トルコ西部にある最大都市。人口約1400万人。欧州とアジアにまたがり、ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国の首都として繁栄した。1923年のトルコ共和国建国に伴い首都が内陸部のアンカラに移った後も商業や文化の中心地で、国際的な観光都市でもある。2020年夏季五輪では、東京と招致を争った。(共同)
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トルコ西端,ボスポラス海峡を隔ててアジアとヨーロッパにまたがる歴史的都市。トルコ最大の商業・文化都市。人口956万(2003)。古代ギリシア・ローマ時代はビュザンティオンByzantion,ビュザンティウムByzantium,ビザンティン時代はコンスタンティノポリスKōnstantinoupolis/Constantinopolisの名で知られ,トルコ語で正しくはイスタンブルとよばれる。コンスタンティノポリスの英語名コンスタンティノープルConstantinopleも旧称として広く使われている。
ボスポラス海峡のヨーロッパ側南端部,北を金角湾,南をマルマラ海で挟まれた半島のさき,現代のトプカプ宮殿の地点に,前659年(カエサレアのエウセビオス伝承)ないし前668年(ヘロドトス伝承)に,メガラ人により,ギリシア人植民市として建設されたといわれる。アケメネス朝のダレイオス1世のスキタイ遠征から前478年までペルシアの,続いてアテナイの支配をうけた後,アテナイとスパルタの対立にまきこまれ,そのいずれかの勢力に属することになった。漁と関税で経済的に豊かであった。前340-前339年マケドニア王フィリッポス2世に包囲されたが,その際の守護女神ヘカテのシンボル,三日月と星は,市の貨幣に刻まれ,ギリシアを経てイスラムに伝わった。前3世紀ケルト人の侵入を被った後,前2世紀ローマ帝国に編入され,戦略上の重要地点として市は特権的地位を享受した。この特権は,ペスケンニウス・ニゲルの反乱に荷担してセプティミウス・セウェルス帝の包囲(193-195)をうけ降伏した際に取り上げられ,市は破壊されたが,まもなく同帝の手で復興され,0.7km2の旧市域は2倍に拡大された。
行政,軍事の必要からローマ帝国東半部に第二の新しいローマ建設地を求めていたコンスタンティヌス1世(大帝)は,ビュザンティオン近くの海戦でリキニウスを破った直後(324),ここを新首都建設地に選んで自らの首都計画の構想を実施に移した。新都は,彼の名にちなみ〈コンスタンティヌスの都〉と名づけられた。コンスタンティヌスの街は,まだ建設途上の330年5月11日開都式を挙げ,第4回十字軍の占領期(1204-61)を除き,1453年5月29日オスマン帝国のスルタン,メフメト2世の入城まで,ローマ・ビザンティン帝国の首都として,たび重なる異民族の攻撃に対し不落を誇った。
西方のローマに見合うこの東方の新首都づくりのため,コンスタンティヌス帝は市域を4倍の6km2に拡大してそれを城壁で囲い,セウェルスが着工した競馬場(5万人収容)を完成するとともに,かたわらのフォルム・アウグスタエオンを中央広場としてそこに元老院建物,迎賓館,宮殿(12世紀に首都北隅のブラケルナイ宮殿に宮廷が移るまで,歴代皇帝によって,改修・拡張された)などを建て,聖ソフィア教会(ハギア・ソフィア)建設用地を定め(ユスティニアヌス1世のとき実現),また円形のコンスタンティヌス広場を都市生活の中心としてそこに都市行政のための第二元老院建物,大バシリカ,官庁などを設け,城壁近くに聖使徒教会堂(アポストレイオン)を建てて,歴代キリスト教ローマ皇帝(ビザンティン皇帝)の廟墓に定めた。その他,郊外の水源から宮殿まで水道を引き,エジプトからの穀物荷揚げのため,エレフテリオス港をつくった。この建設工事と並行して同帝は,ここに移住する元老院議員にアナトリアの皇帝御料地から土地を与え,また持家を建てる市民に国営パン工場から無償で,その他の一般市民にも廉価でパンを支給するなど,人口誘致のための優遇政策を講じた。
