精選版 日本国語大辞典 「イラン」の意味・読み・例文・類語
イラン
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
中東のイスラム共和国。正式国名はイラン・イスラム共和国Keshvar-e Jomhūrī-ye Irān-e Islām。欧米ではギリシア以来、アケメネス朝の故地パールサPārsa地方に由来するペルシスPersisまたはペルシアPersiaなどを用いてきたが、1935年1月1日パフラビー朝のレザー・シャーによってイランが正式の外国語呼称に定められた。ただペルシアもイランの同義語として今日でも用いられている。面積164万8195平方キロメートル、人口7120万8000(2007推計)、人口密度1平方キロメートル当り43人。首都はテヘラン。
西はトルコとイラク、南はペルシア湾、東はアフガニスタン、パキスタン、北はカスピ海と、アゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタンに接する。古来東西交通の要衝を占め、アケメネス朝(ペルシア帝国)、ササン朝などの大帝国が興隆、イスラム時代に入っても世界史上重要な役割を演じ、イラン文化圏を形成。1970年以降、産油国のなかで指導的な役割を果たしてきた。1979年2月のイスラム革命(イラン革命)によって2500年を超す王制は終わりを遂げた。シーア派イスラム教を国教とし、国旗には緑、白、赤の三色旗に「神は偉大なり」のスローガンが入っている。
[岡﨑正孝]
イラン北部を東西にアルボルズ山脈が、北西部から南東部にザーグロス山脈が走り、この両褶曲(しゅうきょく)山脈の間に標高1000~2000メートルのイラン高原が形成されている。両山脈はアルプス‐ヒマラヤ造山帯に属し、前者は新生代鮮新世の造山運動により、後者は白亜紀後期、早期鮮新世の造山運動の影響を強く受け、後期中新世と鮮新世の長い期間にわたる褶曲によって現在みられる大山系が出現した。国土の大部分はイラン高原上にあり、低地はカスピ海岸、ペルシア湾岸のわずかな部分にすぎない。高原部は乾燥していて、その中央部には、かつては湖底だったカビールとルートの二大砂漠が横たわり、両辺縁部には多くの褶曲山脈が並行して走っている。北西部には塩分の多いウルミーエ湖があり、中央部にはナマク湖など塩湖が多い。季節的に水のなくなる河川や、下流が砂漠に消える尻無(しりなし)川も多い。最大の内陸河川はイスファハーンを貫流するザーヤンデ・ルード(川)で、この川はガーブハーニー沼に流れ込んでいる。南東部にはザーグロス山脈から流れ出るカールーン川があり、その流域に平野が広がっている。
[岡﨑正孝]
地域によって大きく異なる。高原部は大陸性で乾燥しており、テヘランでは年降水量219.2ミリメートル、7月の湿度は24%である。降水は冬に集中し、夏期にはほとんど雨が降らない。カスピ海沿岸地方は地中海性気候を示し、カスピ海を通ってくる湿気を帯びた風と後背のアルボルズ山脈の影響で降水量も多く、かつ温暖である。またペルシア湾岸低地では降水量は少なく、アラビア半島から吹き寄せる熱風の影響で高温多湿である。北西部は半乾燥地域に属し、比較的降水が多い。
[岡﨑正孝]
自然条件の違いによって次の4地域に区分することができる。まず第一はイラン高原地方で、テヘラン、シーラーズ、マシュハド、イスファハーン、ケルマーン、ヤズドなどの歴史的に重要な役割を果たした都市が含まれる。この地域は年降水量250ミリメートルに達せず、湿度は低く、乾燥している。そのためイバラなど耐旱(たいかん)性の植物を除き一般には植物は自生しない。乾地農法は成立せず、河川、泉、井戸やカナートとよぶ地下灌漑(かんがい)溝によって水の得られる所でのみ農耕が営まれており、ここにオアシス集落ができる。この地方では砂漠のなかに点状に集落が成立している。都市も水が多量に存する所にできる。作物は麦類が主で、ほかに綿花、テンサイなどの商業作物も栽培される。
第二は北西部地方で、高原地方よりは自然に恵まれ、300~500ミリメートルの年降水量を有する。乾地農法が可能で、耕地は面状に広がり、地味も豊かで生産性が高い。穀類のほかタバコ、果実、ブドウも栽培される。アゼルバイジャン、ハマダン、ケルマーンシャー、ロレスターン地方がここに含まれ、イランの農業地帯を形成している。この地域はイラク、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと国境を接しているため、外国の影響を強く受け、異民族や外国にしばしば占領された。19世紀来イランの文化的、政治的先進地域であった。
