イギリスアフガニスタン戦争(読み)イギリスアフガニスタンせんそう

改訂新版 世界大百科事典 の解説

イギリス・アフガニスタン戦争 (イギリスアフガニスタンせんそう)

イギリスとアフガニスタンの3回にわたる戦争(1838-42,1878-80,1919)。アフガン戦争とも呼ばれる。インドの支配者たるイギリスは,中央アジアを征服しつつ南下するロシア勢力を,インドに対する脅威とみなした。そしてインド保全のための防壁としてアフガニスタンを征服しようとし,1838年10月,シムラ宣言を出して,アフガニスタンに対する事実上の宣戦布告を行った。翌年,イギリス軍はカンダハールを経てカーブルに入った。しかし駐留軍に対するゲリラ活動が頻発し,42年1月,撤退するイギリス軍はアフガン諸部族の攻撃を受けて潰滅した。これが第1次イギリス・アフガニスタン戦争である。78年,イギリスは再び軍隊を送って第2次戦争を起こし,翌年ガンダマク条約を結んで,この国の外交権を掌握,80年イギリス軍隊はカーブルから撤退した。1919年5月,第1次世界大戦後のイギリスの疲弊とインドの不安定に乗じて,今度はアフガニスタンがインドに攻めこんだ。これが第3次戦争で,同年8月,ラーワルピンディー条約が結ばれ,アフガニスタンは外交権を回復して独立した。
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百科事典マイペディア の解説

イギリス・アフガニスタン戦争【イギリスアフガニスタンせんそう】

英国アフガニスタンの間の3次にわたる戦争。アフガン戦争とも。(1)第1次(1838年―1842年)。ロシアの南下政策に対して,これを脅威とする英国が,ドースト・ムハンマド王(1826年―1863年)をめぐる策謀に基づいて出兵した。この出兵はアフガニスタン国民の反感を買い,英国は降伏した。(2)第2次(1878年―1880年)。ドースト・ムハンマドの死後王位継承にかかわる紛争に英国が介入。1879年5月のガンダマク条約により,アフガニスタンは英国の保護領となった。(3)第3次(1919年)。アマーヌッラー王は即位と同時に独立と近代化を宣言した。これに対して英国が宣戦布告した。アフガニスタンは敗北したが,独立の条件をかちとり,1921年完全に独立した。
→関連項目イギリス・イラン戦争シク戦争ハイバル[峠]

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世界大百科事典(旧版)内のイギリスアフガニスタン戦争の言及

【アフガニスタン】より

…そこでイギリスは2度にわたって軍隊をアフガニスタンに派遣し,カーブルその他の東部の主要都市を占領した。これが第1次,第2次イギリス・アフガニスタン戦争(1838‐42,78‐80)である。2度とも,カーブル駐在の外交代表が殺害されたり,戦闘において軍隊が敗北したりして,イギリスは大損害を被った。…

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