールJ.Oppertは大英博物館に移管されたニネベ文書の中に楔形文字の音価と意味を並記したシラバリーsyllabary(字音表)を発見し,すでに解読されていた文字の確認と修正補充を行い,固有名詞の音価なども決定する論文を85年に発表することにより,文献学的研究の基礎を据えた。1857年,イギリスの王立アジア協会はヒンクス,ローリンソン,オッペール,タルボットW.H.F.Talbotら4人にアッシュールで新しく発見されたアッシリア語碑文を別々に翻訳させ,それらの解読結果が一致したことを公式に確認し,アッシリア学が誕生することになった。1855年以降発掘活動は緩慢になり,アッシリア学者は発掘で得た粘土板の研究に没頭した。スミスG.Smithがニネベ出土の粘土板の中に旧約聖書の〈ノアの洪水〉に酷似する物語を発見して,センセーションを引き起こしたのは72年のことである。アッシリア学の底流にはつねにこの旧約聖書への精神的指向が認められ,ときに研究の方向を誤らせてきたが,最近になってやっとその反省がみられる。
アッシリア学の奥行きを深めることになった次の転機はシュメール人の発見である。アッシリア文字が複雑な表語文字の用法を持っていることから,アッシリア人がこの文字体系を非セム系民族から借用したとする見解が提出されていたが,反対者もあって論争を引き起こしていた。87年にフランスのサルゼックE.de Sarzecがテルローで発掘を行い,一見してアッシリアの遺物とは異なる人物像や楔形文字の粘土板を発見し,これがシュメール文明との最初の出会いとなった。シュメール遺跡およびメソポタミアの本格的な発掘は,第1次世界大戦後,イギリス,ドイツ,フランス,アメリカ,イラクによって行われることになる。シュメール語は系統不明な孤立言語であるが,出土した粘土板の中に含まれるシュメール語・アッカド語対訳の語彙表,対訳文学テキスト,対訳文法書などを拠り所として解読された。アッカド語はアッシリア語にきわめて近いセム語である。
1884年には専門誌としてフランスで《アッシリア学誌》が,ドイツでも《アッシリア学誌》の前身である《楔形文字研究誌》が創刊され,新興学問としての確固たる基礎を据えた。アメリカでは1947年に《楔形文字研究誌》が,日本でも79年に国際誌として《シュメール学紀要》が創刊された。20世紀に入って,小アジアにおけるヒッタイト語および北シリアにおけるウガリト語の発見と解読,最近ではイタリア隊によるシリアでのエブラ文書の発見などアッシリア学はその領域と奥行きを広めつつある。粘土板文書の急増とその内容の多様さを考慮すれば,アッシリア学は今後,医学,数学,天文学,動・植物学その他文書内容に関連した専門家の協力を得て理解の精度を高めると同時に,その総合的把握を志向することが必要であろう。
→楔形文字 →粘土板文書
執筆者:吉川 守
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楔形(くさびがた)文字、およびこれを使用した民族の文化と歴史を研究する学問。オリエント地方で発見された40万個近い楔形文字粘土板その他の解読とその文献学的研究を中心課題とし、考古学的研究も行う。楔形文字を使用した民族にはシュメール人、アッカド人(バビロニア人)、アッシリア人、エラム人、フルリ人、ヒッタイト人、ウラルトゥ人、ウガリト人などがある。それらの政治、社会、経済、宗教、美術、文学などと歴史を研究領域としている。1857年にイギリスの王室アジア協会が4人の学者にアッシリア語碑文を別個に翻訳させ、その結果が一致したのを確認し、アッシリア学が公式に誕生した。広範な学問領域がアッシリア学の名でよばれるのは、初期の発掘で知られたのがアッシリアの遺跡とアッシリア語であったことに由来している。
[吉川 守]
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…ナポレオンのエジプト遠征に随行した学者の調査(1798‐1802)がエジプト研究の端緒となった。このときに発見されたロゼッタ・ストーンを手がかりに,1822年シャンポリオンが象形文字の解読に成功,一方,アッシリアの楔形文字もローリンソンらが解読に成功,19世紀の中ごろにはエジプト,メソポタミアの両方で大規模な調査が行われるようになり,言語学,歴史学,考古学が密接に結びついたエジプト学,アッシリア学の基礎が置かれた。考古学のもう一つの萌芽はヨーロッパ先史時代の研究である。…
※「アッシリア学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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