精選版 日本国語大辞典 「アムステルダム」の意味・読み・例文・類語
アムステルダム
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オランダ西部、ノールト・ホラント州南部にある同国の憲法上の首都(実質上の首都はハーグ)。人口73万4594(2001)で、オランダ最大。また郊外地域を含むアムステルダム大都市圏の人口は100万2868(2000)。アムステル川がアイセル湖のアイ湾に流入する地点に位置し、オランダの商工業、交通、文化の中心地となっている。北海とは北海運河、ライン川とはアムステルダム・ライン運河、またワッデン海とはノールト・ホラント運河によって、それぞれ通じるため、市街北部のアムステルダム港はロッテルダムに次ぐオランダ第二の貿易港となっている。工業も、16世紀にベルギーのアントウェルペン(アントワープ)から移ってきた世界的に有名なダイヤモンド研摩業のほか、石油化学、造船、セメント、航空機、電子、服飾などの諸工業が立地する。また、北海運河沿いでは石油精製、外港的性格をもつアイモイデンIjmuidenでは鉄鋼、北郊のザーンダムZaandamでは食品工業が発達し、一大工業地帯を形成している。第二次世界大戦前までは、オランダ領東インド(インドネシア)からのゴム、砂糖、コーヒーなどの輸入と取引でにぎわい、現在も商業・金融活動が活発で、株式市場、オランダ銀行などが集中している。
文化面では1632年創立のアムステルダム大学と1880年創立の自由大学の所在地であり、また、レンブラントの『夜警』をはじめ17世紀オランダ美術を多数所蔵する国立美術館、近代絵画を収集する市立美術館、そのほかゴッホ美術館、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサート・ホール、市立大学図書館、レンブラントの家などの文化施設が多い。旧市街はアムステル川河口を中心に扇形に広がり、環状、放射状の運河網が発達している。中心のダム広場の周囲には、かつて市庁舎として使われた王宮や後期ゴシック様式の新教会が並び、このほか市内には1334年建設の旧教会や、涙の塔、ムント塔、アンネ・フランクの家などの歴史的な建物が多い。郊外では都市化が進行し、西部、南部では大規模なニュータウンが建設され、また南西郊外には国際空港のスキポール空港がある。
[長谷川孝治]
13世紀中葉ごろ、アムステル川の河口にダムを築いてアイ湾からの海水の浸入を防ぎ、小集落が成立した。これが地名の由来である。1275年、住民はホラント伯フロリス5世から伯領における関税免除の特権を得、さらに1300年ごろ都市特許状を与えられてアムステルダム市が成立した。1323年、ドイツのハンブルク港からホラント地方へ輸入されるビールの税関が当市に置かれ、市民のハンブルク航行が開始され、しだいにハンザ諸都市とフランドル地方との間の貿易における内陸ルートの要衝として海上輸送に進出した。16世紀前半、市はバルト海地域産穀物の一大市場となり、1585年、西ヨーロッパ最大の貿易港アントウェルペンがスペイン軍に占領されると、その後を継いで一挙に発展した。17世紀にはバルト海貿易を基礎として、スペイン貿易、さらに地中海、アジア、新大陸貿易を展開して世界市場となり、商品取引所(1611)、市立のアムステルダム振替(ふりかえ)銀行が設立され、造船、ビール醸造、印刷、精糖、たばこ加工、ダイヤモンド加工などの工業が栄えるとともに、世界的金融市場になった。
市はまた独立を達成したネーデルラント連邦共和国の文化的中心として、画家レンブラント、哲学者スピノザ、文学者のフォンデルやホーフトらを輩出して、オランダ文化の黄金時代を築いた。15世紀以来、市長(4人)、市参事会員(36人)の職を独占して貴族的寡頭支配を行った富裕な大商人門閥は、貿易の発展とともにますます勢力を張り、共和国の実質的な支配者として君臨した。17世紀に市域は拡大され、半円状のヘーレン、カイゼル、プリンセンの3運河と、運河沿いの壮麗な住宅が建設され、17世紀中葉に繁栄は絶頂に達し、豪壮な市庁舎(現王宮)が建てられた。1815年、ネーデルラント王国成立とともにその首都となったが、長い衰退ののち、18世紀の後半以降、北海運河(1876)、メルウェーデ運河(1892)の建設、産業革命の進行によって、市の貿易、工業の発展が再開され、1840年以後、市域の拡大も始まり、20世紀初頭には都市計画が実施された。第二次世界大戦後アムステルダム・ライン運河が開通し、クーン、アイ両トンネルにより、港を挟む南北両市域が接続され、新市街が建設された。