コンスタンティヌス大帝の新首都建設計画が後継者たちのもとで引き続き実施に移されるなかで,建設用地は手狭となり,急速な人口増大(建設後70年で4倍の20万に達したといわれる)とあいまって,413年テオドシウス2世は市域をさらに2倍に拡大して12km2とし,金角湾からマルマラ海に及ぶ全長7kmの大城壁で囲った。ただ新市域は,ビザンティン帝国の全時期を通じてすべて居住されたわけでなく,農村的景観が残された。
コンスタンティノープルの主教座は,新首都のそれにふさわしい格式をしだいに獲得した。すなわち,ここで381年開かれた全国宗教会議(第1回コンスタンティノープル公会議)では栄誉上ローマのそれに次ぐ地位が,451年のカルケドン公会議では,トラキア,アシア,ポントゥス(ポントス),ならびに今後布教されるべき蛮族居住地域に対する教会管轄権が認められ,ユスティニアヌス1世のときには,ローマ帝国の五大総主教座の一つの地位が与えられた。ここには,ビザンティン帝国の全期間を通じて,記録からたどりうる限り,ハギア・ソフィア以下の485の教会と,325の男・女修道院が数えられ,またキリスト,預言者,聖人,殉教者などの遺物が多く集められ,中世キリスト教世界における巡礼の一大聖地であった。
425年には,ギリシア・ラテン文献学のほか,哲学,法学の講座をもつコンスタンティノープル帝国大学が設けられ,その後衰退のたびに復興されて,中世初期を通じ古典文化の伝統をひとり護持する中心地となった。コンスタンティノープルにはまた,ギリシア古典を文学一般の手本と考え,その模倣を使命と感ずる文人が集まっていた。彼らは,社会の各層に幅広く分布し,ビザンティン文化の主要潮流をつくりあげ,聖職者身分や修道士が文化の担い手となった同時代の西ヨーロッパとは際だった対照をなした。
アジア対岸までも首都圏に含み,ローマ同様七つの丘と14の地区をもつコンスタンティノープルは,新首都とされてから5世紀のうちに,国境の軍営地に代わって皇帝が恒常的に住む場所となり,宮廷生活は根付いて華やかな儀式がくりひろげられ,官僚機構も整備されて,軍隊の恣意的支配に取って代わった。だがとりわけ重要なのは,都市生活の発展とともにコンスタンティノープルには,中世初期としては例外的に多数の人口が集中した(6世紀で50万といわれる)ことであり,その結果,首都民は政治的にもはや無視できない存在となり,事実ここで首都民の参加のもとに,ローマ皇帝推戴という国制行事が行われた。首都民は社会的に,国家高官でもある元老院議員などの上層,国家や教会に仕える書記,学校教師,文人,商工業者,土地所有者などの中層,そして日雇労働などでその日暮しをする無産者や奴隷などの下層から成っていたが,彼らは全体としてみれば,政治に情熱を燃やし,党派の結成・離散に明け暮れる地中海的人間であり,皇帝が革命によって失脚するたびに,社会的ピラミッドの頂点から底辺にかけて,大幅な上昇・下降が繰り返され,社会的流動性が著しかった。宮殿から通ずる階段を登って,背中合せの競馬場のローヤル・ボックスに姿を現す皇帝と,スタンドをうめる市民との間で,政治的緊張のさなかに交わされる政治的対話は,その端的な表れであった。
ヨーロッパとアジア,黒海と地中海の接点に位するコンスタンティノープルは,世界中から商人が集まり,ギリシア語とならんでペルシア語,ラテン語,アラン語,アラビア語,ロシア語,ヘブライ語などの会話が交わされる,国際貿易の中心地であった。コンスタンティヌスの広場と牡牛広場との間の部分の〈中央大路〉,ことに〈ラムプの家〉とよばれている建物は一日中活気に溢れ,金角湾の船着場にはさまざまの国から来た船がいかりを下ろしていた。コンスタンティノープルが商工業活動の中心であったことを示す,《市総督の書》といわれる10世紀の法令集によれば,首都住民に食料品や生活必需品を供給する各種商人ギルドのほか,絹織物職人が専門工程の職種ごとにギルドに組織され,その他亜麻布や皮革の生産にたずさわる職人,そして登記所書記,両替商,貴金属細工職人までがそれぞれのギルドに組み入れられ,国家の細かい統制がこれらギルドを通して行われた。
