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デジタル大辞泉
「アンジェリコ」の意味・読み・例文・類語
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アンジェリコ
Angelico, Fra; Fra Giovanni da Fiesole
[生]1400頃. ビッキオ
[没]1455.2.18. ローマ
イタリアの画家でドミニコ会修道士。本名 Guido di Pietro。1417年にはすでに画家で,フィエゾーレの修道僧になったのは 1420~22年頃とされる。その後 10年間ほど,中部イタリアの各修道院で過ごし,1436年,フィレンツェのサン・マルコ修道院に移った。画業は,初めロレンツォ・モナコのゴシック風(→ゴシック美術)から出発し,テンペラ画法で輝くような色彩と丹念な細部描写をみせた。そのことは『聖告と三王礼拝』(1425~26,サン・マルコ美術館)からもよくうかがわれる。やがて,ドナテロやマサッチオらの影響で量体表現と遠近法を会得。その成果は『聖母戴冠』(1428頃,ウフィツィ美術館)における各人像表現と空間構成などに早くも現れている。1433年の『リナイウォーリの聖母』(サン・マルコ美術館)や 1435年頃の『キリスト降架』(同)では,すでに自然主義(→自然主義美術)への傾倒が認められる。そして,サン・マルコ修道院での一連の壁画では,完全にルネサンスの画家になりきっている。さらに 1445年,バチカン宮殿内ニコラウス5世礼拝堂の壁画装飾,オルビエト大聖堂の壁画装飾も手がけた。またフィエゾーレの修道院長も務めたが,晩年はローマのサンタ・マリア・ソープラ・ミネルバの修道院で過ごし,そこで没した。
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「アンジェリコ」の意味・わかりやすい解説
アンジェリコ
イタリアの画家。本名グイド・ディ・ピエトロGuido di Pietro。1407年フィレンツェ北郊フィエゾレのドミニコ会修道院に入り修道士(フラfra)となる。やがて各地の聖堂で活動し,初期ルネサンスの重要な画家の一人となった。ゴシック趣味を残しながら,明るい色彩と明快な画面構成をもち,宗教的感情にあふれる宗教画を描いたほか,J.ポロックの〈ドリップ・ペインティング〉を思わせる異様な作品もある。代表作に《リナイオーリの祭壇画》(1433年,フィレンツェ,サン・マルコ美術館蔵),また《受胎告知》や《キリストの変容》を含むサン・マルコ修道院の壁画群(1440年代前半)などがある。
→関連項目バルドビネッティ
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アンジェリコ【Fra Angelico】
1400ころ‐55
イタリアの画家。僧名フラ(フラーテ)・ジョバンニ・ダ・フィエゾレ,俗名グイド・ディ・ピエトロ。フィレンツェ近郊のビッキオ・ディ・ムジェロ生れ。1417年にはいまだ俗人であったが,すでに画家となっていたことが知られる。おそらく18‐20年に,フィレンツェ北郊の町フィエゾレFiesoleのドミニコ会の修道士になったのであろう。画家として本格的な活動を始めるのは30年代に入ってからで,《リナイオーリの祭壇画》(1433ころ),コルトナの《受胎告知》(1434ころ),ルーブルの《聖母戴冠》(1435ころ)などを描く。
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アンジェリコ
Fra Angelico (本名 Guido di Pietro)
1400?~55
イタリアの画家でドミニコ修道会の修道士。キリスト教の信仰を清純な絵画に描き続けたが,ゴシック様式から脱皮し,初期ルネサンスのフィレンツェ派の画家として多くの傑作を残した。代表作はフィレンツェのサン・マルコ修道院の壁画。
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