ティグリス川中流域のアッシュール市Assurから興ったセム人の国家。紀元前三千年紀後半から前610年まで存続した。ティグリス、ユーフラテス川の流域地方をバビロニアと称するのに対し、その北の地方をアッシリアと称する場合がある。この地方は本来フルリ系住民が多数を占めていたと思われるが、アッシュールはシュメール人の植民都市として成立し、その後セム系のアッカド人の都市になったと推測されている。都市名としてのアッシュールが文献に初めて現れるのはアッカド王朝時代(前2300ころ)である。前2000年ごろはウル第3王朝治下にあった。アッシュールの君侯ザーリクムは、スーサの同名の君侯ザーリクムと同一人物と考えられ、彼は東方および北方辺境の防備と通商路の確保を、ウルの王から任されていたと思われる。
[前田 徹]
この時期にアッシュールは独立した有力商業都市(国家)となり、アナトリアのカネシュに商業植民市を置き、おもに銅、錫(すず)交易を活発に行っていた。前二千年紀初頭から西方セム語族に属するアモリ人が移動を開始し、バビロンなどの諸都市に王朝を建てた。王朝はアッシュールにも成立した。シャムシ・アダド1世(在位前1813~前1781)は長子イシュメダガンを首都近くに配置し、アナトリアに通じる道の防衛とともに、エシュヌンナ王国に対抗させた。また征服したマリ王国に次子を王として送り込んだ。こうした配置は、アナトリアとエラムを結ぶ通商路の確保とその権益の擁護が主目的であったと思われる。このアッシリアもバビロン第1王朝のハムラビに屈し独立国の地位を失ったのである。
[前田 徹]
インド・ヨーロッパ語族の大移動によって、前1500年ごろ成立したミタンニに、アッシリアは隷属せざるをえなかった。アッシリアは通商路の重要拠点に位置することで国勢が伸張したが、この地理的条件は逆に諸民族の移動の影響をまともに被る弱点ともなっていた。以来、アッシリアは四方の敵に備えざるをえなくなる。ヒッタイトのシュッピルリウマシュが攻撃したことで、ミタンニが弱体化すると、アッシリアのアッシュール・ウバリト1世(在位前1365~前1330)は独立をかちとった。彼はさらに娘をバビロン王に嫁し、孫を王位につけ、政治の主導権を握った。アダド・ナラリ1世(在位前1307~前1275)はシリアまで進出した。これに脅威を感じたエジプトとヒッタイトは、敵対していたのであるが、一変して対アッシリアのため友好条約を締結するに至った。アマルナ文書において、アッシリア王は「エジプト王の兄弟」とよばれるほど、列国に伍(ご)する強国となったのである。アッシュール・ウバリト1世治下に、アッシリアはバビロンを圧倒する勢いを示していたが、トゥクルティニヌルタ1世(在位前1244~前1208)はついにバビロンを攻略し、主神マルドゥクの像を奪うまでになった。中アッシリアにおいては、商業国家から軍事国家への変質がみられる。たとえば馬と鉄を利用した軍の再編成、官僚制の整備、アッシリア法典の編纂(へんさん)が行われた。
[前田 徹]
前1200年ごろから始まった「海の民」(ペリシテ人)の移動による西アジア、東地中海世界の混乱のなかで、アッシリアは、とくにアラビア砂漠から移動してきたアラム人との対立によって弱体化した。アラム語は国際語としてアッシリアでも使用されることになった。アッシュール・ダン2世(在位前934~前912)が復興の基を築いた。アッシュール・ナシルパル2世(在位前884~前859)はカルフ(ニムルード)に新都を造営した。ティグラト・ピレセル3世(在位前745~前727)によって帝国時代の幕があけられた。彼は軍制改革と内政改革によって王権の強化を図り、また、それまでの「あらゆる敵を殲滅(せんめつ)する」方式に、強制移住政策を加え、諸民族の反乱の根を断ち切ろうとした。この政策は新バビロニアのネブカドネザルの「バビロン捕囚」に継承される。真にアッシリアの最盛期はサルゴン朝の時代に到来する。サルゴン2世(在位前721~前705)は北方の雄国ウラルトゥを破って後顧の憂いをなくし、地中海沿岸に出兵してはイスラエル王国を滅ぼした。彼は新都ドゥル・シャッルキン(コルサバード)も造営した。