アメリカ映画。1916年製作。第1次世界大戦によって打撃を受けたヨーロッパ映画にかわって,世界の映画市場を一手に握ったハリウッドを象徴する超大作(13巻。フィルムの長さにして5200m,サイレントスピードによる上映で4時間半以上)。〈アメリカ映画の父〉D.W.グリフィスがここで用いた数多くの〈映画的〉技法は各国の映画に影響を与え,とくに革命後のソ連の若い映画作家たち(エイゼンシテイン,プドフキン,クレショフ)にとっては〈モンタージュ理論〉の形成を促すきっかけとなった。夫を無実の罪で捕らえられ,生まれたばかりの子どもも奪われて〈施設〉に預けられてしまう女性(メー・マーシュ)を描く現代アメリカ編〈母と法律〉に,古代バビロニア編〈バビロンの崩壊〉,古代エルサレム編〈キリストの受難〉,中世フランス編〈聖バルテルミーの大虐殺〉という三つの異なる時代の歴史的事件のエピソードをつけ加えて,人間の不寛容の事実を描く。グリフィスは時代から時代へと渡る編集(エイゼンシテインはこれを〈並行モンタージュ〉と呼んだ)によって四つの物語を同時進行させた。製作費は150万ドルとも250万ドルともいわれ,使われたネガフィルムが10万mに及び,古代バビロニア編のセット(6階建ての石造建築で奥行きが2kmという空前絶後の豪華セットで,撮影終了後,解体するのにも金がかかりすぎるためにそのまま放置された)製作費だけでも65万ドル,中世フランス編のエキストラ2500人のために宿泊施設とロケ地を結ぶ鉄道を敷いた。しかし,四つの異なる時代を組み合わせた壮大な構成と,〈狂乱のカットバックからクライマックスに至る〉(L. ハリウェル)前代未聞の話法は大衆に受け入れられず,興行的にも批評的にも惨敗。アメリカでは22週興行が続いたものの,それはグリフィスの前作《国民の創生》(1915)の44週の半分で,《国民の創生》の大ヒットによる収益をすべて注ぎこんだグリフィスは破産,19年に撮り足し分を加えて再編集した現代アメリカ編および古代バビロニア編の2編を独立作品として配給し,借金の返済に当てようとしたといわれるが,結局,その後ずっと膨大な負債をかかえこんだまま一生を終えた。なお,この映画の副題は〈いろいろな時代の愛の闘争〉で,バスター・キートンの《滑稽恋愛三代記》(1923。リバイバル公開時の邦題は《キートンの恋愛三代記》)はそのパロディとして知られる。
執筆者:宇田川 幸洋
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アメリカ映画。1916年作品。監督デビッド・ウォーク・グリフィス。人類の不寛容(イントレランス)の歴史を主題として、古代バビロンの崩壊、キリストの受難、中世パリのサン・バルテルミーの虐殺、現代の失業者の受苦、の四つの時代の物語を描く。この作品の特色は映画表現の独創性にあり、それはまず物語の構成法に発揮されている。四つの物語は時代に関係なく、同時に進行する。そして四つの小川が1本の大河となり、海に注ぎ込むように、それぞれの物語は錯綜(さくそう)し、ついに人類のドラマという大きな流れに統合される。この錯綜と統合を実現する編集技術、とくに急速なカット・バックはみごとで、極度のクローズ・アップやロング・ショット、クレーンを使った俯瞰(ふかん)撮影、あるいは長距離の移動撮影などの撮影技術とともに、映画独自の表現技術を集大成化したもので、ソビエト映画や日本映画をはじめ全世界に影響を及ぼした。
[山本喜久男]
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…いずれも2時間をこえる超大作で,このような長編映画の成功が短編主体だったアメリカ映画に長編映画製作の大きな刺激と糸口を与えたのである。なかでもD.W.グリフィスは《カビリア》の〈壮麗な〉スペクタクルと映画的テクニックに触発されて,《イントレランス》(1916)の〈バビロニア編〉を撮ったといわれる。
[ダンヌンツィオ映画]
当時イタリアでは〈官能的な濃艶な恋愛文学〉の作家で詩人であるG.ダンヌンツィオがもっとも大きな人気を誇り,映画の分野でも〈ダンヌンツィオ的な芸術環境〉(〈ダンヌンツィオ主義〉などと呼ばれた)が隆盛をきわめていた。…
…5歳のときから舞台に立ち,メリー・ピックフォードの紹介で妹のドロシーとともに1912年,グリフィスのバイオグラフ社に入り,《見えざる敵》でデビュー。15年,危地におちる南部の名家の令嬢を演じた《国民の創生》の大ヒットで彼女の名も世界的に有名になり,《イントレランス》(1916)では四つのエピソードをつなぐかなめとなる揺籃をゆする象徴的な母のイメージを演じた。《散り行く花》(1919)では〈白いつぼみ〉と呼ばれるかれんな貧しい少女を,《東への道》(1920)では心ない中傷に悩まされる薄幸な娘を演じた。…
…グリフィスはストーリーを〈映画のことば〉で物語り,〈ストーリー・ピクチャー〉を〈モーション・ピクチャー〉へと発展させた。そして,《国民の創生》とこれに続く《イントレランス》(1916)は,フランスのフォトジェニー論やソ連のモンタージュ理論に影響をあたえ,映画芸術の基礎を築いた。ルネ・クレールは〈映画芸術は,グリフィス以後なんらの本質的なものを付け加えていない〉とまでいったほどである。…
…それは,奇想天外なアイデアをもとにした,論理の継続がなくその場かぎりのアクションで終わる〈アクション・コミック〉で,映画だけができる超現実的なファンタジーを具現して見せた。 第1次大戦を契機にアメリカ映画が世界の映画をリードしたが,D.W.グリフィスの《国民の創生》(1915)と《イントレランス》(1916)およびトーマス・H.インス(1882‐1924)の《シビリゼーション》(1916)は,〈クローズアップ〉〈カット・バック〉などの映画的技巧を完成して〈サイレント映画〉の表現技術を集大成した。それは,写真的な〈模写〉から芸術的な〈創造〉への第一歩であった。…
…18年に《裁判長》で監督となる。つづいて,D.W.グリフィス監督の《イントレランス》(1916)の影響をうけ,四つの時代における人間の背信行為を描いた《サタンの日記の数頁》(1919)を撮る。《牧師の未亡人》(1920)はスウェーデンで,《ミヒャエル》(1924)はドイツで,《あるじ》(1925)はデンマークに戻って,《裁かるるジャンヌ》はフランス,トーキー第1作の《吸血鬼》(1932)はドイツとフランスというぐあいに国際的監督として活躍した。…
…こうした人材によってつくられたのが,松竹キネマ研究所の第1回作品《路上の霊魂》(1921)である。小山内薫総指揮・牛原虚彦脚本・村田実監督によるこの映画は,シュミットボンの《巷の子》とゴーリキーの《どん底》に取材したもので,対立する父と子やどん底の人々を並行的に描く手法,寛容と不寛容という主題において,明らかにD.W.グリフィスの《イントレランス》(1916)の影響が見られ,日本映画としては画期的なものであったが,翻訳劇臭の強さなどが目だって,実験的試みの域を出ず,興行的にも不振に終わった。松竹キネマ研究所は,つづいて牛原虚彦の《山暮るゝ》と村田実の《君よ知らずや》をつくったのち,21年夏に閉鎖された。…
※「イントレランス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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