第三はカスピ海とアルボルズ山脈に挟まれた平野部で、ラシュト、エンゼリー、ゴルガーンなどの都市がある。ここはイランでもっとも年降水量が多く、東部のゴルガーン地方では500ミリメートル、西部のギーラーンでは1000ミリメートルを超える。豊かな降水を利用して米作が行われ、柑橘(かんきつ)類、茶、綿花の栽培が盛んである。人口は稠密(ちゅうみつ)で全国平均の約4.5倍(人口密度163人)に達する(2002)。山は温帯広葉樹林で覆われ、製炭なども行われる。夏は海水浴客が集まり、リゾート地となる。
第四はザーグロス山脈とペルシア湾に挟まれた地方で、バンダル・ホメイニ、アバダーン、ホッラムシャフル(旧フニーンシャフル)、バンダル・アッバースなどの都市が含まれる。この地域の自然はイランでもっとも厳しい。年降水量は250ミリメートル以下、湿度は年平均60%を超え、酷暑多湿の地である。自然条件に恵まれず、農業をはじめとする経済活動は一般に低調であったが、西部のフーゼスターンは例外で、ここはかつては大農業地帯として栄えた。モンゴルの侵入によって荒廃したが、1950年以降開発計画が実施されてきた。20世紀に入り石油が発見され、世界の主要産油地帯として重要な地域となった。アバダーンには大製油所がある。
[岡﨑正孝]
紀元前1000年代アーリア民族が数世紀にわたりイラン高原に侵入、北西部イランに定着したメディア人が前7世紀エクバタナ(現ハマダン)を都に王国を建てた。前550年ファールス地方に興ったアケメネス朝(ペルシア帝国)はメディアを滅ぼし、広大な領域を支配する世界帝国を形成、長い間ギリシアと戦ったが、前331年アレクサンドロス大王によって滅ぼされた。大王の死後(前323)はセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入ったが、前250年前後には北部イランに興ったイラン系遊牧民のパルティア朝がとってかわった。パルティアは500年間イランを治め、西ではローマと対峙(たいじ)、226年にササン朝に滅ぼされた。ササン朝はゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝時代の伝統を受け継ぎ、イラン文化の隆盛期を創出した。
[岡﨑正孝]
ササン朝は642年アラブ軍に滅ぼされた。ウマイヤ朝、アッバース朝下でイスラムへの改宗が進み、アラビア語が公用語となった。しかし、ブハラを都として9世紀に栄えたサーマーン朝の下で古代の文芸が復興し、近世ペルシア文学が生まれた。サーマーン朝にかわり東イランを支配したガズナ朝はトルコ系の王朝であったが、この王たちもイラン文化の保護者となり、宮廷に多くの学者、文人を招いた。『王書』を書いたフィルドウスィー、科学者ビールーニーはこの時代の人である。10世紀中ごろ中央アジアから南下したトルコ系のセルジューク人はガズナ朝を滅ぼし、イランの支配者となった。西アジアへのトルコ人の流入はこのときに始まる。セルジューク朝の諸王もペルシア文化を保護し、ガザーリー、ウマル・アル・ハイヤーミーなど有名な学者、文人が輩出した。1258年モンゴル人によってイル・ハン朝(イル・ハン国)が、1370年ティームール朝(ティムール帝国)が成立しイランの支配者となった。王朝交替時には侵略戦によって国土の荒廃は避けられなかったが、新王朝創設後国土の復興がなされ、イラン・イスラム文化が興隆した。
1501年イラン民族国家サファビー朝が成立、シーア派イスラムを国教として、シャー・アッバースのときに最隆盛期を迎えた。首都イスファハーンは70万の人口を擁する大都市になった。しかし1722年にはアフガン人の侵入により事実上崩壊。アフシャール朝のナーディル・シャー(在位1736~47)の支配を経て、ザンド朝の成立をみ、この王朝のカリーム・ハーン(在位1750~79)の下で繁栄した平和な時代を迎えた。18世紀末トルコ系カージャール朝が王朝を建てた。この王朝は二度ロシアとの戦いに敗れ、領土を失ったほか、1828年の条約では治外法権をも認めざるをえなかった。19世紀後半にはヨーロッパの原料供給地、工業製品の市場となり、イランの経済は大きな影響を被った。また、イギリス、ロシアに対する利権の供与が続き、これが反王制運動の源となった。1906年には激しい立憲運動が起こり、憲法の制定をみた。1908年立憲制を弾圧しようとした政府軍と立憲派は激しく対立したが、立憲派の勝利に終わった。第一次世界大戦中は中立を宣言したが、西部イランは戦場と化した。1921年2月コサック旅団の士官レザー・ハーンが首都テヘランを無血占領、1925年にはカージャール朝を廃し、レザー・シャーと称してパフラビー朝を建てた。
[岡﨑正孝]
