アンシャン・レジームとは,フランス語で〈旧体制〉を意味する表現だが,フランス革命が産み落とした新しい社会と対比しつつ,革命によって打倒された旧来の社会体制を,こう呼んだものである。最初にこのように名づけたのは,新しいフランスの誕生に歓喜した革命の世代であり,彼らは,先立つ過去のいっさいを〈旧体制〉の名の下に断罪したのであった。やがて19世紀半ば,トックビルが《アンシャン・レジームと革命》(1856)と題する名著を著し,さらにテーヌが《現代フランスの起源》6巻(1875-93)において,革命を間にはさむ〈旧体制〉と〈新体制〉の断絶を説くに及んで,学問上の用語としても市民権をえた。
アンシャン・レジームは,社会体制を示す概念であるから,その初めと終りを明確な時点で示すことはむずかしい。その終焉(しゆうえん)については,1789年8月4日夜の〈封建制廃棄〉の宣言に画期を見ることで,おおよその合意があるが,始点をどこに見るかについては諸説に分かれる。かつては,革命に直接先立つ時代ということで,18世紀の半ば以降を対象とすることが多かったが,近年は,16世紀の初頭より革命に至るほぼ3世紀を,独自の性格を備えた社会体制とみなし,このような広い時代概念としてアンシャン・レジームの語を用いる論者が多い。以下の記述も,この広義の用語法に基づいている。この時代は,経済的には封建制から資本制への移行期に当たり,政治体制としてはほぼ絶対王政期に相応するが,以下では,この時代のフランス社会の基本的な特徴を中心に検討する。
百年戦争期におけるフランス王国の分裂状態は,戦争終結を期にしだいに克服され,フランス王権は,いくつかの幸運にも恵まれて,王国内の親族封や周辺の有力諸侯の所領を併合し,さらにルイ14世の時代には,たび重なる対外戦争によって,領域を拡大した。こうして1789年には,王国の版図は,サボアとニース伯領を除けば,ほぼ現在の六角形に近い形となっている。しかし,王権の下にこのように統合されはしたものの,これら諸地域はそれぞれ固有の歴史的背景を担っており,言語や習俗はいうまでもなく,政治機構や租税制度に至るまで,各地域固有の制度や慣行を保持していた。ロアール川を境とする北フランスと南フランスの間には,言語的にも法的にも大きなコントラストがあったが,さらに,それぞれの内部で,ノルマンディー,ブルターニュ,ブルゴーニュ,ラングドックといった諸〈地方province〉が,固有の伝統を持つと同時に,制度上も数々の地方特権を保持して,中央に対する独自性を主張していた。それだけに郷土意識も強烈で,地方特権を守るため,しばしば中央に対する反乱が引き起こされたし,国王軍の兵士の間でも,他地方に派遣されると脱走兵が続出するといった事態が生じた。国民意識の形成は,きわめて徐々たるものにすぎない。
この時代には,精度の高い〈人口調査〉が存在しないから,推測に拠らざるをえない部分が多いが,フランスは,中世末の危機による人口減少から,16世紀に急速に回復したことは疑いない。それは,ときに〈穀倉の中のネズミのように〉と形容されるほどのものであった。こうして16世紀後半には,総人口は1500万~2000万の水準にまで回復したと推測されている。この人口増加の趨勢は1630-50年ごろまで続くが,その後ほぼ1世紀にわたる停滞の時代を迎える。ルイ14世の最盛期は,人口の面では停滞ないし減少の時期に当たっており,17世紀末葉においても人口は2000万に達していない。1730-50年ごろまで続くこの停滞は,18世紀後半に至り,経済の長期的な発展に対応しつつ上昇局面に転じ,フランス革命の初期段階においては,ロレーヌとコルシカの併合による100万の増加を含め,ほぼ2600万に達した。
おおまかな推計によれば,17世紀末葉,イングランドは500万~600万,スペインは600万~800万,ハプスブルク家の所領は800万程度とされているから,その頃すでに2000万近い人口を擁したフランスは,ヨーロッパ諸国の中で群を抜いている。また,人口密度の点でも,北イタリアやネーデルラントのような都市密集地を別とすれば,近隣諸国に比し高い水準にあった。
