ポルトガルの貴族。インドから日本に渡り、当初平戸(ひらど)(長崎県)で貿易に従事していた。リスボンで得た外科医の資格を活用して日本でのキリスト教布教に尽力し、私財を投じて平戸に育児院、府内(大分県)にらい病院、普通病院を建設して治療や医員の養成にあたった。検脈、検尿、薬物投与といったヨーロッパ診断学を導入、当時五島(ごとう)(長崎県)などに行われていた漢方医学や呪禁(じゅごん)医療を圧した。1555年(弘治1)イエズス会に入会、1580年(天正8)マカオに渡り司祭に叙階された。彼の足跡はほとんど九州全土に及んでいるが、とくに横瀬浦、口之津、島原、長崎、五島(以上長崎県)、志岐(しき)、本渡(ほんど)(以上熊本県)、秋月(福岡県)には教会や学校を建てている。長年の激しい労苦のすえ天草に没した。
[磯見辰典 2018年2月16日]
『中西啓著『長崎のオランダ医たち』(岩波新書)』
ポルトガルの初代インド副王。リスボンの貴族の家に生まれ、若いときから歴代の王に仕え、1505年、初代のインド副王に任命されてインドに向かった。途中アフリカ東海岸、インド西海岸の各地を攻撃し、コーチン(現、コーチ)その他に要塞(ようさい)を建設して、ポルトガル海上帝国の基礎を築いた。1508年、エジプトのマムルーク朝の艦隊の攻撃を受けて、息子のドン・ロウレンソを失ったが、翌1509年、カンベイ湾口西岸のディウを攻撃し、マムルーク朝の艦隊を撃破して復讐(ふくしゅう)を遂げた。彼はイスラム教徒と対立しない形で香料貿易を行い、これによって王室の利益を図ろうとした。しかし、後任の総督アフォンソ・デ・アルブケルケと意見が対立し、商船で帰国の途中、南アフリカ海岸で住民に殺された。
[生田 滋]
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ポルトガル人のイエズス会士。リスボン出身。1546年外科医の免許を得た。東アジアで貿易商人として活動後,1555年(弘治1)来日した。翌56年イエズス会に入会し,私財約5000クルザドを寄付し,その一部で豊後府内(現,大分)に孤児院,病院を建て医療活動を行い,西洋医学を伝えた。横瀬浦,薩摩,有馬,五島,天草など主として九州地方で布教し,各教会の基を作った。80年マカオでパードレ(司祭)に叙階され,83年天草河内浦で没した。
執筆者:岸野 久
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1450?~1510
ポルトガルの軍人。初代インド副王(総督)に任じられ,1505年から09年にかけて,コーチンを基盤に,インド洋におけるイスラーム勢力の排除,在地の権力者との同盟関係の構築をめざす。09年,マムルーク朝艦隊をディウ沖海戦で壊滅させ,ポルトガルの海上覇権を打ち立てるも,直後に更迭され,帰路喜望峰を越えたところで先住民の攻撃を受け死亡した。
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… マヌエル王の方針は,一つはイスラム商人と対立しないような形でインドで貿易活動を行うことであり,もう一つはできる限り早くチョウジなどの産地であるモルッカ諸島に到達し,スペインに対して優先権を主張することであった。マヌエル王はまたインドにおけるポルトガル人の征服,貿易活動を統轄するために〈インド領〉を設置し,その初代副王としてフランシスコ・デ・アルメイダをインドに派遣した。アルメイダはマヌエル王の方針を忠実に実行したが,彼の後を継いだアフォンソ・デ・アルブケルケはむしろイスラム商人によるインド洋の国際貿易支配を打破しようとして,1510年にはゴアを占領し,さらにアデン,ホルムズを攻撃し,ホルムズを朝貢国とするとともに,11年にはマレー半島のマラッカ王国を占領し,翌年船隊をモルッカ諸島に派遣した。…
…このエボラは宗教的中心地で,16世紀に日本からの少年使節(天正遣欧使節)も,大司教に会うためここを訪れている。一方,この時代には世俗的な器楽や歌曲も盛んで,続く18世紀にはセイシャスCarlos de Seixas(1704‐42),アルメイダFrancisco António de Almeida(?‐1755),ソウザ・カルバリョJoão de Sousa Carvalho(1745‐98)らが,鍵盤音楽,管弦楽,歌劇に成果を示し首都リスボンで活躍した。19世紀になるとイタリア・オペラの影響が著しく,民族的な特色は後退したが,世紀の後半から20世紀にかけてケイルAlfredo Keil(1850‐1907),ビアンナ・ダ・モッタJosé Vianna da Motta(1868‐1948)らが国民楽派としての活動をみせた。…
…さらに,ヨーロッパにおいて普及しはじめていた病院を設けて,救貧・救療事業をおこなった。とくに有名なのはリスボン出身の商人L.deアルメイダで,通商旅行の必要性から多少の医術を知っていたが,日本でイエズス会に入信,豊後の大友宗麟の後援のもとに府内(現,大分市)に育児院と病院をつくった。この病院は2棟からなり,1棟は癩患者用に,1棟は一般の傷病者用とした。…
…しかも,学舎啓迪院を基盤に医学教育を行い,豊臣政権下で施薬院を復活した全宗や江戸幕府の奥医師制度を企画した曲直瀬玄朔ら後継者を育成した。 戦国・織豊期に実地医療を行った医者として,日本にはじめて《傷寒論》を伝えた坂浄運や,庶民の治療に実をあげた永田徳本,さらにイエズス会の医師L.deアルメイダらも無視できない。ことにアルメイダは日本にはじめて南蛮医学を伝え,外科療法に新風を吹き込んだ。…
…そのなかで最も重要なものは詩人コレア・ガルサンを理論的指導者とするアルカディア・ルジターナ(1756創設)で,このアカデミーによって新古典主義的作品が多く現れた。 新古典主義的雰囲気の支配するなかで,次のロマン主義文学の先駆者として重要な役割を果たしたのが,ウィーン,ロンドンで新しい思想に接した女流詩人レオノール・デ・アルメイダLeonor de Almeida(1750‐1839)である。ポルトガルのスタール夫人とも呼ばれるこのアロルナ侯爵夫人のサロンに集まった詩人のなかで,前ロマン主義を代表する詩人がゴンザーガTomás António Gonzaga(1744‐1810),ボカージェManuel Maria Barbosa du Bocage(1765‐1805)である。…
※「アルメイダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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