レザー・シャーは中央集権的行政機構を整え、軍事、法制、学制などの近代化を図った。そのほか、イラン縦貫鉄道の完成、チャドル(女性の外被)廃止などもなされた。西欧化政策を強権によって推進する一方、古代イランの伝統の復活を図り、カーペット織りなど伝統工芸を保護したり、イスラム暦にかわり伝統的暦法を公用暦に採用した。第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとイランは中立を宣言したが、1941年イギリス、ソ連両軍はイランに侵入、シャー(国王)は退位しモーリシャスに亡命した。大戦中イランは連合軍に協力、兵站(へいたん)供給地となった。1951年には首相モサデクを指導者とする石油国有化運動が起こり、石油事業に利権を有するイギリスとの間で紛争が生じたが、1953年にはザーヘディ将軍によるモサデク打倒のクーデターが成功、1954年アメリカの石油会社を含む国際石油財団(コンソーシアム)が石油事業を行うことになった。モサデク失脚後帰国したパフラビー朝2代目の国王ムハンマド・レザー・シャー(パーレビ国王)は、1962年からは農地改革、女性参政権付与など6項目からなる内政改革(「白色革命」)を実施、経済も順調に発展した。経済成長率は1950年代には4.5%であったが、1960年代には9~10%、1971年14.3%、1974年51%と高度成長を実現した。経済の発展を背景に1967年には国王の戴冠(たいかん)式、1971年に建国2500年祭を挙行、国威を発揚した。
[岡﨑正孝]
1978年1月、イラクに亡命中の宗教指導者ホメイニを批判した政府に対し、シーア派の聖都コムで抗議デモが発生、このとき多くの死者が出た。これが発端となって各地でデモが頻発、政治的に緊迫した。9月以降、デモは回を重ねるごとに大規模になり、12月10日の宗教祝祭日(アーシューラー)のデモは150万人にも上った。反シャーの雰囲気の高まるなかで、シャーは1979年1月16日出国を余儀なくされ、2月1日ホメイニが亡命先のパリから帰国した。2月5日にはバザルガンがホメイニにより首相に指名され、シャーの任命したバフティヤールShāpūr Bakhtiyār(1914―1991)政権と二重権力が成立した。しかし、2月11日反シャー勢力がニヤバラン宮殿を攻撃した際、軍はバフティヤール側の防衛に加わらず中立を保ち、ここにバフティヤール内閣は自然消滅し、王制は崩壊した。3月30日には国民投票が行われ、4月1日ホメイニによりイラン・イスラム共和国の成立が宣言され、元首たる最高指導者にはホメイニが就任した。亡命中の元国王がアメリカへ入国したのを契機に、11月4日ホメイニ支持学生団によるテヘランのアメリカ大使館占拠事件が勃発(ぼっぱつ)、占拠は1981年1月2日まで444日に及んだ。1980年2月4日バニサドルAbū al-Hasan Bani Sadr(1933―2021)が初代大統領に就任したが、宗教界主導のイスラム共和党(IRP)との間に対立と抗争が起こり、1981年6月バニサドルは解任されパリに亡命した。IRPは司法権、立法権のみならず行政権をも掌握、IRPと反IRP勢力との確執は激化の一途をたどり、IRP本部や首相府の爆破などテロ活動が相次ぎ、多くの要人が死亡、これに対して政府は反体制派の大量逮捕と処刑で応酬した。アムネスティ・インターナショナルの発表(1981年11月)によると、革命後3350人が処刑されたという。
[岡﨑正孝]
新憲法は1979年12月2日の国民投票で採択された。これはイスラム色のきわめて濃いもので、国の最高指導権は、指導者として国民の信望を集める宗教法学者に賦与され、すべての自由は「イスラムの原則に反しない限り」でしか認められない。イスラム法の原則に反した法律は制定できず、これを監視するため、聖職者で構成する憲法擁護評議会が設けられている。三権分立が憲法で規定されており、立法権は一院制の国民議会により行使されるが、重要な問題については国民投票による立法権の行使も認めている。議員の任期は4年で、定数は290人。行政府の長としての大統領は、最高指導者に次ぐ地位にあり、国民の直接投票により選出され、任期は4年で2期まで。また、イラン革命とシーア派に忠実であることが資格として要請される。内閣の首班であった首相職は1989年の憲法改正により廃止。司法権は最高裁判所長官、検事総長および3人のイスラム裁判官よりなる最高司法評議会に与えられている。最高裁判所長官と検事総長はイスラム法学者であることが要件となり、裁判官はイスラム法に基づいて判決を下す。
1978年には、パフラビー朝下で非合法とされていた反王制の国民戦線が復活し、革命の実現に貢献、バザルガンが首相に、サンジャビーが外相になるなど、革命後一時、国の中枢を占めた。フェダーイン・ハルク、モジャーヘディーン・ハルクなどの左翼政治集団も革命に参加したが、ホメイニの支持を受けるイスラム共和党(IRP)との抗争に敗れて地下活動に転じ、IRP幹部の暗殺などテロ活動を行っていた。旧与党のIRPは1987年に解散した。なお、1979年の革命以来、信任投票的色合いが強かった大統領選挙であったが、1997年5月大統領ラフサンジャニの2期8年の任期満了に伴い、複数候補による選挙が行われ、穏健・急進派の支持を得た元イスラム指導相のハタミが最高指導者であるハメネイの推す保守派のナテクヌーリAli Akbar Nateq Nouri(1943― )を破って当選した。大統領ハタミは欧米諸国との関係修復にも意欲的に取り組んだほか、イラン革命を指導したホメイニが許可しなかったイラン製のポピュラー音楽や娯楽映画を一部解禁にし、服装の規制を緩和するなど、自由化を積極的に推進した。一方で、言論の自由を保障したことにより、体制に対する批判がなかば公然と行われるようになるなど、それまで考えられなかった事態も起きた。1999年7月、出版法改正法案に対して、報道の自由が制約されるとして、学生を中心に大規模な抗議デモが繰り広げられたのは、その一例である。2001年の大統領選挙でもハタミが再選、2期8年を務めた。