フランスの人口の圧倒的部分は農村人口であった。2000人以上の集落を都市とみなしても,都市人口は17世紀末で15%,18世紀末でも20%に達していない。首都パリだけが例外的な大都市で,17世紀末50万,革命前夜には60万を数えた。第2位以下のリヨン,マルセイユ,ルーアン,トゥールーズなどは,10万前後にとどまっている。しかし,フランスを特徴づけるのは,各地方に中心となる都市があり,その周辺に人口1万程度の中規模都市がバランスよく分布している点にあり,都市人口の比率は高くないものの,都市が果たした政治的・経済的・文化的役割は,その数字が示す以上に大きかった。
この時代の人口動態の特徴は,〈多産多死〉の前近代型であり,〈少産少死〉の近代型とは対照的であった。伝統的社会では毎年のように子どもが生まれていたというかつての通念は正しくないが,一般に2年に1人程度の出産リズムが広く認められており,現在よりはるかに多産である。社会の上層では,早くから産児制限の試みが見られたが,農村にそのような傾向がはっきり見られるのは,一部の先進地域(ノルマンディーなど)を別とすれば,18世紀末になってからであり,少産型への移行は19世紀の現象であった。経済の停滞や人口圧への対応は,むしろ,結婚年齢の変動を通じて行われた。とくに女性の結婚年齢の上昇は,出産率を確実に減少させるからである。16世紀のような人口回復期には,結婚年齢がやや低くなっているが,アンシャン・レジーム期は一般に晩婚であり,男は26~28歳,女は24~26歳が一般的な初婚年齢であった。
高い出生率に対応して,死亡率もまた高い。大まかにいって,100人のうち25人が1歳未満,25人が1~20歳,25人が20~45歳で死亡し,60歳まで生きるのは10人程度にすぎない。それだけに村の古老には重みがあったわけである。晩婚という事情もあって,生まれた子どものうち結婚年齢にまで達するのは半数にも満たない。
死亡率が高かったため,夫婦のいずれかが早く欠ける事例が多かったから,子どもの数は5人程度に終わるのが一般である。生まれた子どもの〈間引〉の事例はきわめてまれだが,〈棄児(すてご)(捨子)〉の数は非常に多い。とくに都市では,18世紀の間にこの現象は著しくなるが,この中には,農村から都市に出て産み落とされた私生児も,相当数含まれていたと推定されている。
家族の形態としては,北フランスでは核家族が優勢だが,南フランスでは,数世代の夫婦や未婚者が共住する複合大家族が,かなりの率で存在していた。この点は相続慣行とも関連しており,北フランスでは均分相続が優勢なのに対し,南フランスでは遺言による一子優先が一般的で,家産の維持や大家族制の存続を支えていた。家長の権限は強大であり,妻は夫に従い,子は父に服する。1556年のアンリ2世の王令により,男は30歳,女は25歳になるまで,両親の同意なくしては結婚できなかった。このような,家長の権威の下にある〈家〉こそが,アンシャン・レジーム社会の基本細胞であった。
家を起点とするアンシャン・レジーム社会は,さまざまな地縁的・職能的結合の網の目によって覆われていた。村落共同体や同職ギルドは,そのよく知られている例だが,これらの団体はそれぞれ法的地位を付与されて〈社団corps〉を形成する。このような多種多様な社団的結合に立脚しているところに,アンシャン・レジーム社会の特質があった。これらの社団を大きく包み込むものとして,中世以来の伝統的な身分制秩序が受け継がれていた。第一身分としての聖職者clergé,第二身分としての貴族noblesse,そしてブルジョアジー以下の第三身分le tiers étatがそれである。革命前夜の総人口2600万のうち,聖職者は約12万,貴族は約35万にすぎないが,彼らは,王税を免除された特権階層を形成していた。
各身分の内部においては,しかし,深刻な階層分化が進行している。第一身分である聖職者にあっては,司教や修道院長など高位聖職者と,貧しい村の司祭との間には,越えがたい社会的断層があった。高位聖職者の多くは貴族の子弟であり,教会所領の収入や十分の一税の主要部分は彼らの手に握られていた。これに対し,村の司祭は,しばしば農民の出身であり,経済的にも農民の生活と大差はなかった。農民が鍬を手に立ち上がるとき,一揆の先頭にしばしば村の司祭の姿を見いだすのも,そのゆえである。
