百科事典マイペディア の解説
アレクサンドロス[大王]【アレクサンドロス】
→関連項目アペレス|アルメニア(地方)|アレクサンドラン|アレクサンドリア(古代)|エジプト(地域)|カブール|石棺|ダレイオス[3世]|ドデカネス[諸島]|ヒンドゥークシ[山脈]|ファランクス|ヘラート|ペルセポリス|リュシッポス
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…このときアキレウスはペンテシレイアの死に顔の美しさにうたれ,その屍をきよめて敵方に引き渡し,ねんごろに葬らせたという。また東方遠征中のアレクサンドロス大王がヒュルカニア(カスピ海南岸地方)にあったとき,タレストリスなるアマゾンの女王が子種を得るべく大王を訪れ,枕を交わしたと大王の業績記録者たちが書き残しているが,《英雄伝》の作者プルタルコスはこの話を信じていない。なお,この種の〈アマゾン伝説〉は,インド,アラビア,イギリス,アイルランド,ブラジルなどにも残っている。…
…前344年から2年間は対岸のレスボス島に移り,テオフラストスらと生物学研究にいそしむ。前342年マケドニア王フィリッポスに招かれ,王子アレクサンドロスの家庭教師として7年間をすごす。アレクサンドロスが王位継承して後,アジア遠征に出発する年の前年(前335),アリストテレスはマケドニア支配下になったアテナイに帰って,北東郊外のリュケイオンLykeionに新しい学校を開く(ペリパトス学派)。…
…また工業都市としての役割も重要で,製油所,自動車組立工場,機械部品製造工場,造船所,セメント工場等が周辺に建ち並んでエジプト経済を支えている。【吉村 作治】
[歴史と文化]
アレクサンドロス大王がペルシア征討の途次エジプトに進駐した際,前331年初頭この地を卜して港市を造らせたのが嚆矢。それまではラコティと呼ぶ漁村にすぎなかった。…
…前333年秋,北シリアに進出したアレクサンドロス大王がイッソスIssos南方でダレイオス3世のペルシア軍と遭遇しこれを破った戦い。戦場の比定については現在のパヤス河畔,クル・チャイ河畔など諸説ある。…
…前331年秋,北メソポタミアに進攻したアレクサンドロス大王が,ティグリス川左岸ガウガメラGaugamēla(テル・ゴメル)付近の平原でダレイオス3世のペルシア軍と遭遇し,イッソスの戦(前333)に次いで再びこれを破った戦い。アレクサンドロスは戦闘半ばに戦場を離脱したダレイオスを,約90km南のアルベラArbēlaまで徹宵追跡したが及ばず,しかしダレイオスの権威は全く失われ,アレクサンドロスは以後正式に〈アジアの王〉を称した。…
… こうした中でギリシア人のオリエント観も変化し,もともとは単に〈非ギリシア語を話す人々〉の意味であったバルバロイという言葉の意味も変化し,ポリスの民主政の発展と,原則として奴隷がバルバロイ出身であるという事実とから,バルバロイは生まれながらの奴隷であるという考えが有識者の間に強くなり,ついにはギリシア人がオリエントを征服するのは悪いことではないという野蛮な意識が生まれるにいたった。そしてこれを軍事的天才アレクサンドロス大王が実現したのであった。
[ヘレニズム時代とローマ支配の時代]
アレクサンドロス大王のオリエント征服(前334)の後,多くのギリシア人,マケドニア人が東方に移住して多くのギリシア風都市をつくり,これを中心としてギリシア文化とオリエントの固有文化との結合が進んでヘレニズム文化が生まれた。…
…前7世紀ごろに金属貨幣が発達したのもこの地域であった。アレクサンドロス大王による東方征服とヘレニズム世界の成立によって,商業活動の範囲が急速に拡大した。インド洋から中近東を経て地中海に至る商業網が建設された。…
…ダレイオス1世の行政組織の中では,シリア・パレスティナはキプロスとともに帝国の第5総督領(〈川向こう〉)をなし,年貢として銀350タラントンを納めることになった。
[ヘレニズム・ローマ時代]
アレクサンドロス大王とペルシア王ダレイオス3世との一大決戦が,キリキア平野の南部にあるイッソスの平野で行われ(イッソスの戦。前333),それ以後シリアはギリシア人の支配下に置かれた。…