2005年6月の大統領選挙では、保守穏健派の元大統領ラフサンジャニと、保守強硬派のテヘラン市長アフマディネジャドの決選投票の末、アフマディネジャドが当選、同年8月大統領に就任した。イランで非聖職者が大統領となるのは、1981年にラジャイMohammad-Ali Rajai(1933―1981)が暗殺されて以来のことであるが、アフマディネジャドは大統領就任後、過激な反イスラエル発言を繰り返すなどし、国際社会の反発を招いた。
[岡﨑正孝]
28の州(オスタン)に分かれている。この下に県(シャハレスタン)が置かれ、その下に郡(バフシュ)がある。各地方行政の長は中央より任命される。郡のなかには町(シャフル)と村(デヘスタン)がある。これらの行政機構とは別に、革命後にはモスクが配給物資分配を行うなど行政の一部を肩代りした。
[岡﨑正孝]
パフラビー朝下ではアメリカの影響力がきわめて強く、1955年以来バグダード条約機構(後の中央条約機構)の構成員であり、中東における反共の要(かなめ)としての役割を果たしてきた。1979年11月に発生したイスラム系学生によるアメリカ大使館占拠事件(1981年1月20日まで444日間)を契機として両国は公然たる敵対関係に入った。革命指導者は反共思想をもち、天然ガス輸出を停止するなどソ連とも友好的ではなかった。外交の基本は排外主義的で非同盟中立路線をとり、1979年11月にリビアと外交を再開している。またイラクとの国境紛争が再燃し、1980~1988年のイラン・イラク戦争となった。その後もアメリカはイランを「テロ支援国家」と非難、ヨーロッパ諸国とは1989年にホメイニがイギリス人サルマン・ラシュディSalman Rushdie(1947― )の小説『悪魔の詩』がイスラム教に敵対するとしてラシュディに死刑を宣言した(『悪魔の詩』事件)ことから、関係が悪化したままであった。しかし、かつては反共思想を背景に非友好的な関係にあったソ連とは、ホメイニ死後の1989年「ソ連・イラン関係と友好協力に関する宣言」に調印した。穏健派のラフサンジャニが大統領に就任、ソ連最高会議議長ゴルバチョフとの会談で合意したもので、ソ連との関係はその後のロシア時代を通じて友好的な関係を保っている。イランの原子力発電所の支援・協力は続いているし、1993年の洪水被害時にはロシアから救援物資が空輸された。さらに、1997年大統領に就任したハタミは、緊張緩和外交に転換した。1998年、ハタミはイラン大統領として11年ぶりに国連総会で演説し、「文明間の対話」を呼びかけた。また、ラシュディの死刑宣言に対しては政府は関与しないと確約。1999年7月には、イギリス大使が10年ぶりにテヘランに着任するなど、ヨーロッパ諸国との関係改善が図られた。しかしアメリカは、1995年に国内の企業にイランとの取引を禁じる対イラン全面禁輸措置を実施し、1996年にはイラン・リビア両国の石油産業等に投資を行う国内外企業に対し制裁を科することを目的とした「イラン・リビア制裁法」を成立させるなど、対イラン制裁を継続した。さらに2002年1月大統領ブッシュは一般教書演説で北朝鮮、イラクとともにイランを「悪の枢軸」と名指しで非難するなど、イラン・アメリカ間の緊張は高まっている。
2002年イランの原子力施設の建設が発覚し、イランの核問題が国際社会に大きな波紋をよんだ。イランは2003年に国際原子力機関(IAEA)による核査察の受入れを表明し、2004年11月にはイギリス、フランス、ドイツとの間で、ウラン濃縮関連活動の停止に合意したが、2005年8月アフマディネジャドが大統領に就任後これを拒否し、ウラン転換活動(ウラン濃縮の前段階)を再開。さらに2006年1月、イランはウラン濃縮を含む核研究開発を再開するなどしたため、同年2月、IAEA緊急理事会はイランの核問題について国連安全保障理事会へ付託する決議を採択し、3月、国連安保理は議長声明でイランにウラン濃縮活動の停止を求めた。しかしイランはこれを拒否し、4月には濃縮ウランの製造を開始、アフマディネジャドはイランが核技術保有国の一員になったと発表するなど、対立姿勢をみせた。そのため、同年7月、国連安保理はイランに対しウラン濃縮関連・再処理活動の停止を義務づける決議を採択。しかしイランが同決議を拒否したことから、12月には制裁決議、翌2007年3月には追加制裁決議を全会一致で採択した。