貴族身分の実態も変貌しつつあった。中世末以来の経済的発展を通じて,富裕なブルジョアは没落貴族より所領を買って領主となり,高等法院などの高級官職に就くことによって,しだいに貴族身分へと滑り込んでいった。これらの新興貴族は,しかし,〈法服貴族〉と呼ばれ,中世以来の由緒正しい〈武家貴族noblesse d'épée〉からさげすまれることになろう。モリエールの描く《町人貴族》のジュルダン氏は,貴族らしくふるまうために,どれほど苦労したことか。社会の評価の基準は,財産の多寡よりも,依然,出自や家柄にあったからである。
第三身分の最上層に位置するブルジョアジーについてみれば,その一部は土地や官職を手がかりに貴族へと成り上がっていったが,商業や金融に従事するブルジョアたちは,商業革命の時代と呼ばれる16世紀以来着実に力をつけ,身分こそ第三身分のままにとどまったものの,コルベールの重商主義政策の下では,特権商人や特権マニュファクチュアの経営者として,国家の援助の下に産をなす。誇り高い剣の貴族たちも,先祖伝来の所領に〈肥やしを与えるため〉に,さげすみながらも富裕な商人の娘をめとらなければならないだろう。しかし,第三身分の圧倒的多数は,このような特権的地位とは関係のない,農民や手工業者たちであった。この両者の生活を,村と町の両面において検討してみよう。
農村の生活の単位は,村の教会を中心とした〈聖堂区paroisse〉であった。17世紀末にボーバンは,約3万6000の聖堂区を数えているが,それはほぼ500~1000人程度の住民を持つ地域共同体である。村の生活の中心は教会であった。住民たちは日曜ごとに,村の教会の大ミサに集まった。村人の間の相談ごとがあれば,ミサのあと教会前の広場や近くの酒場で,村の寄合いが開かれるだろう。年に1度の村祭ともなれば,教会前の広場は,出店や大道芸人の小屋掛け芝居で大にぎわいとなるだろう。領主が村に住む場合は,もちろん〈領主様〉が村の中心的存在となる。しかし,この時代となると,領主は都市や宮廷に住み,村には代官だけが置かれていることが多かった。領主は直領地として,比較的規模の大きいいくつかの農場と牧草地や森林を確保し,その他の部分は,農民保有地として農民に分与し,その代償に領主地代を生産物または貨幣で徴収していた。地方によっては,領主裁判権がなお活発に機能しており,土地をめぐる係争だけではなく,刑事裁判まで行っている例もある。鳩小屋を持つことや狩猟の権利は,領主だけに許される身分特権であり,農作業や作物に被害を受ける農民たちの不満の原因ともなった。
農民の間にも階層分化が進行していた。100軒ほどの世帯から成る標準的な村を想定してみよう。まず頂点に,1人か2人の〈大借地農〉がいて,たいてい,領主所領の大農場を経営し,りっぱな犂や役畜を所有している。彼らはしばしば領主の地代徴収を請け負い,領主裁判所があれば,ときに領主の代官をも務める。その下に,約10人ほどの〈富農〉がいる。彼らはまずまず自立が可能な層である。その中には,穀物や木材を扱う商人となったり,村の酒場や旅籠(はたご)の経営をする者もいて,相互に縁組みを結び一種のカーストを形成する例も見られる。その下には,〈ブドウづくり〉とか〈手間百姓〉とか呼ばれるグループがあり,これが村の住民の大多数を占める。彼らは自分の経営する土地だけでは生活が成り立たず,犂や役畜も持たぬ者が多かったから,富農から牛馬や農具を借り,代償として取入れや麦打ちの手伝いに行く。そして最下層には,10人ばかりが小屋住みの水飲み百姓。彼らは仕事を求めて歩くが,その生活はほとんど〈物乞い〉に近い。なおこのほかに,馬具屋,車大工,桶屋,鍛冶屋,パン屋,仕立屋などの手工業者が,村の生活にはつきものであった。
中世以来,都市は市壁に囲まれており,町の中心には,教会と市庁舎がある。都市の自治権は絶対王権の強化とともに縮小されてしまうが,それでも市庁舎は市民団結の象徴であった。司教座聖堂や大学が置かれている都市や,地方長官府,高等法院などの所在地では,聖職者や国王役人が重要な役割を果たすが,一般の都市で住民の中核をなしていたのは,商人や手工業者であった。彼らは,それぞれ職種に応じて同職ギルドを結成しており,その数は驚くほど多い。どのギルドも,詳細な規約を設け,特権擁護に最大の努力を傾注した。手工業ギルドでは,伝統的に,親方,職人,徒弟の階層制が設けられており,一定年限の修業を経て昇進するシステムであった。しかし,アンシャン・レジーム期には,親方のポストはほとんど世襲化してしまい,職人から親方への道は極度に狭いものとなった。そのため職人層は,親方とは別の組織をつくろうとし,両者の間に抗争が激化した。