コンスタンティノープルを訪れる外国商人は高額の関税に加えて,取扱商品,滞在条件について厳しい規制に服したが,その弛緩の端緒となったのは,1082年アレクシオス1世がノルマン人に対抗するため,艦隊援助を受ける代償としてベネチアに与えた経済的特権である。ベネチア商人はその結果,コンスタンティノープルを含むビザンティン帝国の全港湾で,租税を納めずに,あらゆる商品を自由に扱うことができるようになったうえ,コンスタンティノープルの金角湾岸に多数の仕事場と三つの上陸地点を含む特別の居住区を与えられ,この先例は1111年にはピサ,55年にはジェノバの追随するところとなった。彼らの経済的独占に対する首都民の怒りは,しばしば暴動化した。だがその結果彼らの地歩はいっそう強まるだけであった。こうしたコンスタンティノープルにおける国家統制のひびわれと,イタリア商人の進出に加えて,中東における十字軍国家の成立の結果,オリエントの商品がシリアから直接西ヨーロッパに送られ,国際貿易路から取り残されたコンスタンティノープルの経済的衰退は決定的となった。国内的にも,11世紀のコンスタンティノープル首都民の政治的高揚につづき,同世紀末以後のビザンティン帝国の全般的な変化のなかで,この首都の社会的流動性も失われていった。
執筆者:渡辺 金一
11世紀末以後,中央アジア,イランからアナトリアへ移住を始めたトルコ族は,1299年にコンスタンティノープルからわずか250kmほどのソユットSöğütにオスマン帝国を建国し,ブルサ(1326),ニカエア(現,イズニク。1331),ニコメディア(現,イズミト。1337)など北西アナトリアの主要都市を攻略してアナトリアの通商権をビザンティン帝国から奪い取った。1354年にはビザンティン帝国の内紛に乗じてバルカンに進出し,アドリアノープル(現,エディルネ。1361ころ),ソフィア(1385),ニコポリス(1396)を征服してその領土を拡張し,15世紀を通じてブルガリアとセルビアをほぼ掌中に収めた。その結果,コンスタンティノープルはアナトリアとバルカンとの両面から挟撃され,その陥落はもはや時間の問題となった。この頃になると,その人口も5万~7万ほどに減少し,財政と経済はジェノバ人,ベネチア人ら外国人商人の押さえるところとなった。
1453年5月29日,40日余の激戦の末,オスマン帝国軍は市壁を破って入城し,ビザンティン帝国は滅亡した。オスマン帝国のスルタン,メフメト2世は,ただちにこの町を帝国の新しい首都とするとともに,その名をイスタンブル(ギリシア語で〈町へ〉を意味するイスティンポリンIstinpolinに由来する)と改名し,ハギア・ソフィアをモスクに改築(現,アヤ・ソフィア)させた。スルタンは,これにつづいて新首都の再建事業に乗り出し,まず征服後市内にふみとどまった旧市民の生命・財産の安全を保証するとともに,アナトリアとバルカン領土内に住むトルコ人,ギリシア人,アルメニア人,ユダヤ人,ブルガリア人,セルビア人などの富裕な商人や職人を強制的に移住させた。征服後25年間に人口は10万に回復したが,ムスリムと非ムスリムとの人口比はおよそ6対4であったと推定されている。スルタンは,ギリシア正教とアルメニア教会の両総主教座,ユダヤ教のラビ長職を復活させ,これら非ムスリム住民に各宗教共同体の内部自治を認めた(ミッレト制)。15世紀末には,南ヨーロッパ方面から迫害・追放された多数のユダヤ人が移住した。一方,アラブ,イラン,中央アジア,インド,アフリカ各地から出世,雇用,商業の機会を求めて来住するムスリムも多かった。移住者を定着させ,その生活を維持させるための社会施設は,他のイスラム諸都市と同様,ワクフ(寄進財産)制度に基づいて行われたが,イスタンブールの場合は,モスク,メドレセ(マドラサ。学院),病院,救貧院,給水施設などの宗教・福祉施設と,これらの施設の経費を賄うために営利目的でつくられたパザールpazar(バーザール。市場),キャラバンサライkervansarayı(隊商宿),ハンhan(ハーン。