[岡﨑正孝]
パフラビー朝のレザー・シャーが近代的軍隊を創設、旧王制軍は総兵力54万5600人を擁し、「ペルシア湾の憲兵」の役割を果たした。現在は最高指導者を最高司令官とし、最高国防評議会の下に陸軍約35万人、海軍1万8000人、空軍5万2000人の軍隊をもつ(推定)。また、正規軍とは別に民兵部隊を一本化した約12万5000人の革命防衛隊があり、王制時代の秘密警察サバクSAVAKにかわりサバマSAVAMAが組織されている。
[岡﨑正孝]
1925年にパフラビー朝を建てたレザー・シャーによって近代産業がおこされ、セメント工場や繊維工場などがつくられ、製鉄所建設も計画された。第二次世界大戦後は1949年以降1978年まで5次にわたり開発計画が実施され、おもに石油収入やアメリカの経済援助を財源とし経済各分野の近代化が図られた。とくに1963年からは「白色革命」の実施と並行し、石油収入の飛躍的増大もあり高度経済成長期を迎えた。しかし、イラン革命による混乱、イラン・イラク戦争などによって経済活動は停滞、1980年の国民総生産(GNP)は1977年の約71%に縮小したといわれたが、その後経済の建て直しを図り、1997年には1086億1400万ドル、2003年には1368億ドル、2005年には1885億ドル(IMF暫定値)となっている。1人当りGNPは2802ドルに達し、GDP成長率は5.8%(2007)と高い水準にある。
[岡﨑正孝]
最大の鉱物資源は石油である。1901年イギリス人ダーシーWilliam Knox D'Arcy(1849―1917)が南部イランの石油開発利権を取得、1908年マスジェデ・ソレイマーンで試掘に成功した。1909年に利権はアングロ・ペルシア(のちにアングロ・イラニアンと改称)石油会社に譲渡され、石油の開発、精製、販売にあたった。1914年イギリス政府は海軍の燃料供給のため同社の株式の50%を取得した。アバダーンには日産50万バレルに達する世界最大の製油所がある。1949年の利権料改訂をめぐり石油国有化運動が激化、1951年3月国有化法が成立、モサデク政権の下で同社の施設接収などが行われた。イギリスとの間で紛争が続いたが、1953年のモサデク政権崩壊後、1954年に国際協定が成立、国有化は認められ、英米仏などの八大石油会社からなる国際石油財団(コンソーシアム)によって石油事業が行われることになった。しかし、1973年イランは石油に対する主権を確立、イラン国営石油会社(NIOC)の指示により旧財団加盟社が開発、生産、輸送などを行い、内需用以外の原油はこれらの会社に輸出用として割当てていた。革命後は旧財団に対する販売契約は破棄され、すべてNIOCの手で販売されるようになった。
原油の確認埋蔵量は2006年末現在1375億バレルで、世界の約11.4%(世界第2位)にあたる。生産量は、イスラム革命前の1976年には日産588万バレルであった。革命後の1980年には日産170万バレルに激減したが、その後1998年には377万バレル、2006年には434万バレルまで回復している。1973年10月から1974年1月の間に原油価格は約4倍高となり、石油収入も1973年の44億ドルから1974年には170億ドルに増えた。2006年3月~2007年3月には624億5800万ドルとなった。石油以外の資源としては天然ガス、石炭、鉄、銅、鉛、岩塩、ニッケル、トルコ石などがあり、天然ガスの埋蔵量は世界第2位、生産量は第4位となっている。
1962年以降工業化が進み、製鉄所が1971年に完成したほか、外資の流入により自動車、タイヤ、電化製品、肥料などの生産が活発になり、1973年には国民総生産に占める工業部門の割合は23%になり、実質19%の経済成長を遂げた。1973年には中東地域最大の規模を誇る石油化学コンビナート事業が日本との合弁によって開始されたが、イラン革命とそれに続くイラン・イラク戦争によって、1989年日本側が撤退、現在はイランが自力で操業している。
1999年、イラン南西部、イラクとの国境付近でアザデガン油田が発見された。イラン最大級の油田で、推定埋蔵量約260億バレルとされる。2000年に日本企業が契約の優先交渉権を獲得し(のち2003年に交渉が妥結せず優先交渉権は失効)、2004年2月に交渉当事者間で合意が得られ、日本の国際石油開発(現国際石油開発帝石)がNIOCおよびその子会社と油田の評価・開発にかかわる契約を締結した。当初国際石油開発は75%の権益比率をもっていたが、2006年に65%をNIOCへ譲渡、現在は10%の権益を保有し開発に参加している。
[岡﨑正孝]
