精選版 日本国語大辞典 「アンカラ」の意味・読み・例文・類語
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トルコ共和国の首都。小アジア半島中央北部、アナトリア高原上に位置する。アンカラ県の県都でもある。人口320万3362(2000)。サカルヤ川上流のアンカラ川およびチュブク川に沿い、安山岩からなる丘陵が取り巻く。標高約850メートル。気候は乾燥し、年降水量は402.5ミリメートル。気温の年較差は大きい(平均気温7月23.1℃、1月零下0.2℃)。ケマル・アタチュルクによって首都に定められた当時は人口3万に達せず、市街地も北部のヒサール(城塞(じょうさい))の麓(ふもと)のウルス地区付近に限られていたが、その後都市計画が施され、南北に走るアタチュルク通りを幹線にして、クズライ地区、チャンカヤ地区などの新市街が建設された。これらの新市街は高層ビルや公園もあって町並みも美しいが、丘陵部にはゲジェコンドゥ(一夜(いちや)建て)とよばれる庶民住宅が無計画に建てられている。トルコの政治、交通、学術、文化の中心で、新市街には国会議事堂、政府諸機関、外国公館などがあり、アンカラ大学、中東工科大学、考古博物館、民俗博物館なども存在する。道路、鉄道交通の要衝で、エセンボア国際空港は北30キロメートルに位置する。製粉、食料品、車両などの工業もみられ、史跡としてはローマ時代の浴場跡、アタチュルクの廟(びょう)などがある。冬には暖房用石炭によるスモッグ公害が発生する。
[末尾至行]
古典ギリシア語、ラテン語ではアンキラAncyra、現代ギリシア語ではアンゴラAngoraという。都市の起源は古く、先史時代にさかのぼる。現在アタチュルク廟のあるアヌ・テペには、多数の住居趾(し)が発見されている。その後ヒッタイトの都市となり、さらにガラテヤ人の支配下に入った。アレクサンドロス大王は南方のゴルディオンを通過した。アレクサンドロスの帝国分裂後はポントス王国領となったが、紀元前25年ローマ帝国領に編入された。ローマ帝国のアナトリアの拠点として、アウグストゥスの功績を記した宮殿やローマ風呂(ぶろ)が建設された。ビザンティン帝国時代にはペルシアやアッバース朝の攻撃を受けた。11世紀ごろセルジューク・トルコの支配下に入り、オスマン朝は1361年にこの町を占領した。1402年バヤジト1世は、北方のチュブク草原でティームールに敗れ(アンカラの戦い)、アンカラを一時失ったが、まもなくオスマン朝に回復された。その後、城塞を中心にアナトリアの交通、商業の拠点として繁栄した。第一次世界大戦後ムスタファ・ケマル・パシャ(ケマル・アタチュルク)は、大国民議会をアンカラに招集した。1923年トルコ共和国の成立がこの町で宣言され、首都となった。以後、トルコ共和国の政治的中心地として、今日に至っている。
[設楽國廣]
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トルコ共和国の首都。ギリシア語でアンゴラ。アナトリアの隊商路の要衝として発達。第一次世界大戦までは地方的小都市。1919年12月,ケマル・アタテュルクが革命政権の根拠地とし,23年10月,大国民議会の決議で首都となった。
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…テヘランはカージャール朝(1779‐1925)の首都に定められてから人口が増大し始め,直線の道路に沿ってヨーロッパ風の新市街地が出現した。トルコでも新共和国の首都となったアンカラの発展ぶりが目覚ましく,官公庁,大学,国会,ホテルなどが次々と建設されていった。しかしヨーロッパ資本の流入による産業構造の変化は土着の商工業に深刻な打撃を与え,やがてギルド的な同職組合は解体への道をたどる。…
※「アンカラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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