店舗,倉庫,宿を兼ねる施設),ハマムhamam(ハンマーム。公衆浴場)などとを集中的に建設するイマーレトimāret(もしくはキュッリエkülliye)形態をとる場合が多く,それらはオスマン王家や高官ら支配層の個人的喜捨によって建設された。メフメト2世,セリム1世,スレイマン1世,アフメト1世のイマーレトはその代表的な例である。住民はそれらの施設,とりわけモスクやメスジド(金曜日の集団礼拝の行われない小モスク)を中心に街区(マハッレmahalle。ハーラ)を形成した。キリスト教徒の場合は教会を中心にした。その数はメフメト2世の治世末期には250余に達していた。ただし,イスタンブールの街区は,カイロやダマスクスなどアラブ都市の街区ほど強固な経済的・社会的統合体をなさず,街区代表の選出や住民の社会的共同意識がないわけではなかったが,それも行政の側からつくられた枠組みとしての側面が強かった。アラブ諸都市と,イスタンブールの街区組織のこのような質的相違は,トルコ人住民自身が支配民族に属したこと,強大な権力機構,ゆるい家族構成,庭園や農園の多いこの町の農村的景観などと関連するものと思われる。
メフメト2世とそれにつづくスルタンたちの都市建設事業の結果,16世紀中葉にはイスタンブールの人口は45万前後に達した。スレイマン1世(在位1494-1566)以後,政府は移住を抑制することにむしろ腐心したが,16世紀末には人口75万に膨張した。15,16世紀を通じてオスマン帝国は,西アジア(イランを除く),バルカン,北アフリカ,クリミア半島,カフカスの一部を版図に収め,黒海と地中海の制海権を掌握し,スルタンは全イスラム世界のカリフの地位を獲得した。その結果,イスタンブールはイスラム世界の政治・文化の中心となり,毎年おびただしい数にのぼる商船やラクダのキャラバン隊の出入りする巨大な中継貿易の一大拠点となり,この都市を中心に広大な商業圏が成立した。
1478年に完成された新宮殿(通称トプカプ宮殿)は,帝国行政の中心であり,オスマン王家の生活の場でもあった。ここには,主として戦争捕虜や,デウシルメ制度によって徴用されたバルカンのキリスト教徒子弟がイスラムに改宗させられて,宮廷侍従,守備兵として多数居住し,宮廷儀礼,行儀作法,学問,芸術,行政事務などを学んだ。ハレムには黒人(スーダン,エチオピア,ブラック・アフリカ出身)や白人(チェルケス人,グルジア人などカフカス系)の宦官(かんがん)がおり,ハレムの女性の中には奴隷市場で売られたり,海賊に捕らえられたオーストリア人,イタリア人,ロシア人などの姿もみられた。宮廷侍従や守備兵は,たてまえは奴隷身分であったが,宮廷内で一定の任務をつとめあげると,官僚に登用される場合も多く,官僚機構の上層部は彼らによって独占された。その政治的立場やスルタンとの親密な関係を利用して莫大な富を蓄え,それによってワクフ諸施設を建設したり,商業に投資をした。イスラムの諸学問を修め,ペルシア文学や芸術を身につけた彼らは,〈オスマン紳士(オスマンルOsmanlı)〉を自負する知的エリートでもあった。一方,デウシルメによって徴用された子どもたちの大多数はイエニチェリやシパーフsipah(近衛騎兵)となったが,とくに前者は,その創設以来神秘主義教団ベクターシュと深い関係をもち,また兵営前の〈肉の広場Et Meydanı〉に料理用の大なべを持ち出すことによってスルタンに対する不満の意思表示をする慣行を通じて,政治的に大きな発言力を獲得した。また,イスタンブールの治安維持はこの軍団の主要な任務の一つであった。
帝国の司法,および行政の一部をつかさどるウラマーは,メフメト2世モスクに付属するメドレセを頂点として整然と配置された教育機関を通じて養成され,ハナフィー派法学理論を中心として神学,哲学,数学,天文学などの伝統的イスラムの諸学問を学んだ。彼らは帝国各地のマドラサの教授,ムフティーやカーディー(裁判官)として赴任する機会にめぐまれ,それを通じて官僚化された面が強い。その点10世紀以後トルコ系をはじめとする異民族支配のもとにおかれ,民衆の自治ないしは抵抗の指導者となったアラブやイラン社会のウラマーとは性格を異にした。こうしたウラマー層の頂点に立ったのがイスタンブールのムフティー(シェイヒュル・イスラムşeyhülislam)であり,また,宮廷の御前会議に加わった2名のカザスケルkazasker(大法官)であった。デウシルメ制度やメドレセ教育は,非ムスリムおよびムスリム大衆にとって社会的に上昇するチャンスを与えたが,それ以外にも個人的能力に応じてスルタンや高官に認められて出世する機会も多く,イスタンブール社会は,全体として門閥の形成を許さぬ流動的な社会であった。