農業用地は6224万8000ヘクタールで国土総面積の37.7%にあたる。うち耕地は1611万7000ヘクタール(2003)で、残りは樹園地、牧草地、牧場よりなる。主要農産物は小麦(1450万トン)、大麦(290万トン)、米(350万トン。以上2005年現在)で、ほかにテンサイ、ジャガイモ、サトウキビ、各種果実、野菜類が栽培される。カナートとよぶ地下灌漑(かんがい)溝や井戸、泉、ダム、河川などによって灌漑されているが、地表水は夏には水量が著しく減少する。高原地方の多くでは水の得られる所でしか農耕は営まれず、耕地の規模は用水の量に左右される。1962年以降農地改革が実施され、長年の大土地所有制は解消した。畜産は主として遊牧民によってなされ、2005年には、家畜数はヒツジ5400万頭、ヤギ2650万頭、ウシ880万頭であるが、生産性が低く供給不足で、毎年多量の肉を輸入している。漁業は盛んではないが、カスピ海のキャビア(チョウザメの卵)は世界的に有名で、年平均200トンを産する。
[岡﨑正孝]
最大の輸出品は石油である。それ以外ではじゅうたん、ピスタチオ、皮革類、キャビアが主たる輸出品で、工業化の進展とともに繊維製品、自動車、化学製品など工業製品の輸出も増えている。主要な輸出相手国は日本、中国、トルコ、イタリア、韓国、南アフリカ共和国、フランスなどである。輸入品目は機械類、食料、鉄鋼、車両などである。主要輸入相手国はドイツ、中国、アラブ首長国連邦、フランス、韓国、イタリア、日本である。
[岡﨑正孝]
1938年にペルシア湾のバンダル・ホメイニとカスピ海のバンダル・トルクマーンを結ぶ鉄道が完成、のちにテヘラン―ジョルファ、テヘラン―マシュハド、コム―ケルマーン線がつくられた。道路網の整備も進み、幹線道路は舗装され、高速道路もいくつか建設された。もっとも重要な港湾は、ペルシア湾のホッラムシャフルで、ほかにバンダル・ホメイニ、ブーシェフル、バンダル・アッバースがある。テヘランとアバダーンは国際航空の要地である。なお、2004年に開港したテヘランのイマーム・ホメイニ空港は、空港運営をめぐる政府と保守派の対立により開港直後に閉鎖されていたが、翌2005年4月に運行が再開された。ほかにテヘランにはメフラバード空港がある。
[岡﨑正孝]
住民の大多数を占めるのはアーリア系のイラン人である。このほか7世紀以降イランに住み着いたアラブ人、11世紀末中央アジアから流入したトルコ人、少数民族としてアルメニア人、ユダヤ人、アッシリア人が住む。アラブ人はおもにイラクに隣接するフーゼスターン地方、トルコ人はトルクメニスタンに接するゴルガーン地方、トルコに隣接するアゼルバイジャン地方に多い。
イラン、トルコ、アラブ系で部族組織をもつ住民もいる。イラン系の部族としてはクルド、ロル、バフチアリ、バルーチの諸部族がいる。クルド人の居住地はイラン、トルコ、イラクの3国にまたがり、イランでは北西部のコルデスターン、西アゼルバイジャン、ケルマーンシャー州に住み、人口は約350万と推定される。彼らの大半は19世紀後半に遊牧をやめ定着した。ロル人はイラン西部のロレスターンに、バフチアリ人はファールス、イスファハーン、フーゼスターンのザーグロス山地に住む。ロルとバフチアリとをあわせた人口は250万。バルーチ人は南東部のバルーチスターンに住む。パキスタン領にも多くのバルーチ人が住むが、イラン側の人口は約60万。トルコ系の部族としては北東部のゴルガーン、ホラサーンに住むトルクメン人がいる。彼らはアフガニスタン、アゼルバイジャンやトルクメニスタンなどの旧ソ連地域から独立した中央アジアの国々にもおり、総人口約100万と推定され、イラン領の人口は約10万。ほかにカシュカイ、アフシャール、シャーサバンなどの部族がいる。いまでも遊牧を続けているものが多く、カシュカイ人の場合には冬から夏の宿営地への移動経路は600キロメートルを超す。
[岡﨑正孝]
国語は印欧語派のペルシア語である。文字にはセム系のアラビア文字を用いている。このほか、印欧語派に属するクルド語、バルーチ語が話され、トルコ系住民の間ではトルクメン語、アゼリー語などトルコ語の方言、アラブ人の間ではアラビア語が話されている。
[岡﨑正孝]
工業化に伴い都市化が急速に進行し、都市人口の割合は総人口の約64.7%(2001)になった。大都市の人口増加は著しく、たとえばテヘランの人口は1956年の157万から1966年には298万、1976年445万、1996年には675万8845、2003年には719万に達した。この急激な膨張は深刻な住宅問題を引き起こし、これがイラン革命の要因の一つともなった。2001年推計の就業者人口に占める割合は、農業30%、鉱工業25%、サービス業45%となっている。革命前の1970年代に女性の職場進出が増大し、1976年の女性の就業人口は69万(農業外)に達した。国民所得は1963年次以降の「白色革命」により著しく伸びた。1人当り国民総所得(GNI)は3000ドル(2006)となっている。
