インドシナ戦争は三つの顔をもっていた。第一はフランス側が旧植民地を回復しようとする植民地主義戦争である。第二はベトナム側からみてのもので、すでに独立を宣言し(1945年9月2日)新しい国家体制の整備を急ぎつつあった民族国家の主権と独立を守るための戦いであった。ベトナムがホー・チ・ミンの下にベトミン(ベトナム独立同盟)という民族連合戦線組織をつくり、社会主義国家を建設しつつ戦ったことである。第三は第二次世界大戦後の国際政治からみてのもので、インドシナ戦争は、米ソ対立がようやく冷戦の形を整えてくる時代の局地戦争であったことである。この局地戦争を、西側を代表して戦うのはフランスだったが、その背後にはアメリカがあり、アメリカは共産主義封じ込め政策の一環としてフランスに大量の兵器を送って支援した。しかし、それは共産主義勢力を硬化させ、冷戦を激化させることになった。
インドシナ戦争は三つの段階に分かれる。第1段階(1946年12月~47年12月)はフランス側の攻勢期、ベトナム側の守勢期(防御期)である。インドシナは太平洋戦争中、日本軍の支配下に置かれたが、日本の無条件降伏後、ポツダム会談の決定(45年8月2日)に基づいて、北緯16度線以北のベトナムの北半分を国民政府軍、同線以南のベトナムの南半分をイギリス連邦軍が占領したあと、フランスの管理に移された。フランスは兵力を増派して、植民地たるインドシナの早急な武力回復を図った。これは当然にベトナム側の反発を生んだ。ベトナムはすでにベトナム民主共和国の成立を主張していたからである。かくて両軍の武力衝突が始まり、フランス側は46年11月20日ハイフォンを砲撃、12月19日首都ハノイを攻撃した。力の足りないベトナム側はトンキン・デルタの主要地区から後退し、ベトバク地区の山岳地帯に拠(よ)り、もっぱらゲリラ戦によってフランス軍に対抗した。
ついで第2段階(1948年1月~50年9月)に移る。ベトナム側は徐々に力を蓄えて、ベトナム、フランスの戦力にバランスがとれる。均衡の段階である。やがて最後の第3段階(50年9月~54年7月)がくる。総反攻の段階である。ベトナム側は積極的攻勢に出てフランス側の陣地を次々に奪回し、ついにディエン・ビエン・フーにフランス軍を追い込み、降伏させた。54年5月7日である。かくて同年7月21日、ジュネーブでベトナム、ラオス、カンボジアにおける敵対行為の終止に関する協定(ジュネーブ協定)が締結され、フランス軍はインドシナからことごとく撤退し、フランスの植民地支配に終止符が打たれた。
1946年から54年に至る8年間の戦争で、フランスは最高時55万6000人の兵力を動員し、81億2000万ドルの戦費を使い、17万2000人の死傷者を出してインドシナから総退場した。アメリカはフランスに対し26億3500万ドルの援助を与えた。これはフランスの全戦費の30%余にあたる。これに対しベトナム(ベトナム民主共和国)は最高時29万1000人の兵力を第一線に配置し、総力をあげて戦い、勝利した。これによって、ベトナムはインドシナの大半を事実上コントロール下に入れた。ところがジュネーブ協定では、ベトナムは北緯17度線をもって二分され、ベトナム側(ベトナム民主共和国)は同線以北の支配権を得たにとどまり、同線以南はサイゴン政権(大統領はゴ・ジン・ジエム)の管轄下に入れられた。インドシナ戦争がフランスの植民地主義戦争、ベトナムの民族独立戦争だけであったならば、フランスの敗北、ベトナムの勝利によってベトナムの統一と独立は実現したであろう。そうならなかったのは、インドシナ戦争が冷戦下の局地戦争だったからであろう。アメリカがフランスの戦いにてこ入れし、ベトナムの支配力を北緯17度線以北に限定しようとし、さらに1954年9月SEATO(シアトー)(東南アジア条約機構)をつくって、その防衛範囲にインドシナを入れたのは、共産主義勢力のそれ以上の進出と膨張をあくまでも阻止するためであった。まさに共産主義封じ込め政策の展開である。それだけに、共産主義封じ込め政策を完成させるためには、アメリカは自らの力でこの政策を追求しなければならなかったし、ベトナムの統一を達成するためにはベトナムはもう一つの戦いが必要であった。それが次のベトナム戦争であった。
[丸山静雄]
『ボー・グェン・ザップ著、真保潤一郎訳『人民の戦争・人民の軍隊』(1965・弘文堂)』▽『エレン・ハマー著、河合伸訳『インドシナ現代史』(1970・みすず書房)』▽『ベルナール・B・ファル編、内山 敏訳『ホー・チミン語録』(1968・河出書房新社)』▽『丸山静雄著『インドシナ物語』(1981・講談社)』
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第二次世界大戦後,インドシナ3国(ベトナム,カンボジア,ラオス)の独立を求める勢力と,旧宗主国のフランスとの間に戦われた戦争。インドシナでは,1945年9月のベトナム民主共和国の独立宣言など,大戦終結直後から独立を求める動きが活発化したが,フランスはこれを容認せず,46年12月にはベトナム民主共和国との間で全面的な戦争となり,戦火はインドシナ全域に及んだ。フランスは,旧皇帝のバオダイを擁立してベトナム国を樹立し,民主共和国と対抗した。49年中華人民共和国が生まれると,この戦争は冷戦の東西対立に巻き込まれて長期化。冷戦に緊張緩和の動きが出た54年に,ディエンビエンフーでのフランス軍の敗北もあって,ジュネーヴ協定で停戦が実現しフランスの支配は終結した。この45~54年の戦争を第1次インドシナ戦争とし,ベトナム戦争がカンボジアにも波及した70~75年を第2次インドシナ戦争,78~79年のベトナム,カンボジア,中国の抗争を第3次インドシナ戦争という言い方もある。
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…東南アジア唯一の中国文化圏であり,その意味では東アジアの東南端ともいえる。第2次大戦前はフランスの植民地,戦時中は日本軍の進駐を経て,戦後対仏独立戦争(第1次インドシナ戦争)ののちも,国土はベトナム民主共和国とベトナム共和国に分断され,アメリカ軍の干渉によって15年にわたる第2次インドシナ戦争を戦わされたが,1976年統一され,単一の社会主義共和国を形成した。かつては越南と呼ばれた。…
…ベトナム戦争(1960‐75年にわたる第2次インドシナ戦争)に対する反戦運動。それまでの反戦運動に比し,ベトナム反戦運動は,質的にも量的にも,はるかに際だったものであった。…
…44年パリ解放後,臨時政府の国民経済相となり,また国際連合経済社会理事会などでも活動するが,戦後のインフレーション対策を巡ってド・ゴール首相と対立し,45年閣僚を辞任。第四共和政成立後は,とくにインドシナ戦争を批判して独自の潮流を形成,54年6月議会の圧倒的多数の信任を得て首相となり,ジュネーブ協定(7月21日調印)によりインドシナ戦争を終結させた。55年首相を辞任,56年モレ内閣の国務相となる。…
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[1864~1915]ドイツの精神医学者。クレペリンのもとで研究に従事。1906年、記憶障害に始まって認知機能が急速に低下し、発症から約10年で死亡に至った50代女性患者の症例を報告。クレペリンによっ...
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