民衆は,売春婦,日雇労働者から富裕な商人にいたるまですべてなんらかの社会的組織に組み込まれていたが,その中核は商工民のギルドであった。トルコのギルドは,アラブのフトゥッワの伝統を受け継ぎつつ,13~14世紀のアナトリアに発展した同信的若者組織アヒーahi,akhīを母体とし,スーフィー諸教団(タリーカ)と密接な関係をもっていたが,15~16世紀のイスタンブールにおいてアヒー組織はしだいに官僚的統制下におかれて世俗化し,スーフィー教団との分離が進んで,職種別のギルドへと転化したといわれている。ギルドは自主的組織をもち内部自治を維持する仕組みをもってはいたが,反面ではカーディーやムフテシプmuhtesip(ムフタシブ。市場監督官)に従属した。ただ国際的商業にたずさわる大商人はその枠外にあって特権的貿易を享受したが,そうした特権はしばしば非ムスリム商人や外国人商人に与えられた(カピチュレーション)。
宮廷の王子たちの割礼式,犠牲祭などの祝祭日には,100種以上にのぼるギルドが実演をしながら行進し,またビザンティン時代の競馬場跡地にあたる〈馬の広場At Meydanı〉や〈肉の広場〉(現,アクサライ地区),〈矢の広場Okomeydanı〉などでは,レスリング,軽業,奇術,道化,馬術競技,弓道大会などが開かれ,宮廷人,高官,ウラマー,民衆がこぞってこれらを楽しんだ。また断食(ラマダーン)月の夜などには,宮廷や高官の邸宅,あるいは広場などでカラギョズ,オルタオユヌorta oyunu(即興劇)が演じられ,16世紀中葉以後に普及したコーヒー・ハウス(カフウェkahve)にはメッダーフmeddāh(語り物師),アーシュクāşık(吟遊詩人)が出入りしてにぎわったが,やがてここは民衆の政治的世論形成の場となり,そうした伝統はロンドンなどヨーロッパ諸都市に伝播した。イスタンブールの民衆芸能を代表するカラギョズは,オスマン紳士(ハジワト)と民衆(カラギョズ)との掛合いを中心にこの町に住む多様な民族の習性を活写している。
16世紀末以後,過剰な人口が政府の財政を圧迫し,それが地方民衆への増税に結びつきアナトリアの農民反乱を続発させた。イスタンブールでは,しばしば食料難,物価騰貴,イエニチェリの反乱や商工業への干渉が日常化し,社会不安が増大して,レベントlevent(不正規兵),トゥルンバジtulumbacı(火消しを職業とする)などの任俠集団の活動が顕著となった。宮廷ではハレムが政治的陰謀の巣窟と化し,高官やウラマーの間で情実,賄賂,売官の風習が一般化した。
18世紀以後,とりわけ〈チューリップ時代〉にはルイ15世治下のフランス文化が流入し,建築,服飾,絵画,音楽などの各分野にロココ風の様式が現れ,ヌール・オスマニエNuruosmaniyeモスク(1755完成)にその粋がみられた。1853年にボスポラス海峡沿いにバロック様式を模したドルマバフチェ新宮殿Dolmabahçe Sarayıが完成すると,宮廷はそこに移った。西ヨーロッパ諸国との貿易が拡大すると,ビザンティン時代以来外国人商人の居留地として知られていたガラタGalata地区が発展し,その隣のベイオウルBeyoğlu地区ともども新しい商業・文化の中心となり,モスクの光塔(ミナレminare,ミナレット)の林立する旧市街と好対照をなした。新市街にはヨーロッパ各国の大使館(現在は領事館)が軒を並べ,外国人商人や,これと結んだ非ムスリム少数民商人たちがモダンな店を構え,またイタリアの作曲家ドニゼッティGiuseppe Donizetti(Gaetanoの兄)などの〈御雇外国人〉も多数居住した。