歴史的には,もとアラビア半島に住み,のち中東地域に広く進出した人々。アラブがもともとアラビア半島に住んでいたかどうか,もしそうでないとすれば,彼らはどこから来たのかという問題は,現在なお未解決である。彼らの言語アラビア語はセム系言語の一つで,古代南アラビア語およびエチオピア語からなる南セム語と,ヘブライ語,ウガリト語,アラム語からなる北西セム語との中間に位するという。現在アラビア語を母国語とする人々は,約1億5000万と推定される。
8,9世紀ごろ記録にとどめられたアラブ自身の民族的伝承によれば,アラブは,(1)失われたアラブ(アラブ・アルバーイダ),(2)真のアラブ(アラブ・アルアーリバ),(3)アラブ化したアラブ(アラブ・アルムスターリバ)に分けられる。(1)は神によって絶滅させられたとコーランに記されるアード族やサムード族をさし,(2)はカフターンを祖とする南アラブでヤマン族ともいい,(3)はアドナーンを祖とする北アラブでカイス族ともいう。のちに整えられたアラブの系譜では,カフターンは《創世記》10章25節以下のヨクタンに比定され,アドナーンはアブラハムの息子イシュマエルの子孫とされる。このように,アラブを南アラブと北アラブとに分ける真の理由は明らかでないが,イエメン,ハドラマウトに定住する南アラブと,半島の中・北部に遊牧する北アラブは,それぞれの歴史が明らかになった最初から,別々の歴史世界を形成していた。
南アラブは前8世紀のころから一連の古代南アラビア王国を建設したが,その繁栄の基礎は灌漑農業と遠隔地通商にあり,のちのアラビア文字とは異なる独特の文字で記した多くの碑文を残している。北アラブはシリア砂漠を包む広い地域で遊牧生活を送り,ヘレニズム時代にはナバテア,パルミュラの両王国を建設し,ともにアラム文字で記した碑文を残している。4世紀に南アラブの国家と社会は崩壊し,南アラブの一部は遊牧民となって北方への移住を余儀なくされた。しかし古くからの遊牧民である北アラブとの遊牧地争奪戦に敗れ,北アラブの領域のさらに北方に遊牧地を求めざるをえなかった。イスラム時代の初期のアラブ諸部族の分布を見ると,南アラブが南アラビアと,シリア砂漠を包む半島の北部に住み,その中間に北アラブが住んでいた。この南・北アラブの分布がほぼ固定化した5世紀の後半から,ムハンマドの活躍までのほぼ1世紀半が,歴史学の用語としてのジャーヒリーヤ時代であり,それは文学史の立場からは,アラブの英雄時代とも呼ばれる。この時代にアラビア半島全体で遊牧生活が支配的となり,遊牧民の価値観が定住民のそれを圧倒した。南アラブはみずからの言語と文字とを失い,北アラブの言語がアラブ全体の共通語となり,そのヒジャーズ方言がのちの古典アラビア語となった。またアラム文字から派生したナバテア文字が広く用いられるようになり,それに手を加えたものが現在のアラビア文字となった。
ジャーヒリーヤ時代から現在まで,遊牧民であると定住民であるとを問わず,アラブ社会の基礎をなすものは血縁集団である。それは共通の一人の先祖から分かれ出た子孫で形成される。集団内の小集団も,共通の先祖の子孫の一人を共通の先祖とする人々によって形成され,その最小の単位が家族である。われわれは通常,大集団を部族,小集団を家族と呼ぶが,アラビア語では集団の規模の大小にかかわらず,すべて〈誰それの子どもたち(バヌー)〉と呼ばれる。前イスラム時代には母系制の部族もあったが,イスラム時代には家系はすべて父系でたどられた。前イスラム時代の母系制の家系が,イスラム時代に記録された父系制の系譜の中でどう処理されたかは,学問的にはひじょうに興味ある問題である。
→家