…しばしば北部のアッシリアと対比され,またバビロニア南部はシュメール,北部はアッカドと呼ばれる。その歴史は,厳密にはバビロンによるメソポタミア南部の統一をもって始まるとみるべきであろうが,以下の記述では,サルゴンによるアッカド帝国の建設によりメソポタミア南部が初めて政治的に統合された時をもってその出発点とし,アレクサンドロス大王による征服までを扱う。なお,以下に掲げるアケメネス朝以前の諸王の治世年代はすべてA.レオ・オッペンハイム《古代メソポタミア》(改訂版,1977)に付されているJ.A.ブリンクマンの年代表に従う。…
…在位,前359‐前336年。アレクサンドロス大王の父。少年時代に父アミュンタス3世死後の王位継承をめぐる争いに介入したテーバイに人質となり,この間軍事上学ぶものがあった(前368‐前365)。…
…一つは19世紀イギリスの詩人・文明批評家M.アーノルドが《教養と無秩序》において,ヨーロッパ文化の根底を成した精神的伝統の一つとして,ヘブライズム(ユダヤ教・キリスト教思想の源泉)と対置させた場合のヘレニズムで,以来広く〈ギリシア文化一般の本質にかかわる精神的基盤〉の意味に用いられる。いま一つは同じく19世紀ドイツの歴史家J.G.ドロイゼンが《ヘレニズム史》において創唱した歴史学上の時代概念としての〈ヘレニズム〉で,従来ギリシア史の長い衰亡期,ギリシア文化の質的劣悪化の時期,ローマ帝国成立までのつなぎの時代とみられてきたアレクサンドロス大王以後約300年の時代と文化は,彼以後ヘレニズム(ギリシア風文化)の名によってその固有の世界史的位置づけが確立した。ここでは後者の意味での〈ヘレニズム〉について述べる。…
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【歴史】
地理的概念として見た場合,マケドニアは現在のマケドニア共和国の領域だけでなく,ブルガリア南西部のペートリチ地方とギリシア北部地域まで含むと考えられている。この地方には,前7世紀から前2世紀にかけて,アレクサンドロス大王で有名な古代マケドニア王国が存在した。しかし,6世紀から7世紀にかけ東欧全域で起きたスラブ人の大移動の結果,バルカン半島南部もスラブ化した。…
… 伝承の中では歴史上有名な人々が邪視をもっていたといわれた。オルフェウス,ゾロアスター,ソクラテス,アリストテレス,テュアナのアポロニオス,デモクリトス,エンペドクレス,アプレイウス,ウェルギリウス,アレクサンドロス大王,アーサー王と魔術師マーリン,イブン・シーナー,R.ベーコン,教皇ベネディクトゥス8世と同9世,T.カンパネラ,G.カルダーノ,ジャンヌ・ダルク,O.クロムウェル,ナポレオン3世,J.オッフェンバックらである。またドイツにはフィンランド人とイタリア人は邪視をもつと信じる人が少なくないし,シュレジエンなどにはユダヤ人に見つめられると傷つくという迷信が残っている。…
…ギリシア伝説のエチオピア王。曙の女神エオスとトロイアの王子ティトノスの子。トロイア王プリアモスの甥。トロイア軍の総大将ヘクトルの戦死後,援軍を率いてトロイア戦争に参加し,ギリシア軍第2の勇将大アイアスと互角に戦ったあと,老雄ネストルの子アンティロコスAntilochosを討ったが,アキレウスに討ち取られた。その死体は,ゼウスに強請して息子の不死をかちとった母神の手で,戦場から故郷の地へ運ばれたという。…
※「アレクサンドロス[大王]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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[1864~1915]ドイツの精神医学者。クレペリンのもとで研究に従事。1906年、記憶障害に始まって認知機能が急速に低下し、発症から約10年で死亡に至った50代女性患者の症例を報告。クレペリンによっ...
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