エサルハッドン(在位前680~前669)はエジプトに侵入し、首都メンフィスを占領、下エジプトを制圧した。短期間ながらオリエント世界の統一が実現したのである。アッシュール・バニパル(在位前668~前627?)は再度エジプトに侵入し、上エジプトのテーベまでも攻略した。さらに東方エラムを征服することで最大版図を実現した。彼は図書館をつくったことでも有名である。しかし、アッシュール・バニパルの死後数年で内紛が起こり、それに乗じられて、前612年、『旧約聖書』に「わざわいなるかな、血を流す町」とあるごとく、首都ニネベはメディア王キャクサレスとバビロン王ナボポラサルによって徹底的な略奪と破壊を被り、廃墟(はいきょ)と化した。そして前610年アッシリア帝国は完全に滅亡したのである。
[前田 徹]
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ティグリス川中流域,メソポタミア北部の古代国家およびその領域をさす名称。アッシュル市を中心として前2千年紀初頭までには都市国家を形成し,アナトリアとメソポタミアを結ぶ交易の担い手となった。前14~前13世紀には西アジア世界の列強国として台頭した。その後,盛衰をへて,前9世紀から前8世紀にかけての大規模な軍事遠征によって西アジア全域に進出,強制移住政策によって征服地に住民の入れ替えを行い,次々と行政州を形成して広域を併合した。前8世紀末から前7世紀後半の最盛期にはメソポタミア,シリア・パレスチナ,アナトリア南東部,イラン西部を行政州あるいは朝貢国として直接間接に支配し,西アジア広域に帝国として君臨した。その支配は一時エジプトにも及んだ。前7世紀のアッシュル・バニパルの治世を頂点に衰退し,前612年,新バビロニアとメディアの連合軍により帝国の首都ニネヴェを攻略されて滅亡した。
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…ミタンニの勢力は前15世紀に絶頂に達した。前14世紀以降になると,エジプト新王国,ヒッタイト,アッシリアなどの外国軍隊がシリアを戦場とした。シリアの諸都市も互いに抗争し,弱体化した。…
… しかし,鉄の生産はまだきわめて限られ,隕鉄の利用も少なくなく,鉄は相変わらず貴重品であった。前20~前19世紀のアッシリアとアナトリア東部の交易を伝える〈キュルテペ文書〉に数種の鉄の名称がみられるが,そのうちの一つであるアムートゥムamūtumは金の8倍以上の価値を有していた。アナトリア東部は,アルメニアとともにしばしば製鉄の起源地に仮定されてきた地域である。…
…イラク北部,モースルからティグリス川を渡って約500mにあるアッシリアの首都。センナヘリブ王が前700年ころから建設してのち,前612年の滅亡まで存続した。…
…現在のイラクのバグダード以南の沖積平野を中心としたメソポタミア南部を指す歴史的呼称。しばしば北部のアッシリアと対比され,またバビロニア南部はシュメール,北部はアッカドと呼ばれる。その歴史は,厳密にはバビロンによるメソポタミア南部の統一をもって始まるとみるべきであろうが,以下の記述では,サルゴンによるアッカド帝国の建設によりメソポタミア南部が初めて政治的に統合された時をもってその出発点とし,アレクサンドロス大王による征服までを扱う。…
…この地域に人類最古の文明が繁栄した。
[地域と風土]
メソポタミアは,本来的にはバグダード以北の両河流域地方(ほぼアッシリアに対応)を指し,以南を示すバビロニアと対立的に用いられたようである。アラブは狭義のメソポタミアをジャジーラal‐Jazīraと呼んだ。…
※「アッシリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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固定翼機でありながら、垂直に離着陸できるアメリカ軍の主力輸送機V-22の愛称。主翼両端についたローターとエンジン部を、水平方向から垂直方向に動かすことで、ヘリコプターのような垂直離着陸やホバリング機能...
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