血縁集団の連帯性を保証する制度に,血の復讐と身代金の制度があった。血の復讐は同害報復刑の一つで,血縁者が殺された場合,殺した者,またはその血縁者を同数だけ殺すことである。身代金は,戦争で捕虜となった者は奴隷として売買されるが,血縁者が身代金を支払って買い戻し,自由の身にしてやることである。いずれの場合でも,ここで血縁者というのは家族を超えた広い血縁集団を意味し,実際に血の復讐または身代金支払いに参加した範囲を見ることによって,それぞれの集団の具体的な血縁意識を測ることができる。集団は規模の大小を問わず,それを統率する指導者を必要とする。このような指導者は,老人を意味するシャイフの名で呼ばれるのが普通であるが,単に年齢だけでなく個人的資質が重視される。シャイフは集団の成年男子全員の集会マジュリスで選ばれ,シャイフは重大な決定をなすに当たっては,マジュリスの意見を徴するのを常とした。定住民のクライシュ族の場合,そのメッカ征服と定住の際には部族全体の族長があったが,その後は族長はなく,各氏族がそれぞれ家長(クライシュ族の場合は特に家長という)とマジュリスを持ち,部族全体の利害にかかわる重大事の決定に際しては,各氏族の有力者からなる集会マラーが開かれた。
コーランにはアラブという語そのものは見えないが,異人の言葉アジャミー`ajamīに対して,北アラブ,南アラブ,定住民,遊牧民を通じての共通語であるアラビー`arabīという語が見え,ムハンマドは言語を媒介としながら,一つの民族としてのアラブという観念を表明した最初の人となった。コーランにはアラビーのほか,それと同じ語根から出たアーラーブA`rābという語が見えるが,それは定住民に対して遊牧民を意味する。イスラムによって民族的アイデンティティを与えられたアラブは,ムハンマドの没後,カリフの指導のもとに大規模な征服を行い,大帝国を建設してその支配者集団となった。同時に多数のアラブ戦士が家族を伴って征服地に移住し,そこに築かれた軍営都市(ミスル)に住みついた。ウマイヤ朝の初期,アラビア半島から征服地に移住したアラブの数は最低に見積もっても130万に達したと推定され,彼らの住みついた軍営都市は周囲の非アラブ住民のアラブ化・イスラム化の拠点となった。ムハンマドが北アラブのクライシュ族の人であったことは,南アラブに対する北アラブの優位を決定的にした。しかしウマイヤ朝の初代カリフのムアーウィヤは,征服以前シリアに住みついていた南アラブと親善関係を結び,その後歴代のカリフは南・北アラブのいずれかの軍事力に依存し,ウマイヤ朝滅亡まで南・北アラブの対立抗争は重大な政治的・社会的問題であった。アッバース朝になると,カリフがアラブの軍事力に依存する必要がなくなり,南・北アラブの対立もおのずからやんだ。
コーランの言語であるとともに支配者集団の言語でもあったアラビア語は,帝国唯一の公用語・共通語とされ,やがて文学・学問の用語ともなった。征服地の住民はアラビア語をみずからの言語とすることによってアラブ化し,それはイスラム教徒としてのウンマ(信仰共同体)への帰属意識によっていっそう促進された。しかし,このような非アラブのアラブ化は,逆にアラブをしてみずからの民族意識を希薄にさせる結果を招いた。かつての支配者集団はイスラム教徒大衆の中に埋没し,中世の長い期間を通じてアラビア語を母国語とするイスラム教徒は,まずみずからをイスラム教徒であると自覚し,ついで共通のイスラム文明の担い手であると意識し,日常生活のレベルでは特定の部族・村落・街区・教団その他の民衆組織への帰属意識を抱くだけで,自分がいかなる民族に属するかということは問題にされる余地がなかった。このようにして,イスラム教徒であることとアラブであることとは,個人および集団の意識において一体化し,シリア,イラク,エジプト,北アフリカのイスラム教徒は,みずからをただイスラム教徒とだけ意識し続けた。アラブという語はその後一貫して,歴史史料においても文学作品においても遊牧民(ベドウィン)を意味し,現在でもアーンミーヤ(口語アラビア語)でアラブといえば遊牧民を意味する。十字軍の年代記類にあっても,アラブといえば遊牧民をさし,イスラム教徒の定住民はサラセンと呼ばれている。