政府は彼らの協力を得て帝国の西欧化に取り組み,ガラタサライ・リセーGalatasarayı Lisesi(1868創立),ダーリュッフュヌーンDârüffünun(1863創立,イスタンブール大学の前身)などの西欧型教育機関を設立した。その結果,ヨーロッパの言語,学問,風習を身につけた新しいタイプの軍人,官僚,知識人が生まれた。彼らは帝国の改革のみならず,近代的な文学,芸術,ジャーナリズムの担い手ともなった。西欧化の進展は,経済的植民地化の過程でもあった。20世紀を迎えたとき,イスタンブールは,電気,ガス,水道,市電,港湾施設などの近代的設備をほぼ完全に備えていたが,それらのすべては外国の特権企業の手によって建設された。たとえば,今日イスタンブール名物の一つである地下鉄(カラキョイ~ガラタ間)は1873年にフランス系資本によって敷設された。植民地化状況のもとで行われた西欧化に対して,民衆の多くは反対した(1730年パトロナ・ハリルの乱)が,それはイエニチェリ軍団と結びつくことが多かった。このため,政府は1826年にイエニチェリ軍団を激烈な市街戦の末に全滅させ,同時にこの軍団と密接な関係を保っていたベクターシュ教団を閉鎖した。だがこの両組織はすでに民衆の間に深く根を下ろしていたため,この事件は政府と民衆との間の乖離を促進した。一方,西欧化によるスルタンへの権力集中と経済的植民地化とを批判する勢力が,近代的軍人・官僚・知識人の間からも生まれた。1860年代以降の〈新オスマン人〉による自由主義的立憲運動は,1908年の青年トルコ革命に受け継がれた。この革命はまたトルコ人の民族主義運動でもあった。
19世紀末以後のイスタンブールは,アラブ,イラン人,トルコ人らの民族運動家の拠点となり,カイロ,テヘラン,カザン,ブハラ,ジュネーブ,パリなどを舞台に展開された彼らの運動と連携し,アフガーニー,ガスプラルらの国際的思想家が来住した。1909年4月13日にイスタンブールに勃発した〈3月31日(ルーミー暦による)事件〉は下層兵士,保守派ウラマーを中心に,〈シャリーアの護持〉を標榜し,首都を一時期占拠した。この事件はその後,ナクシュバンディー教団などによってたびたび引き起こされたイスラム宗教運動の原型となった。
第1次世界大戦後,イスタンブールは連合軍の占領下におかれた。その間にアナトリアで戦われた祖国解放運動(トルコ革命)に対して,イスタンブールはむしろ反革命勢力の拠点となった。トルコ共和国成立後,その首都はアンカラに定められ(1923年10月),ここにイスタンブールは,ビザンティン帝国以来の1500年に及ぶ首都としての歴史的使命を終えた。しかし,その後もこの町はトルコの商工業の中心であり,またバーブ・アーリーBāb-ı Ālī通りに立ち並ぶ新聞社,出版社,印刷所にみるとおり,政治的・文化的世論形成の重要な場として,政党や宗教勢力の拠点になり,第2次世界大戦後の政治を決定する多くの事件の舞台となった。現在,この町はアジアとヨーロッパへの鉄道・航路の起点であり,トプカプ宮殿などイスラム文化のなごりをとどめ,カパル・チャルシュKapalı Çarşı(大バーザール)の喧騒につつまれた旧市街と,ギリシア正教会,アルメニア教会,カトリック教会や近代的なホテルの立ち並ぶ新市街とに分かれ,両地区はガラタ橋によって結ばれ,新市街はさらに,ボスポラス海峡大橋によってアジアと連結されている。今日この町は急激な都市化のさなかにあり,テオドシウス城壁の外側には,ゲジェコンドゥgecekonduとよばれる一夜建ての簡易住宅街が広がりつつある。
執筆者:永田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
