キリスト教プロテスタント教会の一派メソディスト運動Methodismの祖。オックスフォード大学に学び,はじめ英国国教会の聖職者であった。オックスフォードの中に信仰的に熱心な友人たちとともに〈ホーリー・クラブHoly Club〉をつくった。このグループは〈メソディスト〉ともよばれ,それがのちにウェスリーが創設するメソディズムの名前となっていく。このグループには弟のチャールズ・ウェスリーやホイットフィールドがいて,メソディズム推進の協力者となった。1735-37年アメリカのジョージア州に伝道にいく。38年敬虔主義的キリスト教の団体モラビア兄弟団を訪れ,さらにロンドンのオールダズゲートの兄弟団の集会でルターの《ローマ人への手紙講解》の序文の朗読を聞き,〈わが心あやしく燃ゆ〉という経験を通して回心した。それ以来彼は〈できるかぎり生きた実践的宗教を推進し,そして神の恵みによって人間の心の中に神の生命を生み,保ち,増し,加えること〉を目標に,強力な伝道活動にはいっていった。ウェスリーは英国国教会内部で伝道活動をすることを考えていたが,国教会がそれを受けいれなかったので,野外伝道を試み,平均年5000km以上の馬上旅行をもってグレート・ブリテン全土,アメリカにまで福音を伝えた。91年3月2日に死んだが,そのときメソディストの信者総数は13万余,伝道者数は541名という驚異的発展をとげていた。この急速な発展のため,この運動は国教会内にとどまることができなくなり,コークThomas Coke(1747-1814)を監督に任命,さらにアズベリーFrancis Asbury(1745-1816)に按手礼をさずけ,独立したひとつの教派となっていった。ウェスリーの思想はカルビニズムに反対したアルミニウス主義の傾向を受けつぎ,信仰への自由意志,キリスト者の完全性の可能性,普遍的救済を重んじた。そのためカルビニズムに立つホイットフィールドとはのちに分裂した。
→メソディスト
執筆者:大木 英夫
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…18世紀に入って啓蒙主義の時代を迎えると,啓示や奇跡を否定し,宗教を理性によって理解しようという理神論者が伝統主義者との間に論争を引き起こした。他方,一般的な宗教的情熱の冷却によって教会生活は各派とも低調をきわめたが,都市に集中し教会の手の届かなくなった労働者や貧民に,救いの手を伸ばし回心と聖化を説いたのがウェスリーであった。彼のメソディスト運動はやがて国教会の外に出て一教派をつくったが,イギリスの信仰復興に大きく寄与した。…
…プロテスタントの最大教派の一つ。創立者はイギリスのウェスリーJohn Wesley。英国国教会の司祭として母校オックスフォード大学で教えていたとき,弟チャールズらとともに〈聖書に示されている方法methodに従って生きる〉ことを目的とした宗教クラブに属したため,メソディストと呼ばれるようになった。…
※「ウェスリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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