町には〈週市marché〉が立ち,ときには〈大市foire〉が開かれた。市(いち)が立つ日には,小麦の大袋を馬の背に積む農民や,村では手に入らない道具などを求めてやってくる近隣の村人たちでにぎわった。市はまた同時に,大道芝居や臨時の酒場などが開かれる,出会いの場でもあった。こうして,都市は,地域社会の経済的・社会的交流の中心として,重要な役割を担っていた。
アンシャン・レジームの社会は,特権を付与された多種多様の〈社団〉がつくり出す階層秩序に立脚していたが,18世紀後半に入ると,こうした社団的編成そのものが,しだいに動揺し始める。農民層の分化や,親方と職人の対立に見られるように,社団内部の結合の紐帯が弛緩し始めると同時に,啓蒙思潮に代表されるような新しい世界像の展開に伴い,各社団を一連の価値序列のうちに位置づける〈侮蔑の滝cascade des mépris〉の構造そのものが動揺し始める。王権は,さまざまな〈改革〉によって,そのほころびを繕おうとするが,旧来の価値体系に執着する旧貴族や諸特権団体の抵抗に遭い,実現しない。こうして,ついに,1789年の大破局を迎えることになるが,この革命により,アンシャン・レジーム社会の根幹をなす特権の体系そのものが破砕され,〈旧体制〉は崩壊する。
執筆者:二宮 宏之
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1789年のフランス革命以前の政治・社会状態をさす。「旧制度」と訳されるこの用語は、憲法制定国民議会の法令などに現れているが、すでに1788年ごろから体制批判のパンフレットに使用されている。1790年ミラボーは国王への書簡のなかで「諸事物の新しい状態を旧制度と比較して御覧ください」と記しているが、立憲君主派から山岳派に至るまで、旧制度とは、革命によって打倒されなければならない政治・社会体制であった。この発想には、古いものが一掃されることでより優れた新しいものが創造されると考える進歩主義思想が表明されている。
このような旧制度観は、革命観と革命行動に密接に関連するものであるが、かならずしも旧制度といわれる時代の実態を表示しているとはいえない。革命以前といっても、通常、旧制度とは16、17、18世紀の体制をさしている。この3世紀間に共通した特徴は、社会的には、慣行と伝統文化と互助機能を介して成立する農村共同体や都市内諸団体を生存基盤とする社団的社会を形成していることにあり、政治的には、これらの諸団体を僧侶(そうりょ)、貴族、特権都市の市民という3身分に固定し、そのおのおのに助力と協賛を求める王権が、諸身分団体および諸地方諸都市のそれぞれ固有の慣行と伝統文化を特権として保障する公権力的性格を主張することにある。そして、社団的結合が緩み、その解体が進行する反面、王権は諸団体や諸地方、諸身分の特権を縮小し、いっそう公権力的性格を強化し、斉一的支配へと志向するのがこの時代である。
[千葉治男]
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フランス革命により倒された政治・社会体制。現在では,通常,16世紀ルネサンスから18世紀フランス革命までの経済・社会・政治的体制を包括的にさして用いられる。転じて,一般に革命や変革以前の(特に前近代的な)体制の意味でも使われることがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ジャンヌ・ダルクの登場は,決して祖国愛の表れといったものではないが,広域的な連帯を促すシンボルとしての意味をもったといえるだろう。
[アンシャン・レジーム]
16世紀から革命までの約3世紀を,今日の歴史学は,アンシャン・レジームと呼ぶ。これは,いうまでもなく,革命以後の新体制に対して旧体制を意味する語であるが,必ずしも否定的な意味合いでのみ用いられるのではない。…
※「アンシャンレジーム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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