[栗原福也]
アムステルダム防衛のために、周囲を取り囲むように配された要塞とその防塞線が、1996年ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「アムステルダムのディフェンス・ライン」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部]
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オランダ,ホラント州にある大商業都市。大航海時代にアントウェルペンが世界貿易の中心となって以来,仲介貿易によって急速に発展。オランダ独立戦争によるアントウェルペンの衰退に代わって,新興のオランダ共和国の中心都市としてだけでなく,17世紀には国際貿易,金融の要としての地位を獲得し,文化的にも黄金時代を迎えた。1815年オランダ王国の成立とともに首都に定められ,北海運河の開通によりオランダ最大の都市となったが,第二次世界大戦中ドイツ軍によって占領され,多くのユダヤ人が強制収容所に送られた。
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…すなわち当時の絶対王制諸国家群の中で,この国は君主も強力な中央政府ももたない極端な分権主義的原理に立つ連邦共和国であって,連邦を構成する7州はそれぞれ州主権を有し,また諸州の内部では各都市は強大な自治権を享受していた。ことにアムステルダムをはじめとするホラント州諸都市の大商人たちは社会的経済的上層部を形成し,都市,州,連邦の統治を掌握して共和国の政治的支配者になった。同時代のイギリスやフランスが国民経済の建設,国民的生産力の展開を実現したのに反して,共和国においては,支配階級である大商人層が唱道する商業自由の原則や分権国家体制によって,資本主義的国民経済形成への道は妨げられ,保護主義による工業発展も農業の展開も阻止された。…
…しかし16世紀中葉にはベネチアを中心とする地中海の香料貿易が復活し,ポルトガルのコショウ独占は失敗した。1585年アントワープはスペイン軍の攻撃によって陥落し,アムステルダムがその地位を継承した。アムステルダムの商人はイベリア半島に進出して新大陸から流入する銀を掌握し,重要なトルコ市場をもつ地中海へも進出し,さらに東西インドの植民地へ勢力を拡大した。…
…イギリスの対外貿易における17世紀は,〈レバント会社〉の時代であった。バルト海においてはオランダがイギリスに対して優位に立ち,アントワープに代わってアムステルダムが北方の中心的市場となった。やがてオランダ商人も地中海へ進出し,フランスもこれに続いた。…
…インド航路やアメリカの発見によってヨーロッパの海運は大きく発展したが,北海と地中海を結ぶ伝統的な交易網もなおその重要性を失わなかった。【清水 広一郎】
[近世・近代の海運]
16世紀における北西ヨーロッパ最大の中継貿易港アントワープが,オランダ独立戦争の渦中で1585年スペイン軍に占領され港の入口がオランダ側に閉鎖されると,中継貿易の中心はオランダのアムステルダムに移った。17世紀前半オランダの海運と貿易は驚異的発展を遂げ,その商船隊はバルト海,北海から南の地中海,レバント,さらにアフリカ西海岸,カリブ海域,北アメリカ,東アジアにまで進出し,オランダはまさにヨーロッパの海運業者になった。…
… オランダはスペインに対する独立戦争の一環として新大陸から帰航するスペインの船隊に対してはげしい攻撃を行った。1585年にアントワープがスペイン軍に占領されると,同地の商人がアムステルダムに移住した。この結果,アムステルダムが国際貿易の中心地となり,スペインに対抗して,スペインの勢力の及ばない地域への進出が計画されるようになった。…
※「アムステルダム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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