ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。同州の西縁、ベルギー、オランダとの国境近く、同名の盆地内に位置する。フランス語名エクス・ラ・シャペルAix la Chapelle。人口24万4400(2000)。ケルンに至る古代のローマ道路に沿って立地した歴史的な都市。現在もケルンからベルギー、フランスに通じる国際鉄道や、アウトバーンE5が通る国境の交通要地である。織物、針、機械、電気機器、ガラスなどの工業が行われ、工科大学を主とする大学がある。また11の温泉(泉温72℃)があり、古来温泉地としても知られる。市の中央部をなす旧市城は円形で、12世紀末および14世紀の囲壁跡が二重の環状道路となり、町の中心部は有名なドームや市庁舎、市場、広場で構成され、南に泉と公園が接する。内環道路の外側に中心商店街アダルベルト通りや市立劇場(1825)がある。14世紀の囲壁の名残(なごり)としてポント門(1320)が残され、旧市城の北東側に広大な温泉公園がある。
[小林 博]
かつては神聖ローマ帝国の帝国都市であった。1世紀以降ローマ人により温泉保養地として利用されていたが、794~795年カール大帝がこの地に王宮を建設し、死後はその宮廷礼拝堂に葬られた。881年ノルマン人による破壊を受けたのち、936年オットー1世が即位して以降、1531年のフェルディナント1世に至るまで、歴代ドイツ国王はこの地で即位する慣例となった。1166年フリードリヒ1世から都市法や種々の特権が賦与され、自由都市としての基礎が固まった。1348年以降、都市貴族の寡頭支配に対しツンフト(同職ギルド)闘争が勃発(ぼっぱつ)、1450年の特許状により、手工業者の市政参加が認められた。宗教改革期には都市参事会内部で新旧両教派の紛争が生じ、そのため二度まで皇帝による破門を招いたが、結局、紛争は旧教派の勝利に終わった。1814~1815年のウィーン会議によりプロイセン領に編入されてライン州に所属し、1946年以降はノルトライン・ウェストファーレン州の所属となった。
[平城照介]
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ドイツ,ノルトライン‐ヴェストファーレン州にある都市。フランス名エクス・ラ・シャペル。ベルギーに近接する古都で,1世紀にはすでにローマ人の集落があった。カール大帝がこの地を好んで王宮を営み,カロリング・ルネサンスの中心であった。またドイツ王は「アーヘンの椅子に座らねばならぬ」慣行から,9世紀以後16世紀まで歴代の戴冠式がここで行われた。1166年帝国都市となった。
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…しかしながら古代文化とキリスト教とを両輪としたカール大帝時代の文化政策は,バイキングやイスラムの侵攻を受けることの少なかったドイツの地にもっとも多く受け継がれ,その後のドイツ文化形成の大きな基礎となった。 カール大帝がアーヘンの地に建立させた集中式プラン(八角形)の宮廷礼拝堂(805献堂)は,ラベンナのサン・ビターレ教会を手本として,フランク人メッツのオドOdo von Metzによって造営されたものである。ゲルマンの文化はこのころすでにモニュメンタルな石造建造物を独自の力で造営できる技術段階に達していたことが知られる。…
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