パフラビー朝成立前までは教育は主としてイスラム教の聖職者の手によってマクタブ、マドレセと称する宗教学校で行われてきたが、レザー・シャーの時代に世俗化が進み、1943年には義務教育法が施行された。現在は五・三・三・四制の学制がとられている。5年間の小学校が義務教育で、生徒数は1963年の172万から1978年には520万に増えた。2001~2002年の生徒数は約751万人となっている。識字率は1956年に15%であったが、1966年には38%、1977年には63%、1994年には男性78.4%、女性65.8%になった。2003年の推計では、15歳以上の識字率は全人口の79.4%で、男性85.6%、女性73%となっている。1935年にテヘラン大学がイランで初めての大学として設立され、1994~1995年には、大学30、医科大学30、専門大学12となり、大学生数は29万人を数える。留学生も多く、約12万人がアメリカやイギリスなどの大学で学んでいる。
公用暦(イラン暦)は春分の日を歳首とし、預言者ムハンマド(マホメット)が迫害を逃れてメッカからメディナへ聖遷(ヒジュラ)した年、西暦622年を紀元とする太陽暦である。学年暦はイラン暦6月1日に始まるが、会計年度などはすべて春分の日から始まる。西暦622年を紀元とする太陰暦であるイスラム暦は宗教行事に関してのみ用いられてきたが、革命後これも公用暦となった。この暦は1年が354日で、月と季節は一定しない。休日はイスラム教の休日である金曜日。
[岡﨑正孝]
イランの全人口の99%はイスラム教徒であり、その大部分(89%)はシーア派を奉じ、トルクメン人、バルーチ人、クルド人など10%がスンニー派を奉じているにすぎない。宗教的少数派としてはユダヤ教徒やアルメニア人、アッシリア人などのキリスト教徒、ゾロアスター教徒(約3万人)、さらにバハーイ教徒もいる。バハーイ教はイスラムから派生、19世紀中ごろにおこったバーブ教から発展した宗教であり、イラン・イスラム共和国の下で非合法とされている。
[岡﨑正孝]
イラン人は偉大な歴史的栄光と輝かしい文化的遺産に大きな誇りをもっている。とりわけ彼らは詩を好み、10世紀に著されたフィルドウスィーの『王書』をはじめ、15世紀末までに輩出したウマル・アル・ハイヤーミー、ニザーミー、サーディー、ハーフィズなどの詩に強い愛着を抱いている。詩は知識層の独占ではなく、国民のあらゆる層に浸透している。一方、散文は詩ほど重要ではない。イランでもアラブ征服後、絵画は発達しなかったが、13世紀以降歴史書や詩書の挿絵としてミニアチュールが描かれるようになり、15~16世紀には巨匠ベヘザードUstād Kamāl Ad-dīn Behzād(1455?―1536?)など多くの偉大な画家が出た。ペルシアの陶器は輝かしい伝統をもち、とくにセルジューク時代に隆盛の極に達した。ペルシアじゅうたんは、16世紀にサファビー朝の保護を受けて高級品が織られ、世界的に有名になり、19世紀には欧米でペルシアじゅうたんの需要が高まった。現在でも手織りであり、高価で、イラン人の蓄財の手段となっている。イラン人のシーア派教徒は、シーア派のイマーム(指導者)、ホセインの殉教日(アーシューラー)には殉教をしのび、苦しみを身をもって味わうなど、宗教的に熱狂する。一方、古代イランからの伝統的な行事である新年の祝日(春分の日)は、全国民にとって最大の祝日である。イラン人は客を歓待し、礼儀正しく、儀礼好きである。また自尊心が高く、自己主張が強い。自然条件が厳しいため水と緑へのあこがれは強く、水や緑をたいせつにする。
新聞および月刊、週刊の雑誌は各種ある。これまで政治的空白期以外は言論・表現の自由はなかったが、大統領のハタミによる「現実路線」への改革で、かなり自由な発言が保障されるようになった。
[岡﨑正孝]
日本とイランの関係は、1880年(明治13)、通商条約締結のためイラン事情調査に吉田正春(1852―1921)、横山孫一郎らが派遣されたのに始まる。このとき条約は締結されなかったが、1896年には福島安正、1899年には家永豊吉(いえながとよきち)(1862―1936)が調査旅行をし、1902年(明治35)には井上雅二(まさじ)(1877―1947)が北イランを旅行している。1926年(大正15)に外交関係が結ばれ、領事館が開設された。第二次世界大戦中イランは連合国側となったため、1942年(昭和17)4月に国交断絶、1945年3月対日宣戦布告がなされた。戦後1953年(昭和28)に国交が回復され、1958年にはシャーが訪日、以来経済関係が強化された。日本にとってイランは重要な石油供給国であるほか、イラン革命前には消費財や資本財の輸出先として密接な関係にあった。1973年設立のイラン・ジャパン石油化学(IJPC)をはじめ、多くの合弁企業ができたが、革命後その大半は撤退した。1980年代なかごろから、出稼ぎ目的のイラン人不法滞在者が急増、1992年(平成4)9月、1974年に結ばれた査証免除協定を停止した(2004年末現在のイラン人の登録者数5403人、強制送還手続がとられた者の数673人)。