中東のアラブ地域がトルコ人の支配に帰し,トルコ語が公用語となったオスマン帝国時代に,トルコ人がアラブ地域の住民をアラブと呼んだこともあって,アラブ意識が徐々に芽生え始めたようである。イスラム神秘主義,特にその聖者と墓との崇拝を後世のイラン人,トルコ人によるビドア(逸脱)として排撃し,原始イスラムへの復帰を説いたムハンマド・ブン・アブド・アルワッハーブの教えの根底には,まぎれもないアラブの民族的自覚があった。現代におけるアラブ意識は,ナーシーフ・アルヤージジーやブトルス・アルブスターニーらキリスト教徒アラブの文芸復興運動に始まったが,その後の情勢,なかんずくアラブ民族主義運動の展開は,アラブを一つの民族とみなす方向に進んだ。アラビア語を母国語とするキリスト教徒,ユダヤ教徒も少なくなく,第2次世界大戦の終結,アラブ連盟の結成(1945)までのアラブ民族意識は,おおむね宗教的分裂を克服する立場のものとして表明された。1938年12月,ベルギーのブリュッセルで開かれたアラブ学生会議が,〈言語・文化ならびに忠誠心(または民族感情)においてアラブであるものすべて〉をアラブと定義したのは,このような方向に沿ったものである。しかしイスラエル国家の建設,第3次中東戦争,その後顕著となったアラブ諸国の利害の対立とともに,レバノンのファランジスト(カターイブ)のように公然とイスラエルと組んで,イスラム教徒に敵対するキリスト教徒も出てきた。このような状況のもとで,現在あえてアラブを定義すれば,〈アラビア語を母国語とし,ムハンマドの宣教に始まるアラブの歴史と文明の所産の中にはぐくまれ,それへの帰属意識を持ち続ける者〉ということになろうか。
→アラブ民族主義
執筆者:嶋田 襄平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
哺乳(ほにゅう)綱奇蹄(きてい)目ウマ科の動物。同科の1種ウマの1品種。体高と体長のほぼ等しい方形馬で、頭は小さく額は広く、目は大きく丸い。鼻孔は大きく口は細く、その横顔はくさび形に引き締まってみえる。頸(くび)はやや長く胸は大きく、鬐甲(きこう)(背から頸へ移行する部分の隆起)は鮮明で胴は短い。尻(しり)は大きくやや水平で、足にじょうぶで大きな関節があり、骨は細いが緻密(ちみつ)で硬い。皮膚は薄く、筋肉や血管が明瞭(めいりょう)に見える。体高は1.45~1.5メートルで、性質は鋭敏で激しい。アラブの成立については不明であるが、400年ごろ、トルコのカッパドキア地方の小格馬200頭がイエメンに贈られた記録があり、ソロモン王の所有馬を祖先とする伝説もある。また、ムハンマド(マホメット)も馬産を奨励したといわれる。アラブ改良の過程は、血統を重視し、一流の5血統内で交配を行い、速力と持久力に優れた純血種アラブを成立させたものである。生産の中心地はネジドの砂漠であるが、イラク、シリア、ヨルダンとアラビア半島で生産されたものも含まれる。
[加納康彦]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
セム族の一派。ムハンマドの出現によって統一され,イスラーム帝国の建設に伴って広がった。今日モロッコ,アルジェリア,エジプト,シリア,ヨルダン,イラク,サウジアラビアなどの国家を建てている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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【イスラムとはなにか】
イスラムはアラブの預言者ムハンマドが610年に創唱した一神教で,世界宗教として西アジア,アフリカ,インド亜大陸,東南アジアを中心に現在ほぼ6億の信者をもつ。正しくはアラビア語でイスラームといい,〈唯一の神アッラーに絶対的に服従すること〉を意味する。…
…1948年5月のイスラエル国家成立を機に始まったアラブ諸国とイスラエル国家の間の一連の戦争。アラブ・イスラエル紛争ともいう。…
…アラブ系遊牧民を指す。ベドウィンという呼称は,アラビア語の〈バドウbadw(バダウィー(男性形単数),バダウィーヤ(女性形単数))〉という語が,フランス人によりなまって発音されたのが始まりとされている。…
※「アラブ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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