トルコ北西部、ボスポラス海峡の東西両岸、ヨーロッパとアジアにまたがって所在するトルコ最大の都市。イスタンブール県の県都でもある。人口880万3468(2000)。トルコの文化、交通、経済、学術、観光の中心である。市域は、ヨーロッパ側は、コンスタンティノープルとよばれていた昔を受け継ぐ旧市街(エミニョニュ、ファティフ地区などに分かれる)のほか、その西方、マルマラ海沿いに延びるゼイティンブルヌ、バクルキョイ地区、およびハリチ湾(金角(きんかく)湾)を隔てて旧市街の北に位置するベイオゥル、ベシクタシュ、シシュリ地区などからなり、またアジア側は、ウシュキュダル、カドゥキョイ地区などからなる。
イスタンブールはトルコの工業生産のうえで重要な地位を占める。おもな業種は金属、機械、繊維、薬品、食料品、衣料、皮革、製紙、電気機器などであり、伝統的な中小工場が旧市街やシシュリ地区などに凝集する。そのほか、かつては海運の便のあるハリチ湾沿岸も優れた工業立地点であったが、近年は陸運の便を求めて、アジア側ではアンカラへ通じる国道、ヨーロッパ側ではエディルネへ通じる国道沿いに、近代工場の進出がみられる。また、古来ボスポラス海峡を扼(やく)する海上交通の要衝で、現在もエミニョニュ地区やその対岸のカラキョイなどを拠点にして海上交通が盛んであり、貿易活動も活発である。また、ボスポラス海峡を数か所で横断するフェリーの便は、市民の重要な足となっている。一方鉄道交通の面では、エミニョニュ地区にオリエント急行のターミナル駅として著名なシルケジ駅があり、アジア側にはアンカラなどに通じるハイダルパシャ駅がある。また、1973年に延長1074メートルのボスポラス橋が架せられ、ヨーロッパ・ハイウェー5号線が開通してのちは、市域の数か所に設けられたインターチェンジによって、自動車交通の便も好条件にある。なお、空の玄関口イェシルキョイ国際空港は市街地の西22キロメートルにある。
長い歴史を背負ったイスタンブールには史跡や由緒ある建造物が満ちあふれている。とりわけ旧市街には、トプカプ宮殿(現博物館)、ハギア・ソフィア(現博物館)、スルタン・アフメット・モスク(青のモスク)、スレイマニエ・モスク、ウァレンスの水道橋などがあり、旧市街の西を限っていたビザンティン時代の城壁もその一部が残されている。旧市街は1985年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。また、ハリチ湾に架せられたガラタ橋、アタチュルク橋によって通じる北の新市街にも、ジェノバ人居留地の名残(なごり)をとどめるガラタ塔、アタチュルクが執務中死去した場所としても著名なドルマバフチェ宮殿などがある。旧市街にある伝統的商業区グランドバザールは規模の壮大さで有名であるが、ハリチ湾の北の新市街にもタクシム広場やイスティクラール通りなど活況を呈した商業区がある。旧市街には、考古学博物館、古代オリエント博物館、イスラム美術博物館、イスタンブール大学などの学術・文化施設がある。
[末尾至行]
起源は、バルカン半島から移住したトラキア人の集落に求められるが、紀元前7世紀中ごろギリシア人によって植民され、ビザンティウムByzantiumとよばれて漁業や海上貿易の基地として栄えた。前201年にローマの同盟都市となったが、紀元後193~196年にセプティミウス・セウェルス帝はここを占領し、城壁、競馬場、浴場などを建設した。330年よりコンスタンティヌス大帝はここをローマ帝国東方領の首都とし、以後この町は「コンスタンティヌスの町」すなわちコンスタンティノポリスKonstantinopolis(コンスタンティノープルConstantinople)とよばれ、4世紀には人口20万に上る大都市となった。413年テオドシウス帝によって城壁が拡大され、それが今日に残されている。主要な建築物はローマを模して七つの丘に建てられた。町は14の地区に分けられ、400を超える教会、礼拝堂があった。なかでも326年に建立されたハギア・ソフィア(アヤ・ソフィア)大聖堂は東方キリスト教世界の中心をなしていた。395年における東西ローマの分裂後は東ローマ(ビザンティン)帝国の首都として繁栄し、5世紀初めには人口50万に達し、その後100万を数えた時期もあった。11世紀ごろからベネチア人やジェノバ人が地中海貿易に進出すると、ビザンティン帝国の商業と財政は彼らに支配され、この町の隆盛は失われた。1204年第四次十字軍によって占領されると、町は略奪され、カイ帝国は首都をニカイアに移した。1261年十字軍によるラテン帝国が崩壊してビザンティン帝国の首都として復帰したが、町はもはや昔日のおもかげを完全に失い、1453年にオスマン帝国によって征服されたころには人口は3万ないし5万にすぎなかった。