経済関係では、日本はイランの最大の輸出相手国で、そのほとんどが石油となっている。イランから日本への輸出額は127億ドル、日本からイランへの輸出額は13億ドル(2007)と、エネルギー資源に乏しい日本の大幅な輸入超過になっている。1979~1999年度までの直接投資は累計で5億2900万ドルである。1993年度以降の直接投資はないが、1999年8月外務大臣高村正彦(こうむらまさひこ)(1942― )がイランを訪問、ハタミ政権の支持を表明、凍結していたイラン南部のカールーン川ダム建設の円借款を再開した。2000年にはイランの大統領として初めてハタミが来日。その際、1999年9月に発見されたイランのアザデガン油田の開発に関する共同声明に署名が行われた。
[岡﨑正孝]
『ギルシュマン著、岡崎敬他訳『イランの古代文化』(1970・平凡社)』▽『前嶋信次編『西アジア史』(1972・山川出版社)』▽『加賀谷寛著『イラン現代史』(1975・近藤出版社)』▽『黒柳恒男著『イラン――栄光の過去と現在』(1975・泰流社)』▽『足利惇氏著『ペルシア帝国』(1977・講談社)』▽『加納弘勝著『イラン社会を解剖する』(1980・東京新聞出版局)』▽『勝藤猛・内記良一・岡﨑正孝編『イスラム世界――その歴史と文化』(1981・世界思想社)』▽『根岸富二郎・岡﨑正孝編『イラン――その国土と市場』(1981・科学新聞社)』▽『富田健次著『アーヤトッラーたちのイラン――イスラーム統治体制の矛盾と展開』(1993・第三書館)』▽『後藤晃・鈴木均編『中東における中央権力と地域性――イランとエジプト』(1997・アジア経済出版会)』▽『原隆一著『イランの水と社会』(1997・古今書院)』▽『上岡弘二編『(暮らしがわかるアジア読本)イラン』(1999・河出書房新社)』▽『岡﨑正孝著『カナート イランの地下水路』(2000・論創社)』▽『大西円著『イラン経済を解剖する』(2000・日本貿易振興会)』▽『原隆一・岩崎葉子編『イラン国民経済のダイナミズム』(2000・日本貿易振興会アジア経済研究所)』▽『ハンス・E・ヴルフ著、大東文化大学現代アジア研究所監修、原隆一・禿仁志・山内和也・深見和子訳『ペルシアの伝統技術――風土・歴史・職人』(2001・平凡社)』▽『中西久枝著『イスラームとモダニティ――現代イランの諸相』(2002・風媒社)』▽『岡田恵美子・北原圭一・鈴木珠里編著『イランを知るための65章』(2004・明石書店)』▽『酒井啓子・臼杵陽編『イスラーム地域の国家とナショナリズム』(2005・東京大学出版会)』▽『宮田律著『物語 イランの歴史――誇り高きペルシアの系譜』(中公新書)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
西アジアのイラン高原を中心とする地域。前8世紀末にメディアが建国され,ついで前6世紀にアケメネス朝が興り,西アジアの広大な地域を支配したが,前4世紀アレクサンドロス大王に滅ぼされ,セレウコス朝,パルティアが前3世紀から約500年間支配した。3世紀からのサーサーン朝期にはゾロアスター教が国教とされ,強勢と高度の文明を誇ったが,7世紀中葉アラブ・ムスリムの征服により崩壊。イラン系の人々はアラブの統治を受けた約2世紀の間にイスラームを受容し,イスラーム文化の発達に多大な貢献をした。9世紀半ば以降サッファール朝,サーマーン朝,ブワイフ朝などのイラン系国家が成立するようになったが,10世紀末からトルコ系のガズナ朝,セルジューク朝の支配下に置かれ,13世紀にはモンゴルの侵入とイル・ハン国の成立をみた。14世紀後半から15世紀には同じくモンゴル系のティムール帝国に支配された。16世紀初頭成立のサファヴィー朝は比較的安定した王朝で,十二イマーム派の国教化など重要な施策を行ったが,18世紀前半に崩壊。アフシャール朝,ザンド朝の支配ののち,18世紀末からトゥルクメン系のカージャール朝が統治したが,この間,英露帝国主義の好餌とされた。1925年に成立したパフラヴィー朝は急激な近代化・西洋化を進めたが,79年のイラン革命によって倒れ,イラン・イスラーム共和国が創設された。なお,国名は1935年,ペルシアからイランに改められた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…おもに欧米で用いられてきたイランの別称。もともとはアケメネス朝が拠ったイラン南西部の一地方名パールサPārsa(現代ペルシア語ではアラビア語化されたファールスFārsとして残っている)に由来するが,アケメネス朝のイラン高原統一によってイラン全体を含む概念に拡大された。…
※「イラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新