オスマン帝国のメフメト2世(在位1451~1481)は、征服後ただちにハギア・ソフィア大聖堂をはじめ多くの教会をモスクに変えるとともに、1457年以降この町を帝国の首都としてその名をイスタンブールと改めた。彼はアナトリアとバルカン各地から、トルコ人、ギリシア人、アルメニア人などをこの町に強制移住させ、モスク、バザール(市場)、キャラバン・サライ(隊商宿)、学校、病院などの社会施設を整えた。15世紀末にはスペイン系のユダヤ人が多数受け入れられたほか、中央アジアのサマルカンドや西アジア各地から商人、職人、学者、文人の移住が相次いだ。その結果、16世紀中ごろには人口50万ほどに達する大都市として歴史上に復活した。スレイマン1世(在位1520~1566)の帝国最盛期には、黒海、地中海の制海権を掌握したオスマン艦隊の本拠地として、また、東西、南北に及ぶ国際貿易の中心として栄華を極めた。16世紀末に人口70万に達すると、食料難、インフレにみまわれ、常備軍団の反乱や民衆蜂起(ほうき)が頻発した。ビザンティン帝国時代よりハリチ湾右岸のガラタ地区はイタリア人商人の居留地であったが、17世紀以後イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が競ってここに領事館を建設し、キリスト教諸教会も建立されて新市街を形成した。1845年に旧市街と新市街とを結ぶガラタ橋がハリチ湾に架けられた。
歴史時代を通じてこの町はたびたび火事、地震、津波などの災害にみまわれた。1774年1月の大火では2万戸が焼失したといわれ、1839年1月にはオスマン帝国の政庁(バーブ・アーリー)が全焼した。19世紀以後、帝国の近代化と植民地化とが進むと、一方ではこの町は西アジア、バルカン諸民族の反帝国主義運動の中心地となったが、他方ではヨーロッパ資本やオスマン宮廷の手によって各種学校、図書館、電気、都市ガス、水道などの公共施設が建設された。第一次世界大戦後、トルコ人による反帝国主義運動がアナトリアに起こると、イギリスをはじめとする連合国は1920年3月にこの町を正式に占領した。1923年トルコ共和国が成立してオスマン帝国が滅亡すると、首都はアンカラに移された。
[永田雄三]
『那谷敏郎著『イスタンブール案内』(平凡社カラー新書)』
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…トルコ,イスタンブールに残るビザンティン建築の代表的遺構。〈ハギア・ソフィア〉は〈聖なる叡智〉の意。…
…たしかに支配的なオスマン文化の浸透やミッレト制に保護されたギリシア正教会(ギリシア文化)の影響の増大というような一般傾向はあるが,局地的に各地域の社会状況をみると,さまざまな階層の次元で異質なエスニック集団,言語,文化,宗教の共生現象が見いだされ,それがバルカン社会の一つの特質をもなしている。 共生現象が最も特徴的に具現されていたのはオスマン帝国の首都イスタンブールであった。1453年のコンスタンティノープルの陥落によって第二のローマはイスラム化されたが,都市の経済機能の回復のためもあって,オスマン帝国スルタン,メフメト2世(在位1444‐46,51‐81)はモレア半島,アナトリア,エーゲ海の島々からギリシア人を首都に誘致し,また征服のたびに新領土の住民を首都に連れてくる習わしもあって,トレビゾンド,カフカス,シリア,エジプト,セルビアなどの人びとが首都に定住するようになった。…
※「イスタンブール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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